Dr.K の日記

日々の出来事を中心に、時々、好きな古伊万里について語ります。

白鳥の飛来(その5)

2024年03月30日 16時39分47秒 | 近くの池の白鳥

 今日は、久しぶりに、我が家の近くに飛来している白鳥の様子を見に行ってきました。

 例年、桜の咲く頃になると北に帰って行くのですが、今年の状況はどうなのかと気になり、その様子を見に行ってきたわけです。

 今年は、桜の開花が遅かったですから、或いは、もう、全羽が帰ってしまって、1羽もいないのではないかと思ったのですが、まだ12羽残っていました。

 前回(2月12日)見に行ったときは80~90羽いましたから、大部分は帰って行ったわけですね。間もなく、全羽帰って行くことでしょう。

 例年、11月の中旬頃には、また飛来してきますから、それまでのお別れになりますね。

 

 

早咲きの桜は、もう、かなり咲いていますが、ソメイヨシノは、開花したばかりです。

 

 

開花したばかりのソメイヨシノの下でくつろぐ白鳥(その1)

 

 

開花したばかりのソメイヨシノの下でくつろぐ白鳥(その2)

 

 

 以下、北帰行を前に、くつろぐ白鳥達の姿です。


墓参

2024年03月22日 16時40分39秒 | 墓参・法事・葬儀

 今日は、墓参に行ってきました。

 何時もは、お彼岸の中日までには墓参を済ますことが多いのですが、今回は、ちょっと遅くなってしまいました(~_~;)

 といいますのは、今年度は町内会の監事を仰せつかっているわけですが、当町内会は、例年、年度末に会計監査を実施していますので、ちょうど、その時期と重なってしまったため、お彼岸の中日までに墓参を済ますことが出来なかったからです(><)

 もっとも、町内会の監事の仕事など、例年ですと、監査調書に押印する程度の仕事なわけですが、今年度は、運悪く、執行部の能力が劣り、決算書の出来が悪いため、指摘箇所が多く、その修正に手間取ってしまったからです(><)

 そんなことで、遅くなりましたが、今日、墓参に出かけたわけです。

 幸い、今日は、お天気は良かったのですが、風の強い、寒い日ではありました。また、お彼岸の中日を過ぎていて、墓地は閑散としていて、寒々とした感じでもありました(~_~;)

 私の場合は、毎回、同じようなコースをぐるっと巡って、車で120~130km程の行程で墓参をしてくるのですが、今回は、以上のような状況だったものですから、脇目も振らずに一目散にという感じで、さっさと巡ってきました。

 何時ものように、まず、朝9時頃出発し、妻の実家の墓地へと向かい、妻の実家の墓参りを済ませました。次いで、妻の実家へと向かい、そこの仏前で焼香を済ませました。

 そこで少々雑談をしたのち、そこから、妻の母方の先祖の眠る墓と妻の叔母夫婦の眠る墓の墓参を済ませ、次に、私の実家の墓へと向かいました。

 何時ものことながら、途中、昼食を摂り、私の実家の墓のあるお寺にお参りをし、私の実家の墓参りを済ませ、その後、真っ直ぐに帰宅してきました。

 

私の実家の墓のあるお寺の本堂の写真

毎回、ここで、少々のお賽銭をあげてお参りをしてきます。

 

 

本堂の左側の写真

手前を左に進みますと私の実家の墓があります。


骨董市

2024年03月17日 13時27分00秒 | 骨董市など

 今日は、私にとって、月に一度の、定例の骨董市の日でした(^-^*)

 今日は、快晴という程ではなく、曇りがちではありましたが、暖かく、しっかりと春を思わせる日でした(^_^)

 今日など、もう、すっかり春を思わせますが、でも、また、寒さが戻るとか、、、。三寒四温で、だんだんと春本番となるのでしょうね。

 そんなことで、いそいそと出発です!

