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文化遺産としての赤塚不二夫論 今明かされる赤塚ワールドの全貌

赤塚不二夫を文化遺産として遺すべく、赤塚ワールド全般について論及したブログです。主著「赤塚不二夫大先生を読む」ほか多数。

ネットでも調べることの出来ないマニアックな元ネタ カルト赤塚不二夫ワールドへの誘い

2025-08-07 14:44:14 | 論考

時代と密接にリンクしていた赤塚不二夫のギャグ世界。それは社会世相であったり、流行歌であったり、CMであったりと千差万別だが、後追い世代でもある現行の読者にとって、本来の意味を理解するには難しい笑いも少なくない。

その理由は、現在のネット社会においてでさえ、その莫大な情報量をもってしても、それら笑いの元ネタが判明し得るヒントすら存在していないケースがままあるからだ。

今回は、今となってはそんな意味不明となったギャグの数々を取り上げ、その補足を加えることで、マニアックな赤塚ワールドを掘り下げてみたい。


『もーれつア太郎』(「百万円のハナヨメさん」/「週刊少年サンデー」70年23号)

結婚資金としてココロのボスが百万円もの大金を貯め込んでいることを知った目ん玉つながりが、ボスに対し、見苦しいまでに徹底して媚び諂う中、更なるダメ押しで「気がむいたら、(六〇四)一一七一へ、お電話くださいねっ!!」と懇願する台詞がある。

果たして、このテレフォンナンバーは一体……?

多くの読者がこれはフジオ・プロの代表番号だと思ったことであろうが、当エピソードが発表された十八年後の1988年、筆者がこれに東京局番の〇三を付けて掛けてみたところ、繋がったのは、何と、「リカちゃん電話」だった。

「リカちゃん電話」とは、リカちゃん人形が発売された翌年の1968年10月、その爆発的人気から、ユーザー向けに開始されたテレフォンサービスで、リカちゃんの生声で、新たに発売されるお友達(新商品)の紹介や、リカちゃんの日常を語ったエピソードトークなどを自動音声で流すといった内容だった

「百万円のハナヨメさん」掲載当時、リカちゃんのボイスアクトを担当していたのは、「ウメ星デンカ」の声でも知られる人気声優の杉山佳寿子で、現在では前述のナンバーとは異なるそれへと変更されている。

曙出版で『もーれつア太郎』が単行本化された際、目ん玉つながりのフキダシも、その電話番号のまま掲載されていたが、1994年に竹書房文庫にて復刻された際には、「気がむいたら、お電話くださいねっ!!」の台詞のみで、ナンバーについては、そっくりカットされている。

復刻の際での台詞の改変や修正に関しては、基本的に好まない筆者ではあるが、この件については、、関係各所への充分な配慮を示した好判断と言って差し支えないだろう。

 

『天才バカボン』(「みんなそろってフチオさん」/「週刊少年マガジン」72年42号)

扉ページにて女性週刊誌を読むバカボンのパパ。「あのカルメン・マキは愛人 支那虎とわかれていた!! いいじゃないの わかれたって」「離婚一週間め わかれた藤圭子 前川清が緊急会談!! いいじゃないの 会ったって!!」「よけいなおせわなのだ!!」と、前口上を述べながら、この時、新創刊となった赤塚不二夫責任編集のパロディ・サタイア誌「まんがNo.1」について宣伝を兼ねるのだが、吹き出しにあるカルメン・マキ、藤圭子、前川清は我が国において一時代を築いた著名な歌い手であるため、ここでの説明は不要だろう。

しかしながら、同じ吹き出しの中にあるカルメン・マキの愛人、支那虎とは果たして何者なのかというクエスチョンを複数の方から頂いたことがある。

ここに書かれている支那虎とは、アメリカを代表する世界的なエンターテイナーの一人、フランク・シナトラとは全くもって関係はなく、そのシナトラに肖って命名された前衛劇団「天上桟敷」所属の若手俳優のことを指している。

命名者は、同劇団の主宰にして歌人、作家としても令名高い寺山修司その人だ。

1969年、「時には母のいない子のように」で歌手デビューを果たして以来、自身のバンド、カルメン・マキ&OZを率いるなど、音楽畑で功なり名を遂げるカルメン・マキだが、芸能活動をスタートさせた当初は、「天上桟敷」の看板女優だった

