Dr.K の日記

日々の出来事を中心に、時々、好きな古伊万里について語ります。

信長、鉄砲で君臨する

2023年01月23日 14時50分41秒 | 読書

 「信長、鉄砲で君臨する」(門井慶喜著 祥伝社 令和4年2月20日初版第1刷発行)を読みました。

 

 

 この本は、鉄砲伝来から普及までを、織田信長に絡めて書いたものでした。特に、鉄砲が伝来した頃の状況が詳しく書いてありました。

 鉄砲は、ポルトガルの商人が乗った中国のジャンク船が種子島に漂着し、そのポルトガルの商人から伝えられたということになっていますが、この本では、正規の来航ではないので、漂着という体裁をとったものだとしています。この島へ初めて来る船は、正式な停泊許可をもらうのが面倒なため、その手間を省くために、ときどきそのような手を使っていたということなんですね。

 それはともかく、そのポルトガルの商人から、種子島の領主の種子島時尭(ときたか)は2丁の鉄砲を買い求めます。

 しかし、鉄砲が非常に高額だったため、種子島時尭はその追加の購入を諦め、製造することを家臣に命じます。

 そんなことで、2丁の内の1丁は製造の見本とするために島内に残しますが、もう1丁は種子島に来訪していた本土の紀伊国の根来寺の僧に贈呈しています。

 間もなく、種子島ではその製造に成功し、その技法は根来寺にも伝わっていきます。

 そうして、鉄砲は、急速に、種子島では勿論のこと、根来寺、国友村、堺などの各地で作られるようになっていったとのことです。

 そうした状況のなか、信長は、早くから鉄砲に目をつけ、当初は、多くを根来寺から買い付けていたということです。

 こうして、鉄砲は国内で作られるようにはなりましたが、その普及には問題がありました。

 それは、火薬の問題でした。火薬は、木炭、硫黄、硝石の3種を混合させて作るわけですが、硝石は国内では産出しないので輸入しなければならなかったからです。鉄砲は、火薬が無ければ、弾丸も出ませんから、玩具も同然ですものね。

 その点、交易も手がける堺が有利になってきます。鉄砲の製造元にもなった堺は、硝石の独占的な輸入ルートも確保するようになり、鉄砲とセットで高額で売ることが出来るようになったわけですね。

 堺は、信長が堺を支配する条件として(信長が求める矢銭を支払う代償として)、信長が鉄砲を火薬とセットで堺から独占的に買い求めることを要求し、信長はそれを認めます。

 そうして、堺は、信長に大量の鉄砲と火薬を売ることによってますます裕福となり、信長は大量の鉄砲と火薬を手に入れることによってますます強くなっていったわけですね。

 そのようなことで、鉄砲はますます普及していきますが、信長は、本能寺に於いて、鉄砲の名手でもあった明智光秀が率いる鉄砲隊によって滅ぼされてしまうわけですね。

 本書は、以上のような流れを詳細に書いていました。特に、鉄砲が種子島に伝来した頃の状況が詳しく書かれていました。


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12 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Dr.Kさんへ (遅生)
2023-01-23 17:13:52
根来寺は根来塗りでも有名ですよね。鉄砲と漆器、当時の高度技術がどうしてこの寺で花開いたのか興味深いです。

天然の硝石が採れなかった日本ですが、江戸時代、飛騨から越中にかけての合掌造りの集落(隠れ里)で秘かに製造されていたらしいです。土中の硝化バクテリアによって尿などからのアンモニアが酸化されて硝石が生成されるというものです。他の地方でも同様の言い伝えが残っているようです。詳しいことはわかっていません。
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遅生さんへ (Dr.K)
2023-01-23 19:49:08
根来寺は根来塗りでも有名ですよね。
この本によりますと、
「・・・何しろ根来寺というのは、ただの寺ではない。もともとは平安時代初期の僧・空海が高野山に開創した真言宗・金剛峯寺から分離独立したものであるが、やがて本寺をもしのぐようになった。
 鉄砲伝来のこの時期には、坊舎堂塔は二千をこえ、多数の僧兵を擁している。大名なみの軍事力である。禰寝、島津ごとき田舎豪族など足元にも及ばぬであろうこと、ちょうど天台宗における比叡山のごとしである。」(P.93)
とありました。
当時は、凄い力を持っていたのですね。それで、鉄砲とか漆器というような当時の高度な技術が花開いたのですね(^_^)

