文化遺産としての赤塚不二夫論 今明かされる赤塚ワールドの全貌

赤塚不二夫を文化遺産として遺すべく、赤塚ワールド全般について論及したブログです。主著「赤塚不二夫大先生を読む」ほか多数。

天知る地知る読者知る② 『漫画に愛を叫んだ男たち』に見る長谷邦夫の虚言と歪曲

2024-07-27 14:29:24 | 論考

『漫画に愛を叫んだ男たち』(長谷邦夫著/清流出版刊/2004年5月9日発行)。

当ブログに定期的に訪れて下さる読者諸兄におかれては、決して存じ上げないタイトルではないだろう。

版元の清流出版は、1994年、ダイヤモンド社の元編集者だった加賀屋陽一によって立ち上げられた小規模出版社である。

加賀屋は、1986年から87年に掛け、長谷邦夫が、赤塚不二夫名義で、「ビジネス古典シリーズ」と銘打ち、『孫子』『葉隠』『君主論』『五輪書』『菜根譚』を代筆した際に、赤塚番・・・、もとい長谷番を務めており、その縁から、長谷とは昵懇の間柄になったという。

赤塚の代筆エッセイからも分かるように、長谷には文才に長けたところがあり、その才能に着目した加賀屋が丸々一冊書き下ろしのエッセイを書いてみないかと、長谷に打診したことで誕生した一冊だ。

どれ程の部数が刷られたのかは不明だが、一部の漫画ファンの間でも、名著との誉れが高く、その名は広く浸透しているようだ。

内容としては、長谷邦夫のこれまでの漫画家人生を振り返った回顧録的意味合いを深めたもので、その人生の多くを共に過ごした、かつての盟友、赤塚不二夫との出会いから別れまでが主なるテーマとして綴られている。

しかしながら、赤塚不二夫ディレッタントを自認する筆者には、その番頭役だった桑田裕、赤塚の糟糠の妻であった眞知子夫人との確執から、フジオ・プロを去らねばならなくなった際、引き止めてくれなかった赤塚への澱んだ感情こそが執筆のモチベーションになったと思わざるを得ない。

1960年代初頭から70年代半ばに至るまでの赤塚主導によるフジオ・プロ大量生産時代から、芸能界とアルコールに耽溺していった70年代末期以降の迷走期に至るまで、時にはアイデアブレーンとして、時にはゴーストライター、またはマネージャーとして、赤塚を陰日向となく支えてきた長谷にとって、相当な苦労を伴ったであろうことは充分に理解出来る。

ましてや、その友人知人達が異口同音に証言しているように、天才である反面、独善的な性格で知られる赤塚である。

俗に言えばガハハとDT。生真面目な資質を持つ長谷にとって、そのキャラクターと対峙するだけでも、筆舌に尽くし難い辛苦も当然ながらあったであろう。

従って、全ての内容が虚偽の申告であるとは言えないが、それを差し引いた上でも、赤塚への恨み辛みから、そのマイナスイメージを植え付けてやまない印象操作や偏向的記述が、事実に反し、目に付く有り様なのだ。

生前、特にその最晩年において、赤塚が、痛々しいまでに泥酔し、度々メディアに露出するなどといった醜態を晒すようになると、世間の風当たりも一層の厳しさを増し、かつてのファンにすらも愛想を尽かされるまでに至った。

事実、赤塚アニメのリバイバル路線が終焉を迎えた1992年以降、更なる酒量の増加と、著しい執筆量の減少から、赤塚に関する世評は「酒で身を持ち崩したアル中の元漫画家」という実に峻厳なバッシングへとスライドしてゆく。

1997年に日本漫画家協会文部科学大臣賞、翌98年には、紫綬褒章をそれぞれ受賞、受章したほか、自身の漫画家人生の足跡を振り返った「これでいいのだ! 赤塚不二夫展」が全国規模で開催され、取り分け、上野の森美術館では、期間中、六五〇〇〇〇人を動員し、ピカソ展やゴッホ展の記録を塗り替えるなど、ホットなトピックを振り撒いた赤塚だったが、赤塚に向けられた世のマイナス評価が覆されることは一切なかった。

赤塚不二夫史的な観点から申せば、『漫画に愛を叫んだ男たち』は、そんな赤塚が世を捨て、世に捨てられている時代の副産物として書かれた著作である。

アマチュア時代、赤塚に見せた自作の原稿を否定されて以来、赤塚の全人格、全作品に対し、憎悪の念を抱くようになったと語るマンガコラムストの夏目房之介が、『漫画に愛を叫んだ男たち』が刊行されて間もない2004年6月28日放送のNHK「BSマンガ夜話」で、藤子不二雄Aの『まんが道』をフィーチャーした回で、わざわざ本書を持参し、赤塚作品の殆どを長谷邦夫が代筆しているといった旨の妄言を鬼の首を取ったかのように主張し、馬脚を現していたが、この夏目の発言からも安易に察せられるように、赤塚に嫌悪感を抱いてやまないアンチにとって、赤塚の負のイメージが印象操作された本書は、どんなに虚言や歪曲が含まれようが、神の教えを説いた聖典の如く、実に権威ある書物だったに違いない。