 会場内はというと、相変わらずで、かつての本格的な「骨董市」の雰囲気は少なくなり、古着の店が多く出店するようになっています。ただ、外人さんがチラホラと見られるようになりました。また、こんな田舎の骨董市なのに、中国人が、ガサゴソとガラクタをかき回し、どんどんと買い漁っている様子が見られるようになりました。

 以上のように、これまでとはチョット変わった光景が見られるようにはなりましたが、私の狙っている古伊万里などは、殆ど見るべきものはありませんでしたので、なにも買わずに終りました(><)

 今日は、何も買わずに終りはしましたが、ちょっとした収穫がありました(^-^*)

 それは、物の収穫ではなく、知識の収穫でした。その状況は以下のとおりです。

 

 ぶらぶら歩いていましたら、「あれっ、後期鍋島だ!」と思うものが目に留まりました。

 それは、次の写真のようなものでした。もっとも、次の写真とは違い、酒注1個には盃が5個付いていました。但し、酒注の形は、次の写真のような形のものではなく、更にその次の写真にあるような形のものでした。なお、酒注の注ぎ口の根本と盃5個の高台内には鍋島家の家紋の「杏葉紋」が描かれていました。

 

小木一良著「鍋島 後期の作風を観る」のP.191から転載

 

 

小木一良著「鍋島 後期の作風を観る」のP.192から転載

 

 それで、近寄って手にしましたら、新しいものであることが分かりました。

 そうしていましたら、店主が近寄ってきて、「それには、ちゃんと箱が付いているんですよ」と言って、奥のほうから木箱を出してきました。

 その木箱は、ちゃんと酒注1本と盃5個がセットで入るように作られていて、箱表には、販売している会社名や作者名が書かれ、箱の中には作者の陶歴栞(しおり)まで入っていました。

 店主は、「このような物に目を留める方は少ないです。これも、なにかの縁、勉強しますから、どうですか、、、」と水を向けてきました。

 それで、私も、参考品として買おうかなと、かなり、心が傾きましたが、心を鬼にしてパスしました(~_~;)

 小木一良著「鍋島 後期の作風を観る」のP.191には、「根引松文は人気文様であったと思われ、明治期作品も精巧社、鍋島家支援窯でいろいろ作られている。同文は現在でも大川内山の諸窯で製作されている。」と書かれています。

 以上のように、今日の骨董市で、このような物は現在でも大川内山の諸窯で作り続けられていることを実際に体験することが出来たわけです。その意味では、今日の骨董市では大きな知識の収穫があったということになります(^-^*)


「山桜記」

2024年03月08日 16時29分24秒 | 読書

 「山桜記(やまざくらき)」(葉室 麟著 文藝春秋 2014年1月第1刷発行)を読みました。

 

 

 

 この本のタイトルは「山桜記(やまざくらき)」となっていますが、内容は、次の7つの短編から構成されていました。

① 汐の恋文

② 氷雨降る

③ 花の陰

④ ぎんぎんじょ

⑤ くのないように

⑥ 牡丹咲くころ

⑦ 天草の賦

 

 今回、この本につきましては、それぞれの短編がそれぞれ独立していたこともあり、一気に読んだのではなく、のんびりと読んでいたものですから、全部読み終えるのに2ヶ月以上もかかってしまいました(><)

 それで、最初の頃に読んだ内容は忘れかけてしまいました(~_~;)

 そんなことで、この本の内容の紹介は、ごく簡単にいたしたいと思います(~_~;)

 

「① 汐の恋文」について

 物語は、「油紙に包まれた黒漆塗りの小箱が、九州、博多の津に打ち上げられた。浜で拾った漁師が紙を開いてみたところ、蒔絵がほどこされた立派な文箱が出てきた。驚いた漁師は、あわてて地元の役人に届け出た。」というところから始まります。

 当時は、豊臣秀吉が朝鮮に兵を出した文禄の役の時で、軍船の渡海が相次いでなされていましたが、悪天候が続いて難破する船も多くあったようで、小箱はそうした沈んだ船から流れ着いたものと思われました。

 その小箱には書状が入っていて、その中身は、役人が調べたところ、肥前佐嘉の大名龍造寺政家の家臣瀬川采女の妻が、戦地にいる夫へ宛てたラブレターだとわかりました。

 そして、そのラブレターは豊臣秀吉のところにまで届けられ、一悶着起こすという内容でした。

 