この本でも、「尿などからのアンモニアが酸化されて硝石が生成される」ことは、広く知られていたとは書いてありました。
しかし、その量たるや微々たるものですから、どうしても、海外からの輸入にたよったようですね。
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Unknown (pada)
2023-01-24 11:32:29
種子島に渡った鉄砲の一丁が根来寺に渡ると言う所がしれませんでした、これも縁ですね。これが鉄砲隊である根来衆の僧兵となり秀吉と対立し、寺を焼かれ散リ散りに、あとで家康に拾われて鉄砲隊になる~不思議なものです。鉄砲と言えば名手~明智流の光秀ですが、この関係も出てきそうですね。
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padaさんへ (Dr.K)
2023-01-24 16:09:03
種子島に伝来した2丁の鉄砲のうちの1丁が根来寺に渡ったのですね。
そして、早くから鉄砲の製作に取り組んだのですね。
そんなところから、鉄砲衆も組織されていったのですね。
この本を読んで、鉄砲にまつわる、そのような流れを知りました(^_^)

明智光秀の明智流については、この本では、本能寺の変で終わっていますから、その後のことは書かれていませんので分かりませんが、関係が出てきそうですね(^_^)
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Unknown (クリン)
2023-01-25 10:13:09
このご本のことを話したら「その中国のジャンク船は王直っていう倭寇の船なんだよ」って、うちのチットが目をキラキラさせて言ってました⤴✨🐻
チットは歴女なので、根来寺にも行ってみたいそうです💡
クリンたち、「武田の騎馬隊」がアノヤロー(織田の鉄砲隊)に負けたのがゆるせません🔥
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クリンさんへ (Dr.K)
2023-01-25 12:04:16
そうですね。この本でも、倭寇の頭目の王直(号:五峰)がポルトガルの商人2人を連れてやってきたとしています。
チットさんは歴史に詳しいですね(^-^*)

チットさんは、凄い歴女なんですね!
当時の根来寺というのは、凄い権勢を誇っていたようですね。
今でも、その面影を残しているかもしれませんね。
歴女には魅力的な場所かもしれませんね(^_^)


クリンさん達は、「「武田の騎馬隊」がアノヤロー(織田の鉄砲隊)に負けたのがゆるせません」か、、、。
でも、私は、織田信長が大好きなものですから、許せるんです(笑)。
彼は、時代の先端をゆく鉄砲という武器を使いこなしたから勝ったのでしょうね。
時の流れでもあるでしょうか、、。
武田家は、茨城県ひたちなか市の「武田」の地から移って行ったと言われていますので、私は、個人的には武田家に親近感を覚えてはいるのですが、、、。
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Unknown (不あがり)
2023-01-25 12:14:37
dr.k様へ
信長って時代の流れを良く読んだ人ですよね。新しい物を素早く、手に入れ、迷うことなく進んだ男と思います。私、勝手に思っているのですが。バイリンガルだったのではとまで考えております。あまりにも動きが早かったので。恐れられ殺されたのではと考えております。有難うございます。
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不あがりさんへ (Dr.K)
2023-01-25 17:34:14
私も、信長は、西洋文明に接し、西洋文明を理解し、それを素早く取り入れていったのだと思います。
その過程で、西洋が東洋を植民地化しようとしていることに気付き、そうはさせてはいけないと感じてきたのではないかと思います。
しかし、それでは西洋人の思い通りにはならなくなるので、邪魔になり殺されたという一面はあるのではないかと思います。
本能寺の変が宣教師による単独行動だったのかどうかは分かりませんが、宣教師が何らかの関わりをもっていたのではないかと思っています。
本能寺の変は、そうした世界史的な観点からの考察も必要ですよね。
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Unknown (不あがり)
2023-01-26 08:45:46
dr.k様へ
宣教師は東南アジアに逃亡しますが。ポルトガル領がスペインの負けてスペイン領となり。入国出来ず捕まっており。その後不明、或いは殺されております。おそらく、宣教師による信長暗殺が知られていた可能性がある。それを知っていたのはスペイン国王か。日本で生き残った、秀吉か家康が宣教師を入国させないように手を打っていたのでは。普通に考えると秀吉となり、共同謀議に家康を巻き込んだのでは。東南アジアアジアルート知った伊達政宗は支倉常長をスペインに送り火薬ルートを目指すが失敗となる。如何でしょうか。それと本能寺って、1.2キロ四方の寺です。ああも簡単に信長を殺すには爆殺以外にはない。京都は信長を守る屋敷があり。信長勢の人間がいたはずです。事件が起きても動くなと命令した奴がいる。信長にとって一番安全な場所であったはずです。本能寺で事が起きれば誰かが動いたはずです。それが動かなかったのは何故か。強い力働いていたと思われます。有難うございます。
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Unknown (nazonazo3)
2023-01-26 12:44:23
今は昔、自民党と日経連、医師会のようですね。時の権力者は利権のつかみ合いです。
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