但し、これらの長谷シンパサイザーは、決して長谷の描く漫画やエッセイのファンというわけではないだろう。

実際、長谷作品よりも、まだ赤塚作品の方が、現在においても、世間的な人気度や知名度、商業性に至るまで上廻っているように思えてならない。

『漫画に愛を叫んだ男たち』に関しても、あくまで、赤塚を揶揄するにはこれ以上にない書籍であり、長谷こそがアンチ赤塚を語る上で、シンボリックな存在だからこそ、大いに留意されているというのが筆者の見解だ。

かつて筆者は、「本気ふざけ的解釈」シリーズと称し、社会評論社より『赤塚不二夫大先生を読む』(11年)『赤塚不二夫というメディア 破戒と諧謔のギャグゲリラ伝説』(14年)と、二冊の赤塚クロニクルを上梓した。

この二冊は、巷に蔓延る赤塚の不名誉な風説や世の赤塚理解に対する是正を目的として執筆したものだ。

その後もこの二冊を合本し、大幅な加筆訂正を加えた『天才・赤塚不二夫とその時代 文化遺産としての赤塚マンガ論』なる書籍を2022年にデザインエッグ社よりセルフ出版で刊行したが、限られた紙幅の中で全ての流言飛語を訂正することなど不可能で、長谷発による風説で斧正し得なかった箇所も多分にある。

本稿では、そうした忸怩たる過去を踏まえ、長谷邦夫が、『漫画に愛を叫んだ男たち』、『赤塚不二夫 天才ニャロメ伝』(05年、マガジンハウス)、そして長谷の自伝的エッセイ『桜三月散歩道 あるマンガ家の自伝』(11年、水声社)で囃し立てた、赤塚に対する扇情的且つ謀略的な喧伝を一つ一つ精査して取り上げ、微に入り細を穿つ解説とともに、徹底して批正してゆきたい。

長谷といえば、有名な『天才バカボン』の「サンデー移籍事件」の発端となった張本人だが、全てを赤塚自身が勝手にやったこととして記述している。

「それは赤塚自身が決意して起こした問題であった。彼は突如として「週刊少年マガジン」で人気急上昇中の『天才バカボン』を、こともあろうに最大の対抗誌「少年サンデー」に移籍連載すると言い出したのである。

「小学館第二編集部の部長広瀬(名和註・徳二)さんから頼まれたんだよ。マガジンの内田さんに謝りに行くから一緒に行こう」

「本気でそんな無茶なことをするのか。冗談がきついよ。バカボンを起こすため、内田さんは漫画班と一年かけて準備したんだぜ。黙ってオーケイすると思う?」

完全な作家のルール違反であった。まず、常識ではこんな行為を作家はやらない。」

事実、『バカボン』の移籍連載は、長谷の一言によって始まったのだが、それを指摘する赤塚に対し、長谷は声を大にしてこう否定している。

「人間はいやな記憶は忘れやすいというが、後年の赤塚はこのあたりの事情を、「長谷の政治だった」などと担当編集者たちとの座談会で発言している。とんでもない。

スタジオを村田ビルに移した時点で、ぼくが赤塚の連載作品やテレビ出演のマネージメントから降りたことはすでに書いた。だから、作品をやめたり起こしたりについて、ぼくは〈決定〉をしていないのである。」

何故、『バカボン』移籍の張本人であることを、長谷はここまで頑なに否定するのか、その辺りの詳しい事情は、前記事の「赤塚不二夫と長谷邦夫の40年に渡る友情と確執 そして絆」において記述しているので、ここでは一切述べないが、この時、赤塚のマネージメントから降りているというのは、長谷の言い逃れである。

村田ビル移転後、間もなくしてスタートした『マンガ大学院』(「少年ブック」69年1月号別冊付録)の冒頭で、長谷自身、赤塚のマネージャーを務めていると語っているし、何よりも超多忙を極める赤塚のスケージュール管理は、古い付き合いの長谷こそがもってこいの存在だったのは、赤塚自身、至るところで述べている。

だが、その当事者の一人でもある「週刊少年サンデー」の赤塚番記者だった武居俊樹が自著『赤塚不二夫のことを書いたのだ』(文藝春秋社、05年)で、酒席での長谷の一言が『バカボン』移籍の切っ掛けとなったと綴っており、観念した長谷は、以下のような言い分で渋々その事実を認めている。

