このところ、ブログでの古伊万里の紹介が生活の中心となり、そのための準備などに時間を取られ、読書は殆どしていませんでした(~_~;)
しかし、紹介すべき古伊万里のストックも枯渇してしまいましたので、また、読書を続けることといたしました。
そんななか、石原慎太郎さんが亡くなり、それを契機に、新聞などで石原慎太郎さんの著作物が何冊か紹介されるようになりました。
そのうちの1冊に「天才」という小説が紹介されていたわけですが、それを読んでみようと思いたち、さっそく、図書館から借りてきたわけです。
石原慎太郎著 幻冬舎 2016年1月第1刷発行
もっとも、「天才」につきましては、以前から、その存在は知ってはいましたが、何故か、石原慎太郎さんがご存命中には読む気になれずにいたものです。
ところで、ご承知のとおり、「天才」は、石原慎太郎さんが田中角栄氏に成り代わって、第1人称で書いたものですね。
田中角栄氏につきましては、あまりにも有名ですから、いろんなエピソードも含めて、広く知られているところですので、ここでの内容の紹介は省略したいと思います。
ただ、この本を読んだ感想としましては、現代政治史の一端を勉強させてもらったな~という印象でした。
なお、この「天才」には、最後に、「長い後書き」という部分があり、ここに、石原慎太郎さんの田中角栄氏評が書かれていますので、そのうちの一部を紹介し、この本の紹介とさせていただきます。
「特に通産大臣として彼が行った種々の日米交渉が証するものは、彼はよい意味でのナショナリスト、つまり愛国者だったということだ。彼は雪に埋もれる裏日本の復権を目指したように、故郷への愛着と同じようにこの国にも愛着していたということだ。
アメリカのメジャーに依らぬ資源外交の展開もその典型だと思う。
そしてそれ故にアメリカの逆鱗に触れ、アメリカは策を講じたロッキード事件によって彼を葬ったのだった。私は国会議員の中で唯一人外国人記者クラブのメンバーだったが、あの事件の頃、今ではほとんど姿を消してしまった知己の、古参のアメリカ人記者が、アメリカの刑法では許される免責証言なるものがこの日本でも適用され、それへの反対尋問が許されずに終わった裁判の実態に彼等のすべてが驚き、この国の在り方に疑義を示していたのを覚えている。そして当時の私もまた彼に対するアメリカの策略に洗脳された一人だったことを痛感している。
彼のような天才が政治家として復権し、未だに生きていたならと思うことが多々ある。・・・・」(P.207~208)
「いずれにせよ、私たちは田中角栄という未曾有の天才をアメリカという私たちの年来の支配者の策謀で失ってしまったのだ。歴史への回顧に、もしもという言葉は禁句だとしても、無慈悲に奪われてしまった田中角栄という天才の人生は、この国にとって実は掛け替えのないものだったということを改めて知ることは、決して意味のないことではありはしまい。」(P.216~217)