海辺の町から

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お母さん

2021-07-12 13:07:41 | 日記

  今朝の収穫物 子供ピーマンは調理済みです


  知人の知人からのお裾分け 大玉は初物です


母の事書いておきたいなあと思うのは 私自身もそれなりの年齢になったからだろうか
子や孫達に取り立てて話したことは無いけれど母の存在を知って欲しいからです。
明治44年生まれの母 8人兄弟の末っ子として生まれ幼くして母親を亡くした。
母の父親は京都で財をなし100組からの仲人をしたという地元では知られた人だったそうです。
未だ暮らしの豊かだった頃姉たちは大きな家に嫁ぎ母の父親が米相場に手を出し
蔵の中に一杯あったお米は一夜にして空っぽになったという
大学に行きたかった兄達の夢を砕き以来父親と兄達の関係が悪くなり
兄達に責められている父親が可哀想でならなかったと
以前放送された朝ドラを見ながら五代さんと同じ時代を生きていたのではと
思いながら見ていたのです。
年の離れた末っ子の母が最後の日まで父親と暮らしたそうです。
そんな母も向学心の強い人で助産師さんに成りたかったらしく勉強していたのですが
昔人間の父親が許してくれず嫁入りの習い事をさせられたらしいです。
私には生まれたときから両親ともに親は既に無く祖父母を知らずに育ちました。

母も秋が来ると逝って20年が来ます91の歳でした。
涙もろく浪花節の世界を生きて来た人です。
困っている人を見捨てることが出来ず返ってこないお金をどれ程つぎ込んだでしょうか
父が逝ってからの20数年一人で頑張っていました
迷惑を掛けたくないと口癖に言っていた母ですが亡くなる数ヶ月間私宅で暮らしました。
夫の母に遠慮していた母が一層小さくなり「迷惑掛けてごめんね」ってばかり言っていた母
「私のお母さんはお母さんなのよ 遠慮すること何にも無いのよ」
長男出産で苦しんでいたとき夫の母と夫は親戚宅へ 母は神社にお百度参りをしていました。
親なればこそと思った物でした。
5日間の陣痛の末仮死産で暮れに生まれた長男 紙おむつなど未だ普及していない時代です
寒さで赤くなっていた母の手母手作りのオシメを洗濯してくれていました。
産後21日間は大事を取っておかないと後々に響くのでと言っていた母
未だ持って元気なのはその時の母のお陰と思っています。
母乳が出るようにと沢山の料理の数々有難かったです。
母の愛とは見返りを求めない一方通行の愛を沢山与えてくれました。
親の姿を見ながら私も息子達へ 息子達も又子供達へ繋がっていくことを願いつつ
海に浮かんでいた母の最期が未だに理解できずにいます
おかあさーん私も少しはお母さんしていますよ
好き嫌いもお母さんそっくりで。お父さんと見ていて下さいね。