「酒はやっとビールが人並みに飲めるようになってきた頃だが、酔うのは早い。勢いでこんなことも言った。

「そんなにマガジンのバカボンが気になるなら、サンデーがかっぱらったらいいよ」

自分では記憶にない言葉である。しかし、この言葉が武居氏のヒントになって、彼が広瀬部長にバカボン移籍を強引にすすめてください、と進言することになったのである。 〜中略〜 バカボン移籍のヒントが、当時のぼくの酔った上での冗談発言にあった、と言われたときは、非常に驚いたものである。 〜中略〜 それを真面目な方向で武居氏は部長への意見として利用したのだ。移籍には、ぼくは赤塚に大反対をしたのだが、「部長から、おれとあんたとは兄弟みたいなもんじゃないかって言われて」、オーケーしてきたというのである。」(『あるマンガ家の自伝 桜三月散歩道』)

赤塚程度の存在なら、適当に言いくるめられると高を括っていた長谷だったが、切れ者の武居記者にはそれは通用しないと諦め、自身に最も罪が被らない方向で、このような歯切れの悪い記述をアンサーとして加えたのであろう。

因みに、『天才バカボン』の「サンデー」移籍騒動で、赤塚とフジオ・プロ関係者が講談社サイドより出入り禁止の扱いを受けたと、前出の『赤塚不二夫 天才ニャロメ伝』で描かれているが、これも全くの出鱈目である。

赤塚に関して言えば、「少年マガジン」誌で、『天才バカボン』が中断だった時期、また「少年サンデー」系列で『バカボン』が連載されていた期間や「週刊ぼくらマガジン」で連載が再開されるまでの間、例えば、創刊10周年を記念した「週刊少年マガジン」(69年14号)で、手塚治虫やトキワ荘メンバーを含め、当時、第一線で活躍していた人気漫画家とともにその表紙を飾っていたし、何よりも、その系列誌である「週刊ぼくらマガジン」連載の『死神デース』(70年49号〜71年19号)や、「別冊少年マガジン」に、滝沢解原作による特別読み切り「鬼警部」(70年12月号)、更には『狂犬トロッキー』(71年1月号〜9月号)といった連載作品が掲載されていた事実を鑑みると、この記述もまた、身も蓋もない虚言であることは一目瞭然と言えるだろう

長谷は、「移籍が決まってしまうと、フジオ・プロは講談社から毛嫌いの対象とされ、古谷三敏が『なかよし』に連載していた作品も、たちまち終了となってしまった。」と、『あるマンガ家の自伝 桜三月散歩道』で語っているが、これは『プリンセスプリンちゃん』(69年1月号〜12月号)のことを指しているのは明白で、『バカボン』移籍後も半年以上も継続しているし、何よりも、雑誌の中心読者層が求める内容とは些か乖離したものでもあるため、人気低迷の結果、打ち切られたと考えるのが妥当なところではないだろうか……。

だが、何故このように、古谷作品の打ち切りまで引き合いに出しているかと言うと、赤塚の独断による非常識的行為(あくまで長谷が主張したいところの)が齎した講談社サイドへの損害が、如何に甚大なものであり、また罪のない人間をも巻き込む迷惑極まりないものであったかを印象付けたかったからにほかならない。

真相を知れば知るほど、逆にこちらが恥ずかしくなるくらい、軽々しい動機による捏造なのだ。

『赤塚不二夫 天才ニャロメ伝』にも、虚言や事実誤認が多く、これらに関しても、この場を使い一つ一つ訂正してみたい。

「赤塚不二夫責任編集」と銘打たれた月刊漫画雑誌「まんがNo.1」を刊行するにあたり、「話の特集」の名物編集長であった矢崎泰久の実父・矢崎寧之が経営する日本社に配本を受け持ってもらう流れとなった。

矢崎寧之は、文藝春秋社の元重役で、その創設者でもある菊池寛の秘書を務めていたことでも知られるお堅い人物だ。

明治生まれで昔気質な寧之は、この時当時の若者の多くがそうであった長髪族が大嫌いだったという。

そのため、赤塚は頭を丸めて、寧之との面会に赴いたと描いているが、これは長谷の記憶違いである。

赤塚がトレードマークとも言える長髪をバッサリ切ったのは、「まんがNo.1」が創刊された以降の1973年1月23日、当時、新宿区河田町にあったフジテレビ第一スタジオで、東京12チャンネル系の「私のつくった番組 マイテレビジョン 赤塚不二夫の激情No.1」の収録に際してであった。

従って、「まんがNo.1」の配本コードの件で、日本社に面談に赴いた時期とは、タイムラグが生じるのである。

また、赤塚がこの時、番組のオンエアを通し、頭を丸めたのは、かねてより深く交際を続けていた、とある女性との結婚を真剣に考えており、前妻との離婚調停を見据えていた時期であったからである

件の交際女性の実父は、職業柄、たいへん厳格な人物であり、けじめの挨拶を付けるためにも、公開断髪に踏み切ったというのが真相だ。

1975年、総合電機メーカーのソニーがβマックス規格初のビデオデッキSL−6300の販売を開始。その発売に合わせ、ソニーは「週刊少年サンデー」の16ページを広告ページとして買い上げ、SL−6300の性能と利用法を簡便に伝えるPRコミックを赤塚マンガ的視点から表現して欲しいとの打診から、『ココロのボス』(75年31号)なる読み切り作品を赤塚は執筆する。