その時に、東京12チャンネル(現・テレビ東京)のディレクターで、後にジャーナリストとして活躍する田原総一朗が、彼女が日々したためていた「体験的空想日記」なるものに感銘を受け、そのフィクショナルな日常をそのまま演じさせようとヤラセドキュメントとして撮ったのが、「わたしたちは…… カルメン・マキの体験学入門」(69年2月2日放送)という番組だった。

この番組では、カルメン・マキの同棲相手役として白羽の矢が立ったのが、「天上桟敷」の演技部の部長であり、同劇団の立ち上げメンバーでもあった支那虎なる若者だ。

カルメン・マキと支那虎は、ヤラセ演出で同棲カップルを演じているうちに、役者同士にありがちな、虚構と現実が一致し、恋仲に陥るという展開になり、芸能ゴシップとしてマスコミを賑わすことになる。

だが、男と女の擦った揉んだの末、その後二人は破局を迎えるわけだが、扉ページでバカボンのパパが読んでいたゴシップ記事は、そんな直後のタイミングで書かれたものなのであろう。

その後、支那虎はカルメン・マキとの恋愛スキャンダルにより、寺山修司の逆鱗に触れることとなり、「天上桟敷」を脱退。一時期は田原総一朗の下で助監督を務めていたとのことだが、現在その消息は杳として知れない。

余談だが、『もーれつア太郎』/「ココロのボスのカチカチ山」(「週刊少年サンデー」70年1号)では、ニャロメに「いま キャルメンマキがこのスタイルで歌ってるんだぞニャロメ!!」と騙されたココロのボスが、背中にマキを背負わされた挙げ句、カチカチ山宜しく、ニャロメに火を点けられ、大騒動というプロットがある。

以前、筆者がとあるライブ会場で、カルメン・マキ本人と談話を交わす機会に恵まれた際、この挿話で、ココロのボスがカルメン・マキの大ファンとして描かれていること、またニャロメが「キャルメンマキ」と呼んで、代表曲である「山羊にひかれて」を口づさんでいたエピソード等を現物を見せて伝えたところ、彼女もまた、当時『ア太郎』を読んでいたらしく、懐かしい想い出も含め、満面の笑みで喜ばれていたのを思い出す。

キャルメン・マキちゃんが大好きなニャロメとココロのボスのご両人、大分時間は経ったけど、君達の彼女への想いは、『もーれつア太郎』のファン代表として、この私が責任を持って伝えておいたぞ(笑)。


『天才バカボン』(「傷つきやすい少年の心なのだ」/「週刊少年マガジン」73年46号)

こまっしゃくれた小僧を演じさせたら随一の赤塚キャラの竜之進。キャラクターメイクをそのままに、本作ではヤス男の名で登場、厳格な父親、宗太郎との遣り取りをテーマとしたエピソードだ。

さて、本エピソードでは、宗太郎のお説教に対し、のらりくらりと交わすヤス男が、急に丁重な言葉遣いで、「ぼくの大学資金ありますか? ぼくの結婚資金ありますか?」と問い掛けるシーンがある。

すると、宗太郎は「ムムッ 野村證券の財形貯蓄があーる」と声高々に答え、ヤス男が「おっとうさん!!」と土下座で恐縮するという流れが一つのギャグになっているのだが、これは当時、頻繁にオンエアされていた野村證券の財形貯蓄のコマーシャルを元ネタにしたものであり、当然ながら、この展開そのものがそのパロディーとして描かれているのだ。

赤塚マンガには、古くからその時々の人気CMがパロディーの一環としてギャグに昇華されることが多々あったが、本作もその一つだ。

しかし、その殆どが、今現在においても、安易に情報収集出来るCMであり、補足、注釈等を改めて加えるまでもないものの、この野村證券のCMに関しては、ネットの大海をもってしても、何の資料も見付からないため、敢えてここで取り上げた次第である。

尚、当CMをオンタイムで視聴した方の証言によれば、『バカボン』では宗太郎に該当する父親の俳優は、進藤英太郎や中条静夫を彷彿させる、厳めかしいイメージの人物であったという。

YouTubeをはじめとする何処ぞの動画サイトにてアップされていないものだろうか……?