「② 氷雨降る」について

 九州の島原半島に4万石を領する有馬晴信(キリシタン洗礼名ドン・ジョアン)とその妻(京の公家中山親綱の娘・キリシタン洗礼名ジュスタ)に関する物語でした。

 

「③ 花の陰」について

 細川忠興の嫡男忠隆とその妻千世(前田利家の娘)に関する物語でした。

 細川忠興は、嫡男忠隆の妻千世が、関ヶ原の戦いの折、細川忠興の妻ガラシャ夫人を連れて前田屋敷に一緒に逃げなかったことを理由に、忠隆に妻千世を離縁するように申しつけますが、忠隆はそれに従いませんでした。それで、忠興は忠隆を廃嫡します。

 廃嫡された後、忠隆は祖父幽斎の庇護を受けて生活していましたが、幽斎没後はその庇護を受けられなくなりました。そこで、娘たちの将来を考えた千世は、忠隆と話し合ったすえ、離縁して加賀に戻りました。

 それにより、忠隆は、細川家から3千石の隠居料が送られるようになり、茶の湯と能に通じて風雅の道を歩み、数奇者の名を高くしていったということです。

 一方、千世は、加賀に戻ると、村井長次に再嫁したということです。村井家では子を生さず、嫁して3年後に長次は亡くなりましたが、千世は、養子、養女にかしずかれ、母芳春院(まつ)に孝養を尽す穏やかな生涯を送ったとのことです。

 なお、この短編のタイトルの「花の陰」の「花」とは、ガラシャ夫人のことのようです。

 

「④ ぎんぎんじょ」について

 龍造寺隆信(龍造寺家当主)の母慶誾尼は、隆信没後、49歳の時、家臣の鍋島清房のところに押しかけて妻となります。それによって、竜造寺家当主龍造寺政家(隆信の子)の祖母となり、鍋島家当主鍋島直茂(清房の子)の母ともなったわけで、竜造寺家と鍋島家との内紛を未然に防いだ大人物でした。

 鍋島直茂の妻彦鶴とそのような大人物の慶誾尼との日々のやりとりを綴った内容でした。

 

「⑤ くのないように」について

 加藤清正の娘「八十姫」に関する物語でした。

 八と十の間には、本来は九があるわけですが、清正は、苦労がないようにと願い、九を除いた八十という名前を付けたということです。

 八十姫は、徳川家康の十男徳川頼宣(紀州和歌山初代藩主)に嫁しますが、子には恵まれなかったようです。しかし、側室が生んだ光貞を嫡母として心豊かに養育したので、光貞は八十姫を実の母のように敬慕したということです。光貞の四男が後に八代将軍となる吉宗です。

 

「⑥ 牡丹咲くころ」について

 いわゆる「伊達騒動」を扱ったものでした。

 

「⑦ 天草の賦」について

 「天草の乱」に「黒田騒動」を絡めた内容のものでした。

 「黒田騒動」の際、幕府によって天下に生き恥を晒された黒田長政の嫡子黒田忠之は、天草の乱を汚名挽回の好機とばかりに奮闘し、一番の手柄をあげますが、その時、こっそりと、落城する原城から天草四郎が脱出するのを見逃します。そして、一人静かに、恥をかかせた幕府に逆らったことへの喜びを噛みしめ、溜飲を下げたというお話です。

 なお、この短編の中に、黒田如水が有岡城に幽閉されていたおりに牢番を務めていた者の子を後に如水が養子としてしていることが書かれていました。その者は、黒田美作という人物で、武芸に長じ、黒田八虎の一人に数えられ、黒田家の重臣となったようですね。


リベンジ「色絵 丸散文 草花陽刻 瓢簞形小皿」

2024年03月04日 16時07分57秒 | 古伊万里

 今回は、再び、「色絵 丸散文 草花陽刻 瓢簞形小皿」の紹介です。

 先日(2023年9月21日)も、「色絵 丸散文 草花陽刻 瓢簞形小皿」を紹介したところです。ただ、その瓢簞形小皿は、私が何時も行っている古美術品交換会で手に入れたものなのですが、それは、手に入れようとした時点から、「江戸前期のいわゆる古九谷様式の伊万里と断定するには、ちょっと腑に落ちないところがあるな~」と思ったところではありました。

