Dr.K の日記

日々の出来事を中心に、時々、好きな古伊万里について語ります。

明智光秀の生涯

2024年08月08日 21時58分52秒 | 読書

 「明智光秀の生涯」(歴史文化ライブラリー490)(諏訪勝則著 吉川弘文館 2019年(令和元)12月1日 第1刷発行)を読みました。

 

 

 この本は、いわゆる「歴史小説」というものではなく、「歴史書」といえるものではないかと思います。

 そのため、内容的には、殆ど、たんたんと歴史的事実が羅列されているようなものですから、この本を読むことは、ひたすら、歴史の勉強をしているようなものですので、その読後感を書くのは難しいように感じます(~_~;)

 でも、この本では、「明智光秀」の人物像のようなものは描き出されているようですので、次に、その辺を中心に紹介したいと思います。

 まず、「プロローグ」中には、

 

 「歴史学者の視点から明智光秀の生涯(人物伝)について、初めて著作がなされたのは、高柳光寿氏による『明智光秀』(1958年、吉川弘文館)であろう。」(p.1)

 「その後、高柳氏と並び戦国史研究の大家ともいえる桑田忠親氏が『織田信長』(1964年、角川書店)・『明智光秀』(1973年、新人物往来社)を著した。桑田氏も高柳氏と同様に一次史料をベースに光秀の事績を究明しようとしたものである。」(p.3)

 「両著以降、光秀に関連する新たな史料の登場や、関連史料集(自治体史を含む)の編集刊行が行われ、光秀の動向がより明らかになってきている。」(p.3)

 「高柳氏の『明智光秀』が出されてから六十余年が過ぎた。これまでの歴史学者の研究業績を踏まえて、あらためて光秀の足跡を辿ってみたい。併せて、本能寺に関する諸説について再検討するとともに、筆者としての見解を示すこととしたい。」(p.6)

 

ということが書かれ、その後は、主として、たんたんと、歴史的事実の記載がされてれていました。

 そして、それらの記載を集大成したような、概要のようなものが、最後のほうに「エピローグ」としてまとめられていましたので、その「エピローグ」の中の一部を、次に紹介したいと思います。

 

「高柳光寿・桑田忠親の両氏による『明智光秀』が上梓されて以降、新史料の発見等により明智光秀の日々の行動の実態がより鮮明になってきた。

 本書『明智光秀の生涯』では、先行研究を踏まえて、光秀の事績について、織田信長に仕える以前の足取りから、足利義昭そして信長の家臣となり、政権の枢要として躍動した姿を改めて振り返ってきた。信長の家臣の中で、素性が不明確な人物は多数いた。むしろ細川(長岡)藤孝のような生い立ちが分かる方が希有と言っても過言ではなかろう。光秀も不確かな人物の一人である。状況証拠からして、光秀は美濃国との縁があり、ついで越前朝倉氏との連接があったことは間違いない。しかし、一次史料によって、その活動の様子を明確にすることは現状ではできない。新たな史料の登場を待ちたい。

 有象無象の雑多な人々の集合体である織田家臣団の中から、二人の人物がその才覚によって抜け出し「トップスター」となった。その一人が豊臣(羽柴)秀吉で、もう一人が光秀である。

 光秀は、早くも永禄12年(1569)の段階で、京都周辺の行政事務を担当するなど抜群の事務遂行能力を発揮した。その能力は「京都代官」としても生かされた。天正8年(1580)の大和国の検知では、迅速かつ厳格な姿勢で短期的に処置を済ませている。行政官としても秀でたものがあった。

 武人としてもその資質が多分に備わっていた。元亀2年(1571)の比叡山攻撃の功績により志賀郡を得ている。爾後、戦陣において、数々の軍功を上げることになった。光秀の緻密な姿勢は戦闘にも生かされた。戦場では、敵軍を殲滅させるため、非情な姿勢で臨んだ。光秀は戦時において細密に戦況を報告し、最高指揮官信長の判断を適宜仰ぎ、信長の意のままに戦闘を適切に遂行するなど幕僚として秀逸な能力を示した。情報を制す者は戦闘を制すことは改めて述べるまでもない。」

 「光秀は、近江坂本と丹波における領国経営を展開し、その周縁である丹後、大和も委任され、織田政権の分国支配に寄与した。中央方面司令官として、近江衆・丹波衆・山城衆・大和衆・丹後衆等を軍事指揮下に置いた。

 そして、織田家重臣としての「明智家」が確立されてきた。光秀は、連歌・茶の湯を積極的に嗜むなど当代を代表する文化人であったが、家臣達も挙って文芸活動に精進した。文化的にも明智家は、「マチュア」な状況であった。

