旅のウンチク

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タケノコ窃盗犯供述書

2017年01月24日 | ライフスタイル
 私が子供の頃はまだ”空き地”というものが周囲に存在していました。小学校に上がる前まで住んでいた環境は琵琶湖にほど近い長屋。父親の勤務先の社宅だったのですが、同じ”長屋”に住んでいるのは皆同じような世代の人達で、同じような世代の子供たちも一緒におりました。当時、サラリーマンの初任給は3万円位だったとの話を後になって聞きましたが、結構生活は厳しかったようです。

 同じような世代の中で、私だけ1まわり年齢が低かったおかげで”お下がり”がもらい放題。自分の姉や近所の子供の着れなくなった服がよりどりみどり。その事を”自分は貰ってばかりで得だなぁ”と考えるような素朴な子供(?)でした。

 みんながそんな生活をおくっていた時代ですから、日曜日に皆で”ワラビ採り”に山へ入ったり、近所の空き地で土筆を探したりするのは私達子供にとっては”楽しみ”でしたが、そこへ子供を連れて行く親たちにとっては”生活の糧”だったのかもしれません。

 土筆をたくさん集めてきて母と姉と私で”ハカマ”をとったり、灰汁につけてアク抜きしたり。あんなに沢山集めてきた土筆にあんなに手間をかけたのに、佃煮にしてみると驚くほど嵩が減ってしまっていたりした事は今でも大切な想い出です。

 さて、そんなわけで、世の中に”生えている”もののうち、食べられる物に対して敏感に育った私達。姉と二人で空き地で沢山土筆を集めていった時は母は本当に喜んでくれたのです。だからある日、隣の大きな屋敷(空き家になっていました)の敷地内の竹やぶに土から頭を出しかけているタケノコを見つけた時には、どんなに母が喜んでくれるか、勝手に想像と妄想を膨らませたものでした。

 隣の屋敷の敷地は、そこが空き家になる前からその近所の子供の良い遊び場になっていて、空き家になってしまった後は、我々にとっては完全に自分達の縄張り、侵入できないようにフェンスがあるのですが弱くなったところから穴を広げて我々の侵入経路を勝手に作っていました。厳しかった両親も、この辺についてはあまりシリアスに考えていなかったようで、不法侵入して遊んでいても咎められることはありませんでした。

 タケノコを見つけた姉と私は雨の降る日に移植ゴテと傘を手に収穫に向かいます。竹やぶというのは見た目よりも掘り返すのは面倒なもの。竹の根が縦横無尽に走っていて我々の収穫を妨げます。まだ非力な私は姉に傘をさしかけて専ら姉が掘るのですが遅々として進みません。
 
 しばらくして交代。姉から預かった移植ゴテをタケノコのすぐ近くに差し込んでグッと全体重をかけたら移植ゴテが曲がってしまいました。その後、この時の経験をきっかけに、移植ゴテの取っ手とコテ部の境目は曲がりやすくて、少し値のはる移植ゴテにはこの部分に補強が入っている事を知りましたが、そんな高級なものは当時は我が家にありませんでした。
 
 曲がってしまった取っ手をなんとか曲げなおしたり、悪戦苦闘を繰り返し、長い時間をかけてタケノコを収穫することができた頃には私も姉も雨と汗にまみれ、泥にもまみれて壮絶な姿。それでも母の喜ぶ姿が目に浮かびます。

 タケノコと取っ手がクネクネになった移植ゴテを持って家へ帰り、泥まみれの姿で得意げに母に今日の収穫物を差し出す私達。
 ”タケノコ取ってきたよ”
 ”どこで取ってきたの?”
 ”〇〇さんちの竹やぶ”

 次の瞬間、目にも留まらぬ早さでブリキでできた台所の洗い桶が私と姉の頭に振り下ろされたのです。

 普段から、この洗桶は私達を叩く道具としての機能も有していて、原型を留めないほど変形していたのですが更に変形が進んだことは間違いありません。

 ”人の家のものをかってにとってきたらあかん!!”
 
 まあ、言われてみれば当たり前。タケノコ泥棒ですから。==>あ、これ、そろそろ時効ですよね。
 でも、母の喜ぶ姿を見たい一心で雨の中何時間もかけてタケノコを掘った私達アホな姉弟。結局、喜ぶどころか激怒する母の姿を目にすることになったのは衝撃的な出来事でした。

 随分大人になって、たまたま実家に家族が集った際に、このタケノコの事を姉に覚えてるか尋ねてみると、覚えているとのこと。母も覚えていたので、聞いてみました。

 ”ところで、メチャメチャ怒られた事は覚えているけれど、あのときのタケノコはどうなった?”

 ”そんなの、食べたに決まってるでしょ。もう一回植えるわけにもいかないし、捨てるのはもったいないじゃない。”

 日本の心、"MOTTAINAI"に乾杯。


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