ストーリーになんの脈略もなく、申し訳程度にビデオデッキの宣伝を絡め、その用途の説明については、欄外に文字で記すのみという、広告漫画としての体裁は些か整えていないものの、ギャング団の首領であるココロのボスが、田舎からやって来る最愛の母の為、病院を占拠し、医者に成り済ました立派な姿を見せようと奮闘するが、予期せぬ出来事が突然発生したことで、偽医者のボスが心臓移植という、高難度な手術を施行せぬばならなくなったそのトラブルを綴った傑作エピソードである。

だが、長谷は『赤塚不二夫 天才ニャロメ伝』の中で、登場人物達が「ソニーのビデオデッキ」「ソニーのビデオデッキ」と16ページに渡り、ただひたすら「ソニーのビデオデッキ」ど連呼するだけのギャグもユーモアもない最低な手抜き漫画をそのまま寄稿したかのように語っているが、これも痛々しさを露呈した長谷特有のデマの一つである。

長谷は、赤塚が物事を徹底的に単純化することで、このような作家としてのプライドをも欠落した暴挙に出るという印象操作をしたかったのだろうが、赤塚がソニーのSL−6300のPR漫画を「週刊少年サンデー」に描いたのは、これ一本のみで、無論、他誌に掲載された同時期の赤塚読み切りを探しても、そうした内容のものはない。

また、長谷がこの時、ネームを担当したと語っているが、これも大嘘で、長谷が執筆したのは、間違いなく欄外に記されたSL−6300の性能や利用法についての説明文のみであろう。

尚、この「ソニーのビデオデッキ」の連呼は、この前年である1974年、元あきれたぼういずの坊屋三郎が外人相手に言い放つ「あんた外人だろ? 発音悪いね!」のフレーズが話題を集めた松下電機産業(現・パナソニック電工株式会社)のパナカラー・クイントリックスのヒットCMを模倣したものと思われる。

赤塚不二夫を取り巻く最低最悪な漫言放語の一つに、赤塚作品のほぼほぼ全てを長谷邦夫が代筆したものという、とんでもない出鱈目があるが、この辺りも長谷が代筆していないタイトルまで、自身が描いたかのように語ることから、発生するに至ったと見ていいだろう。

1978年、赤塚は、サンポウジャーナル社より新創刊された隔週漫画誌「コスモコミック」に『ニャロメの研究室』(78年9月20日創刊号〜78年12月20日号)という連載を立ち上げる。

『ニャロメの研究室』は、優れた学識を持ちつつも、鼻持ちならない学者ネコというキャラクター設定のニャロメが、毎回、アインシュタインの相対性理論や慣性の法則、ダーウィンの進化論等、マスマティクスやサイエンスといったアカデミックな分野を漫画と図解で解かりやすく解説したシリーズだ。

長谷は、この企画をネーム、コマ割り、下絵に至るまで全て自身が取り仕切ったと語っているが、下絵に関しては、赤塚自らが執筆している。

78年当時、赤塚連載のメインストリームだった『天才バカボン』(「週刊少年マガジン」67年15号〜69年9号 71年27号〜75年2号 75年43号〜76年49号ほか)や『ギャグゲリラ』(「週刊文春」72年10月16日号〜82年12月23日・30日合併号)といった作品群と寸分違わないタッチである点を照らし合わせれば、歴然として見て取ることが出来よう。

この指摘を読まれた一部のネットユーザーには、「『天才バカボン』にしても、『ギャグゲリラ』にしても、長谷邦夫が描いたものだから、同一のタッチに見えるのだ」と反論する向きもあろうが、赤塚タッチと長谷タッチの区別すら付かない読者に、今更詳しく解説し、理解の是正を求めることなど、土台無理な話であるため、これ以上の言及は避けておく。

ただ、長谷は、この時「コスモコミック」の巻末ページに『現代妖語解説』という、「アメリカン」「翔んでる」「フィーバー」「有事」「クロスオーバー」といった現代用語は現代用語でも、俗語に近い現代妖語を漫画で読み解くという異色のカルチャーコミックを連載しており、長谷自身、その記憶が混同している可能性もなきにしもあらずだ。

因みに、この「コスモコミック」は、赤塚の他にも、石ノ森章太郎、さいとうたかを、上村一夫といったビッグネームが執筆していたものの、創刊から僅か7号をもって廃刊の憂き目に遭う。

その後、この雑誌のエディターとして携わっていた坂崎靖司と山口哲夫は、編集プロダクション「波乗社」を設立。この両名の企画により、1981年から『ニャロメのおもしろ数学教室』『ニャロメのおもしろ宇宙論』『ニャロメのおもしろ生命科学教室』『ニャロメのおもしろコンピューター探検』等をパシフィカより、描き下ろし単行本として刊行し、いずれも一〇万部を越えるベストセラーとなったが、これらの作品でも、長谷が構成とネームを担当し、赤塚の下絵でスタッフが仕上げるという創作スタイルを採用していた。