『天才バカボン』(「またでてきたのだ天才バカボン」/「週刊少年マガジン」74年1号)

偽の最終回(「最終回のやけくそマンガなのだ」/「週刊少年マガジン」73年50号)が掲載された4号後となる74年1号、原色ピンクをバックとしたド派手なカバーイラストを引っ提げ、『天才バカボン』は復活する。(但し、カバーのみ『新天才バカボン』なるタイトルが記載されている。)

その作中、ライオンズクラブに凝っているというバカ田大学の後輩二人がパパのもとに訪ねて来るのだが、パパと後輩との間で、新たに発足したクラブの名称を決めるにあたり、「ヤングレディの水谷洋子をすきだクラブ」にしよう」「テレビマガジンの賀谷サトミをすきだクラブのほうがいい!!」といった遣り取りが繰り広げられる。

その後、もう一人のバカ大生が「バカども!! 読者にわからないクラブをつくるな!!」とナイスなツッコミを入れわけだが、この台詞の通り、読者がその名を知り得ないのも当然で、水谷、賀谷の両女史は、当時、講談社系雑誌「ヤングレディ」「テレビマガジン」の編集部に勤務する女性記者だった。

この時、水谷、賀谷ともに、フジオ・プロに出入りしていたため、こうした楽屋ネタ的なギャグが挟み込まれたのであろう。

因みに、賀谷サトミは、所属する編集部が「テレビマガジン」ということもあり、恐らくは、この時、代筆連載されていた長谷邦夫版『天才バカボン』の担当エディターであったと思われる。

また、このエピソードが発表されるその直前に発売された「ヤングレディ」(73年12月4日号)には、赤塚とぬいぐるみのウナギイヌをフィーチャーしたグラビアページが特集されており、この時の担当記者が水谷洋子その人だったのではないだろうか……。

いずれにせよ、楽屋ネタとはいえ、漫画のネタにするくらい、水谷、賀谷両女史ともに、赤塚にとっては、魅力的な女性編集者だったに違いない。


『水知らずの人は水人間なのだ』(「月刊少年マガジン」88年4月号)

約九年ぶりに「月刊少年マガジン」誌にて、復活連載した『天才バカボン』。児童誌連載のそれとは異なり、70年代赤塚ワークスを彷彿させる過激なナンセンスに特化したエピソードも少なくなく、本作も水中で暮らすバカ田大学の後輩がバカボンのパパに生け簀料理にされるというハード&ラウドな落ちが鳴り響く痛烈な一作だが、毎度登場するドラマの句読点ともいうべき夜景に、プロペラの付いた空飛ぶクジラとともに顔を出した夜のイヌが、「そういえば 高信太郎のバカ どうしてるんだろう ワンワン」と、読者に向かい、キャッチーに語り掛けるシーンがある。

高信太郎とは、生前、赤塚と親交のあった漫画家で、赤塚は悪態を吐きつつも、宴席に呼んでただ酒を振る舞ったり、「赤塚不二夫と全日本満足問題研究会」の発足メンバーとして迎え入れたりと、何かと目を掛けていた。

「週刊少年マガジン」版の『天才バカボン』においても、「ドビンとチャビンのクルソーなのだ」(72年19号)内にインサートされた、自身の身辺雑記を綴った「フジオのヤングレポート」なるコーナーでも、赤塚は「高信太郎のマンガがおもしろかったです」との一文を付け加えたり、「電話の電話のTEL子さんなのだ」(72年47号)でも、電話以外では誰とも口を聞きたくないドスケベコーシンこと交信太郎という変名で登場させている。

東京12チャンネルの伝説的プログラム「私のつくった番組 赤塚不二夫の激情No.1」(73年1月25日放映)でも、高にオカマの格好をさせ、番組にゲスト出演させたりもした。

また、高信太郎は1975年当時、火曜1部放送の「オールナイトニッポン」(ニッポン放送)で、パーソナリティを務めており、赤塚との交友から知己を得たタモリを四週(75年9月2日〜9月30日)に渡って連続出演させたことでも知られている。

タモリにとっては、この番組がテレビ初お目見えとなった「土曜ショー マンガ大行進! 赤塚不二夫ショー」(NET、75年8月30日放送)に続く二度目のメディア出演であり、番組最終回では、時の人気アイドル、アグネス・チャンとの電話対談にファンのモリタさんを名乗り登場。インチキ中国語を繰り広げ、そのパフォーマンスは一部のリスナーに大きな衝撃を与えることになる。