 しかし、最近作られたものではなさそうですし、伊万里には多くの窯があったことでもありますので、典型的な古九谷様式のものからはちょっと外れたような、このような物も作られた可能性があるのかもしれないと判断し、落札に及んだものです。

 そのようなことで、その瓢簞形小皿をブログで紹介するに際しては、少々、自信が無かったわけですが、思いきって先日(2023年9月21日)、紹介に踏み切ったところです。

 しかしながら、その直後から、やはりというか案の定というか、その瓢簞形小皿は、典型的な古九谷様式のものからはちょっと外れたものなのではないだろうか、という思いが強くなってきたところです。その辺の経緯につきましては、先日(2023年9月21日)に紹介しました「色絵 丸散文 草花陽刻 瓢簞形小皿」の紹介文の「追記(その1)」及び「追記(その2)」に記したとおりです。

 それで、その後、ネット上で、典型的な古九谷様式の「色絵 丸散文 草花陽刻 瓢簞形小皿」を探していたのですが、ごく最近になって、やっと、ネットショップでそれを見いだしましたので、早々に購入し、今回、紹介することとしたわけです。

 まずは、新たに購入した「色絵 丸散文 草花陽刻 瓢簞形小皿」を紹介する前に、次に、新たに購入した「色絵 丸散文 草花陽刻 瓢簞形小皿」と先日(2023年9月21日)紹介した「色絵 丸散文 草花陽刻 瓢簞形小皿」とを並べて紹介いたします。

 

左:新たに購入した 瓢簞形小皿の表面   右:先日紹介した瓢簞形小皿の表面

 

 

左:新たに購入した 瓢簞形小皿の裏面   右:先日紹介した瓢簞形小皿の裏面

 

 

 両者を並べて見てみますと、その違いは、なかなか分らないかと思います。その差を見抜くには、古伊万里に相当の造詣がないと分らないかと思います。

 両者を手に取って比べてみても、なかなかその違いが分りません。とてもじゃないが、写真からだけでは分かりませんね(~_~;)

 でも、両者を手に取ってよく観察してみますと、新たに購入した 瓢簞形小皿よりも、先日紹介した瓢簞形小皿のほうがよく焼き締まっていて、硬い感じをうける気がします。文様については、新たに購入した 瓢簞形小皿のほうが大らかで伸び伸びと描かれていますが、何が描かれているのか分らないのに反し、先日紹介した瓢簞形小皿のほうは、何が描かれているのかは分りますが、小さくこじんまりとまとまっていて迫力がありません。

 以上のことからだけでは、どちらが典型的な古九谷様式の「色絵 丸散文 草花陽刻 瓢簞形小皿」と言えるのかの判断は難しいわけですが、長年にわたる古伊万里蒐集から得た研ぎ澄まされた鑑識眼とでもいうのでしょうか、それに照らし合わせて判断しますと、やはり、今度こそ、新たに購入した 瓢簞形小皿こそ、典型的な古九谷様式の「色絵 丸散文 草花陽刻 瓢簞形小皿」と言えるのではないかと思うわけです(^-^*)

 それでは、次に、新たに購入した「色絵 丸散文 草花陽刻 瓢簞形小皿」の詳細を紹介いたします。

 

 

 新たに購入した「色絵 丸散文 草花陽刻 瓢簞形小皿」

 

表面

口縁に4箇所ソゲがありますが、私が、目障りにならない程度に補修しました。

 

 

上半分の拡大

 

 

下半分の拡大

 

 

側面

 

 

裏面

 

 

瓢簞の尻側から見た裏面

 

 

瓢簞の首側から見た裏面

 

 

高台内銘:二重角福

 

 

生 産 地 : 肥前・有田

製作年代: 江戸時代前期

サ イ ズ : 口径12.5×12.3cm 高さ2.5cm 底径7.8×7.7cm