長谷も所詮は素人であり、現在の観点から見て、科学知識に対する理解の不手際などは否めないものの、一連のカルチャーコミックのヒットは、構成とネームを務め、この時、フジオ・プロのグーグル役を必死で担おうとしていたその奮闘があったからこそであると、それに関しては筆者も、改めて声を張っておきたい。

長谷は、赤塚との訣別を決心した理由に、1991年から「週刊女性」誌上にて連載開始された『へんな子ちゃん』(91年1月8日・15日合併号〜94年8月16日号)のアイデア会議にあったと、『漫画に愛を叫んだ男たち』の中で述懐している。

『へんな子ちゃん』とは、少女漫画誌「りぼん」にて、1967年9月号から69年8月号に掛けて連載されていた同名タイトルのリメイク作品である。

「毎週決まった曜日に(名和註・フジオ・プロビルの)三階の部屋へ行く。すると赤塚はその週のテーマやヒントをメモした原稿用紙を差し出すことが多くなった。

これが事前に一人でアイデアを考えているのなら、より充実したプラン会議ができる。しかし、そうではなかった。かつての作品からギャグを拾ってメモしたものに過ぎないのであった。担当編集者は若い女性である。そのことに気づかない。

ぼくは黙認するしかなかった。もしその事実を彼女の前で明かせば、赤塚は傷つくからである。

しかし、「週刊女性」は高年齢の読者もいる。かつて「りぼん」の愛読者で、『へんな子ちゃん』を憶えている人がいることも大いにあり得るのだ。ぼくは、用意されたアイデアを極力ボツにして、別の設定へ振り向けるよう話を誘導するしかなった。

ある週のこと、定例の日に部屋をのぞくと、「長谷、もうアイデアはできているから今日はいいよ」と、彼は言うのである。

どれ見せて、とそのメモを見ると、先週ボツにしたアイデアがそのままメモし直されていた。(ああ、もうぼくがアイデア会議に出る意味はなくなってしまった……)」

長谷は、旧作『へんな子ちゃん』で使われたアイデアを赤塚が焼き直しして描いたように述べているが、りぼん版『へんな子ちゃん』と「週刊女性」版『へんな子ちゃん』では、同様のネタやストーリーなど一切ないというのが事実だ。

赤塚に限って、そこまでの殊勝なファンなど存在するわけもないが、「りぼん」版、「週刊女性」版の両シリーズを通読すれば、一目瞭然である。

これは、赤塚の漫画家としての不誠実ぶり、更には、長谷自身が赤塚に辟易しつつも、健気なまでに赤塚を慮る姿をアピールするために書いた杜撰な創作と言えるだろう。

作品を大量生産してきた巨匠漫画家が過去に使ったアイデアに再刃を施すことは、儘あることで、赤塚にも、その長い作家生活において、そうしたセルフオマージュを幾つか確認することが出来る。

この平成初頭の時代、赤塚が過去の自作のアイデアをそのまま拝借したのは、このリバイバル版「へんな子ちゃん』ではなく、「週刊現代」誌上にて連載された『赤塚不二夫のギャグ屋』(91年4月13日号〜11月16日号)の「デブの幸せ」(91年10月19日号)と、プロットの一部を流用した「コミックボンボン」連載作品『大日本プータロー一家』(90年10月号〜91年8月号)の「納豆でネバネバ!!」(91年6月号)からなる二つのエピソードである。

因みに、「デブの幸せ」では、「週刊少年キング」連載の『おそ松くん』(72年13号〜73年53号)の「となりのカワイコちゃん」(72年49号)、「納豆でネバネバ!!」では、引き続き「週刊少年キング」で連載された『ギャグギゲギョ』(74年5号〜38号)(単行本化の際のタイトルは『ギャグの王様』)の「地球最期の日の王様」(74年31号)がそれぞれ元ネタになっている

このリバイバル版『へんな子ちゃん』に触れたついでから、赤塚が最もリメイクしたがっていた過去作が、かつて「週刊少年サンデー」に連載された『母ちゃんNo.1』(76年27号〜77年12号)であったことを長谷は述懐している。

これは、「コミックボンボン」や「テレビマガジン」、「ヒーローマガジン」といった講談社系児童漫画誌に『天才バカボン』(「コミックボンボン」87年10月号〜91年10月号ほか)や『もーれつア太郎』(「コミックボンボン」90年4月号〜91年1月号ほか)のリメイク連載をしていた1990年の段階で、赤塚自身、公に語っていたことからも事実と言えよう。

また、赤塚がアイデア会議を経由することなく、一人自ら切った新作『母ちゃんNo.1』のネームが、二社の赤塚番記者にプレゼンテーションされたものの、そのどちらからも掲載しようという話がなかったというのも十二分に頷ける。