『アタゴオル物語』や宮沢賢治作品のコミカライズで知られる漫画家のますむらひろしもその一人だ。

この時、「高信太郎のオールナイトニッポン」の担当ディレクターであった人物が、後にジャズ評論家となる岡崎正通で、ニッポン放送入社前は、早稲田大学モダンジャズ研究会に所属しており、タモリとは同会における先輩後輩の間柄であった。

無論そうした縁も重なっての起用だが、高がタモリメジャー化に一役買っていたことは紛うことなき事実と言えよう。

赤塚といえば、多くの人間を宴席に呼び、散々っぱら豪遊をさせては、その飲食費の一切合切を支払うといった、無駄金遣いを痛々しいまでに繰り返していたが、高もまた、そんな赤塚のご相伴に預かっていた一人であった。

だが、三木のり平の不肖の倅で、無芸大食の代表芸人であった小林のり一のように、生前、赤塚から大層な恩恵を被りながらも、赤塚の死後、赤塚をボロクソに叩きまくるような不義理を果たすこともなかった。

むしろそれ以上に、高のエッセイやインタビュー等からは、赤塚をリスペクトしている発言すらも見受けられ、それも相俟ってか、筆者に限って言えば、業界内での評判とは別に、高に対してマイナスの感情は全くといって良いほど抱いてはいない。

さて、空飛ぶクジラといえば、一般的に、フォークデュオ、ちゃんちゃんこによる1974年のヒット曲「空飛ぶ鯨」や、ナイアガラの王様、大瀧詠一の「空飛ぶくじら」を思い出すだろうが、実は、高信太郎もまた、80年代、『空飛ぶクジラ』なるタイトルのナンセンス漫画の連載を持っていた。

高がちゃんちゃんこの「空飛ぶ鯨」や大瀧詠一の「空飛ぶくじら」からモチーフを得て執筆したのか、知る由もないが、漫画の中でプロペラの付いた空飛ぶクジラを登場させている。

赤塚マンガでは、1985年、「サンデー毎日」連載の『赤塚不二夫のどうしてくれる!?』第二話、「めんたまつながり」(85年2月24日号)でも、やはり夜のイヌをフィーチャーしたシーンで、空飛ぶクジラを登場させ、当時、話題を呼んでいた俳優、加山雄三の愛船「光進丸」がネーミングの頂きになったのか定かではないが、その腹部に「高信丸」と書いている。

高信太郎は、赤塚不二夫ほど世間から忌み嫌われ、バッシングの対象とはなっていないものの、実際のところ、その作品は、赤塚よりも読まれる頻度が少なく、漫画愛好家の間でも、全くと言って良い程、俎上にあがらない漫画家である。

そういった情報量の少なさから、今回、この場にて取り上げてみた

ついでだが、赤塚と高信太郎に纏わるエピソードで忘れ得ぬものが一つあるので、ここに紹介したい。

高信太郎といえば、1977年頃、まだテレビスタッフが歯牙にも掛けていなったツービート時代のビートたけしにいち早く肩入れして、何かとサポートしていたことでも知られる。

ツービートブレイクの切っ掛けとなった1978年の高田馬場の芳林堂で開催された「マラソン漫才・ツービート・ギャグ・デスマッチ」の仕掛け人も、実は高なのだ。

そんな高を仲立ちに赤塚もまた、たけしと交流を持つが、ツービートでのブレイク後、たけしは高の居丈高な態度に辟易した結果、袂を分かつことになる。

そんな折、高は赤塚に酔う都度、「俺はたけしに裏切れられた」と愚痴を零していたという。

その時、赤塚は決まって「たけしは、お前を裏切ったんじゃない。お前から卒業したんだ。だから、今、ヤツが抱えているたけし軍団を一人前の芸人に育て上げることで、お前に恩返ししようとしているんだよ」と諭して聞かせたそうな。

無論、その言葉に高が納得したかどうかはわからない。

しかし、筆者がたけし軍団の某団員にこのエピソードを語ったところ、赤塚に対し、涙ながらに「人間としての度量の大きさをまざまざと見せ付けられた想いがした」と、その心情を吐露していたのが忘れられない。

話は逸れてしまったが、世間的に何かと評判の悪い赤塚にも、こうした一面があるという事実を知って欲しく、敢えてこの場で紹介させて頂いた。


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