 かくして、光秀の領国支配・軍事編成や文化集団「明智家」等の事例を勘案するならば、戦国大名並みの様相を呈してきたのではなかろうか。」

 「信長の両輪である秀吉と光秀を単純に比較するならば、秀吉の方が、情報収集能力・信長に対する「パフォーマンス力」がはるかに長けていたと思う。そして、何よりも、羽柴長秀・黒田官兵衛孝高という人望がある家臣が配下にいたのである。殊に官兵衛は、秀吉の右腕として、諸方面にわたって活躍したわけであり、この点からしても秀吉と光秀の大きな差にもなったのであろう。

 ところで、信長襲撃に関する朝廷や義昭の関与については、明確に証明できる一次史料が提示されない限り、存在しない。その暗殺の機会は偶然にもたらされた「ワンチャンス」であったと思う。決して計画性などはない。あるとするならば、武将としての論理である。

 「本能寺の変」は信長襲撃という日本の歴史上でも著名な衝撃的な事件である。しかし、主君殺しという権力闘争は、人類史上、洋の東西・時代の古今を問わず度々引き起こされてきた。光秀の行為は、決して斬新なことでもない。

 戦国大名の軍事国家は、主に家中粛清によって構築された。「王殺し」を含めて、粛清は戦国大名の権力や権威の源泉であり、家中粛清は常道という鍛代敏雄氏の指摘がある。そして鍛代は、織田信長や足利義満の横死をことさらに取り扱うこともないと言う。私もそのように思う。「王殺し」は、度々発生していた。六代将軍足利義教・十三代将軍足利義輝・三河国松平清康の暗殺などがその例であろう。

 また、織田信長の家臣粛清については、谷口克宏氏により詳細な研究がなされている。信長は、佐久間信盛をはじめとして多くの家臣を粛清してきた。

 粛清には、主君として、台頭してくる者の排除と不要な家臣の処分がある。

 谷口克宏氏の研究によると、信長は猜疑心が強く、執念深いとされる。それが故、粛清と反逆が繰り返された。これに上手に対応できたのが秀吉であろう。むろん秀吉とて安泰ではなかったと思うが、信長の家臣たちはそれぞれ処分されることを想定していたことは間違いない。天正8年の佐久間信盛ら主要家臣の粛清後、四国政策の転換と秀吉の実力の伸展があり、光秀の心は動揺していたと思う。怯えていたのかもしれない。

 信長の光秀に対する見方としては、二つの側面があったと思料する。一つは、光秀の実力の限界に伴う不要論である(ここでは、仕事をやり終えた光秀をもうこれ以上は不要に思う気持ちが込められる)。もう一つは、実力を蓄えた「明智家」を脅威と捉え、排除すべきものと考えた点である。光秀は、この二点について十分に察知していたと思う。」

 「私は、光秀の享年については、五十五歳以上と仮定している。六十七歳であったかは不明であるが、いずれにしても老境に達していたことは間違いないだろう。先述のように、光秀は、光慶(長男)と自然(次男)たちに後のことを託しており、襲撃に際して、「明智家」の行く末をも考慮しての決起であったことは十分に考えられる。

 逡巡する光秀の気持ちをあと押ししたのが斎藤利三なのであろう。光秀が藤孝に送った書状中の「我等不慮の儀」は、思いもよらないもので、生真面目な光秀が大胆なことを仕出かしたのである。

 ただし、光秀にとって、主君信長の暗殺は、武人としての行為の範疇内である。理知的な人物ではあるが、八上城攻めに見られるように冷徹で残忍な一面を有している。主君襲撃を躊躇しつつも、淡々と事を進めたのではなかろうか。

 歴史学の範疇を越えて私見を述べるならば、光秀には、天下を取るという野望が多少なりともあったような気がする。」

 

 なお、最後に、「あとがき」の中の一部を次に紹介し、この本の紹介に代えさせていただきます。

 

 「光秀は、織田信長の名幕僚として活躍し、部隊指揮官としての能力に秀で、行政官として迅速かつ厳格な姿勢で臨んでいた。分国領主としても適切に支配を執行していた。武将としては戦陣においては、冷徹なまでに敵軍に対処していた。また、文芸の面から確認するならば光秀は武家文人としても信長家臣団の中でも随一であり、明智家も誇り高き文化集団を形成していた。

 それでも、役者秀吉、そしてその右腕官兵衛には勝てなかった。

 もし、私が作家ならば次のように書くかもしれない。「信長、秀吉、何するものぞ。明智家こそが、由緒正しい家柄だ。我こそが、天下をめざすものぞ」と。」