それは、赤塚不二夫ディレッタントを自認している筆者ですら、新作『母ちゃんNo.1』に対し、赤塚ギャグでありながらも、凡庸なストーリー漫画を踏襲したドラマトゥルギーに終始している点が否めず、ヒットこそしなかったものの、かつての「週刊少年サンデー」版のように目眩くギャグの展開力が希薄に感じてならなかったからだ。

だが、前述のように、長谷が、常務である桑田裕や眞知子夫人との確執により、フジオ・プロを追われた後の1994年、新作『母ちゃんNo.1』は、「デラックスボンボン」誌上にてリバイバル連載される。

無論、「デラックスボンボン」の読者たる平成キッズの評判を呼ぶこともなかったものの、94年4月号から同誌廃刊号となる95年3月号まで、ジャスト一年間の連載された。

長谷の記述のみ触れると、新作『母ちゃんNo.1』が世に出ることがなかったと、読者に誤解を与えること間違いが、『母ちゃんNo.1』のリバイバルに関しては、長谷と赤塚が訣別した以降の連載であり、作品自体、全くと言って良いほど話題を集められなかった点を総合しても、長谷が知らないのも無理からぬ話ではあるのだ。

長谷が赤塚を回顧する中で、比較的高い頻度で見受けられるのが、赤塚と誰かを比べることで、さり気なく赤塚を矮小化してゆく記述だ。

「NHK紅白歌合戦の当夜、市川ビル前の駐車場にTV中継車がやって来て、藤子スタジオの仕事現場が全国に放映されたこともあった。」

これも全くの嘘である。

要は、赤塚不二夫率いるフジオ・プロは、国民的番組NHKの「紅白歌合戦」の中継には、出演出来なかったが、藤子不二雄とそのスタッフは、大々的に取り上げられたと、その注目度の差を伝えたかったのだろうが、この時、大晦日に正月返上で漫画製作に勤しむ藤子スタジオの様子を放映したのは、民放局であるTBSの「ゆく年くる年」(65年12月31日〜66年1月1日)である。

先刻承知の通り、この時『オバケのQ太郎』は、先行作品『おそ松くん』(「週刊少年サンデー」62年16号〜69年15号ほか)より一足早く、TBSでアニメ化され、またそのスポンサーである不二家を含む二次媒体との連動を伴ったメディアミックス戦略の成功により、赤塚と並ぶギャグ漫画界のトップとして、原作者である藤子不二雄コンビもまた、一躍時の人となっていた。

そうした下地もあり、『オバQ』の放映局であったTBSが、この年に丁度持ち回りであった「ゆく年くる年」で、神社仏閣や様々な宗教施設からの中継と交えて、修羅場と化した藤子スタジオのライブを放映したのだ。

記述するのも馬鹿らしいが、この件に関しては、「第16回NHK紅白歌合戦」のアーカイブを視聴すれば、疑問の余地もないだろう

また、タモリのテレビデビュー(「土曜ショー マンガ大行進 赤塚不二夫ショー」75年8月30日放映、NET)についても、長谷は例によって、タモリの素人離れした別格ぶりを示すことで、既に赤塚不二夫という存在が過去の遺物に成り下がっている印象を操作をしている。

この辺りの描写を前述の『あるマンガ家の自伝 桜三月散歩道』より抜粋してみたい。

「子どもたちの夏休みがほぼ最後の日ということで、NETから依頼されて、高島忠夫氏の『アフターヌーン・ショー』を赤塚版の子ども向けにして放映したい、という話が持ち込まれていた。」

これは事実であろう。

また、この時のタモリの衣装についても、「扮装はキリスト教の神父の衣装で出そうということで、これだけは衣装部への発注となった。」

尚、この時のスチール写真は、タモリゲスト回である1996年12月30日放送の「徹子の部屋」で取り上げられ、筆者はそれを確認している。

従って、これも間違いないと断言出来よう。

だが、タモリの珍芸、奇芸のパフォーマンスにすっかり魅了された司会の高島忠夫の独断による、タモリのパフォーマンスをもっとフィーチャーしたいという意向から、そのプログラムに対して、長谷は「番組全体が、もう赤塚マンガの話題ではなくなっている。」と述懐しているが、当時、オンエアされた当番組を視聴された方々に話を伺うと、どうも話が違うようだ。

番組内容は、赤塚のこれまでの半生をタモリが紙芝居で幕間的に紹介し、ゲストの藤子不二雄Aや石ノ森章太郎とのトークを挟んで番組進行、フジオ・プロでの製作風景のVTRが放映され、最後にバカボンのパパに扮した赤塚と実際のバカボンのパパの着ぐるみが何故か結婚式を上げるというシュールな展開へと雪崩込み、牧師に扮したタモリが、藤子A、石ノ森とともに二人を祝福するというように、この番組でのタモリの立ち位置は、あくまで赤塚のアシスタントというものだった。

冷静に考えてみよう。

いくらその後、芸能界で天下を取るタモリとはいえ、この時はまだプロデビューもしていない素人だ。

そんな素人に、この時、押しも押されぬギャグ漫画の第一人者たる赤塚不二夫をそっちのけにしてまで、フィーチャーするなんて話は、天地がひっくり返ったところで有り得ない話であろう。

それに、赤塚を隙あらば陥れたい長谷と、純粋に当時、赤塚のファンだった少年達の証言、どちらが客観性を伴っているか、また信頼に足り得る情報であるのか、その回答は皆まで語るまでもないだろう。

余談だが、筆者が『赤塚不二夫大先生を読む』のインタビューで、テレビ初出演のタモリと共演した際の印象について藤子不二雄Aに伺った際、下記のようなコメントを頂戴した。

「番組の最後の方でタモリ氏が出てきてね。片言の日本語で煙に巻く外国人のインチキ牧師を演じたんだ。

元々タモリ氏は、デビュー前から赤塚氏の繋がりで紹介されていてね。

僕らの行き着けだった「ナジャ」とか「アイララ」とか、新宿の場末のバーに出没しては、4ヶ国麻雀だとか、イグアナの形態模写だとか、今まで見たこともないような、それこそ至芸を披露してくれてね。」

紙幅の関係から、やむなくカットとなってしまったが、そんなタモリのテレビ初出演に対し、藤子Aは「初出演とは思えないくらい堂に入った落ち着きでね。その後、テレビやラジオで大活躍するようになったけど、それも当然の流れだなと思ったね」という称賛で結んだ。

尚、近藤正高による著書『タモリと戦後ニッポン』でも、タモリ史を回想した内容だけに、「土曜ショー マンガ大行進 赤塚不二夫ショー」についても触れているが、著者の近藤は、1976年生まれと、当然ながら本番組をオンタイムで視聴しておらず、ましてや、『総特集 赤塚不二夫 81年目のバカなのだ』(「ユリイカ」2016年11月臨時増刊号)で、チビ太のキャラクターデザインが、高井研一郎によるものであると、誤った受け売りをそのままミスリードしてしまうほど、赤塚に関する知識は泥縄式に等しい御仁だ。

そんな近藤もまた、前掲の『あるマンガ家の自伝 桜三月散歩道』からの一文を引用として取り上げ、悲しいかな、この記述のラストとして、締め括っている。

タモリ関連書籍に関しては、屈指の一冊と呼べる著作だけに、このような誤認識により、それを台無しにしてしまった長谷による風説の流布は、実に罪深いものがある。

『漫画に愛を叫んだ男たち』が刊行されて、2024年現在、既に二〇年の月日が経とうとしている。

しかしながら、調べればあからさまにバレる、これらの稚拙な虚言すらも、漫画研究家やマニアらによって叱正されることは一切なかった。

これがもし、別の巨匠漫画家だったら、その作家のディレッタントにより、明確なソースが呈示されつつ、それこそ炎上レベルで斧正されていたことであろう。

余談だが、漫画評論家の米澤嘉博が、1981年に『戦後ギャグマンガ史』(新評社刊)なるクロニクル本を上梓した際、赤塚マンガには一切興味がなかったのであろう。代表的な赤塚マンガの連載期間を含む事実関係の錯誤や、作品世界に対する理解の闕如が至るところにおいて散見され、初読の際、愕然とした想いに駆られたことがあった。

この本が刊行された81年当時、赤塚は、漫画界の第一線ともいうべき少年週刊誌からの撤退を余儀なくされていたものの、「週刊文春」連載の『ギャグゲリラ』ほか、週刊誌1本、月刊誌6本の連載を抱えていた。

無論、これらの作品はヒットには結び付かなかったものの、漫画家としての仕事が一切なかったわけではなかった。

そして、何よりも、まだこの時代は、ほんの数年前まで、週刊誌5本、月刊誌7本といった同時連載を抱えており、赤塚自身、ギャグ漫画の大家として、また世間の記憶に留められていた頃である。

尚、この著作は2009年、前年の赤塚の逝去に合わせたタイミングだったのかは知る由もないが、筑摩書房より文庫化された。

米澤よりも若い気鋭の漫画研究家がオリジナル版にあった錯誤誤記を訂正した完全版と謳っていたものの、赤塚に関する誤った記述やデーターは全くもって訂正されることはなく、やはりというか、漫画研究家の間でも、赤塚の漫画家としての認識は所詮その程度のものだと、改めて痛感した次第である。

因みに、この文庫版は、フジオ・プロスタッフの吉勝太が新たに描き下ろしたレレレのおじさんがそのカバーを飾っているが、そのテキストにおいて、赤塚が蔑ろにされているだけに、殊更に虚無感が込み上げてくる。

閑話休題。話が横道に逸れてしまったが、筆者は常々「長谷邦夫にファンや味方はいても、赤塚不二夫にとってのそれらは一切ない」と当ブログで語っているが、これなどはまさに、そうしたトラジェディの証左であると嘆いても憚らない。

他にも、長谷によるデーター等の細かい錯誤誤記を挙げれば、呆れ返る程にキリがないが、この場を使って逐一訂正を加えておきたい

赤塚マンガ最大のヒット作であり、赤塚の象徴的作品とも言える『天才バカボン』。その連載期間を「週刊少年マガジン」昭和42年15号〜昭和44年9号 昭和46年37号〜昭和49年29号」と、著書『天才バカ本なのだ!!!』の中で解説しているが、「マガジン」誌での復活連載を指しているとおぼしき昭和46年37号〜昭和49年29号という記述は、この復活連載の『天才バカボン』と時同じくして、ライバル誌「週刊少年サンデー」にて並行連載されていた『レッツラゴン』のそれである。

しかしながら、こうしたん誤謬ですら、『天才バカボン』を回顧した記事等で、長谷の解説文が連綿として使われている始末なのだ。

『天才バカボン』は、連載、中断、再連載と途中掲載誌を変え、長きに渡って発表され続けた作品である。

従って、少ないページ数の中で、その全データを書き切るには限界があるわけだが、この『天才バカ本なのだ!!!』は、1988年にリニューアル刊行された講談社コミックス『天才バカボン』全16巻をテキストに執筆されたものである。

このシリーズは、1987年のリバイバル連載以前の67年から76年に「週刊少年マガジン」「別冊少年マガジン」「週刊ぼくらマガジン」「月刊少年マガジン」に掲載された作品をアトランダムに編纂したもので、「週刊少年サンデー」等の小学館系の少年誌に引っ越し連載していた時期のエピソードについては、一切収録されていない。

従って、「週刊少年マガジン」(昭和42年15号〜昭和44年9号 昭和46年27号〜昭和50年2号 昭和50年43号〜昭和51年49号)、「別冊少年マガジン」(昭和42年8月号〜昭和44年1月号 昭和49年8月号〜昭和50年5月号)、「週刊ぼくらマガジン」(昭和46年20号〜昭和46年23号)、「月刊少年マガジン」(昭和50年6月号〜昭和53年12月号)と記すべきであるのだ

1994年から翌95年に掛けて、長谷の編著により『ニッポン漫画家名鑑』『ニッポン名作漫画名鑑』『ニッポン漫画雑誌名鑑』の三部作をデーターハウスより刊行されるが、これらの著作においても、赤塚不二夫関連に関し、幾つかの間違いがあるので、指摘しておきたい。

まず、「週刊少年ジャンプ」にて設立された新人ギャグ漫画家の登竜門「赤塚賞」についてだが、設立年は1965年ではなく、正しくは1974年。65年当時、「少年ジャンプ」はまだ創刊すらされていない。

また、『ニッポン名作漫画名鑑』で取り上げられた『レッツラゴン』『松尾馬蕉』に関しても、『レッツラゴン』の連載期間は、昭和47年〜49年ではなく、昭和46年〜49年。『松尾馬蕉』(「平凡パンチ」)は、昭和56年ではなく、昭和58年の連載作品だ。

この三部作は、複数の漫画マニアからも理解の欠乏や記述の誤りが指摘されているように、資料的価値に照らしても、愚にもつかないレベルであるが、あくまで当ブログは、赤塚不二夫に特化したブログなので、その他の作家や作品に関する記述については、ここでの言及を避けておく。

さて、本稿では、長谷邦夫の著作における虚言や歪曲、事実誤認等を重箱の隅を突くように、一つ一つ詳細に訂正してきたが、現在、赤塚不二夫にファンや味方が皆無といった現状を鑑みると、誰もこのような記事を求めることもないだろうし、端から見れば、単なる世迷い言に過ぎないだろう。

そして、長谷が振り撒いたこれらの妄言に更なる尾鰭が付き、赤塚作品の全作品を長谷邦夫が代筆したという戯言にシンボライズされる、赤塚への矮小化や形骸化を促す流言飛語が、この先もネットやメディア等において切れ目なく飛び交うことは、火を見るよりも明らかだ。

混濁の世の不条理と言うべきか、現在の赤塚不二夫は、死して尚、国民のサンドバッグ宜しく、儘ならない日常への鬱憤晴らしの対象として、日々SNS等のネット民により罵詈雑言を浴びせられている始末である。

恐らく、長谷にとっても、世の赤塚に対する、ここまでの地に堕ちた扱いは想定外のものであったに違いない。

最早、文化遺産としても遺らず、今後も世間一般から益々揶揄され、歪なまでに俗物化されてゆく赤塚不二夫という存在に対し、長谷邦夫は、草葉の陰でほくそ笑んでいるのだろうか……。

いや、こんなこと、考えるだけで野暮というものだろう。

今後も、赤塚不二夫がギャグ漫画の第一人者だったという認識は、現世において、益々希薄化してゆくこと必至なのだから……。

他にも、長谷に関するトピックを二、三抱えているが、プライベートな問題である上、ややもすれば、その名誉を著しく損なう事柄も多分に含まれているので、これ以上の言及は控えておく。

そして、筆者が長谷邦夫について触れるのは、本稿をもってピリオドとしたい。


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