文化遺産としての赤塚不二夫論 今明かされる赤塚ワールドの全貌

赤塚不二夫を文化遺産として遺すべく、赤塚ワールド全般について論及したブログです。主著「赤塚不二夫大先生を読む」ほか多数。

赤塚不二夫と長谷邦夫の40年に渡る友情と確執 そして絆

2022-03-17 21:59:12 | 論考

漫画家・赤塚不二夫を語る上で、誰よりも欠かせない人物が、長谷邦夫であることに異論を挟む余地はいないだろう。

赤塚不二夫に無理解を示す局外者の間では、晩年の赤塚が酒浸りであったというイメージと、長谷邦夫自身、至る所で赤塚の影武者としての存在をアピールしていたことから、赤塚に対する愚弄も込めて、長谷こそが、赤塚作品のほぼ全てを代筆したと、未だ誤った情報が連綿として語り継がれている。

しかしながら、世間一般の人間にとって、長谷邦夫の名前は、今ひとつピンと来ないに違いない。

赤塚不二夫の代表作といえば、『おそ松くん』『天才バカボン』『ひみつのアッコちゃん』とそのタイトルを列挙出来ようが、長谷邦夫のそれと言ったら、誰もが答えに窮する筈だ。  

長谷邦夫とは、果たして何者なのか……‥。

ここで、漫画家としての長谷邦夫のプロフィールとその人物像を簡単ではあるが、振り返ってみたい。

1937年4月7日、現・東京都葛飾区金町に生まれ。幼少期より漫画への傾倒を示すようになり、「漫画少年」に投稿するも、ほぼ選外という有り様だったが、東京都立芝商業高等学校在学中の1955年、同誌で会員募集していた石ノ森章太郎主宰の「東日本漫画研究会」に入会。既に上京し、「漫画少年」の入選の常連となっていた赤塚不二夫と交流を重ねる。

同年夏、石ノ森の初上京の際、赤塚を交えた三名で、当時、豊島区雑司ヶ谷の「並木ハウス」に住居兼仕事場を構えていた手塚治虫のもとを訪ねたことは、戦後漫画史における重要なエピソードの一つとして今尚、語り草となっている。

翌56年、高校卒業と同時に、大手製薬メーカー・塩野義製薬に入社するも、健康診断により結核の兆候が露見し、僅か三ヶ月で退社を余儀なくされる。

その後、漫画家として身を立てることを再度決意。若木書房より『爆発五分前』でデビューを果たし、石ノ森、赤塚が「トキワ荘」に入居したことから、つのだじろう同様、トキワ荘の通い組となった

また、石ノ森、赤塚らとの親交から、長谷自身、寺田ヒロオを総裁とする「新漫画党」の入党を希望するも、「漫画少年」での入選が極端に少なかったこと、実力的にまだまだアマチュアレベルを脱し得ていなかったことなどから、その希望は果たせず、その後は、川田漫一、徳南晴一郎、鈴原研一郎、ヒモトタロウ、江戸川きよしらとともに曙出版の専属作家として本格的に活動し、親睦サークル「+(プラス)画人会」を結成。以降、『少年空戦王』『野球の鬼 王選手』『野球残酷物語 球場は墓だ』『忍法帖1964』『亡霊1964』等、戦記、野球、アクション、ホラーと様々なジャンルの描き下ろし単行本を執筆する。

暫し、SNSの泡沫ユーザーらによって、曙出版が『おそ松くん全集』や『赤塚不二夫全集』をはじめとする赤塚漫画の新書版コミックスを多数シリーズ化するに至ったことを、曙出版を主な活動拠点としていた長谷の口添えがあったからだと喧伝されているが、元々、赤塚の単行本デビュー作『嵐をこえて』(56年6月7日発行)は、曙出版からのリリースであり、社長の土屋弘とは、同郷(新潟)ということもあり、赤塚自身、何かと目を掛けてもらっていた。

事実、赤塚が曙出版で最後の描き下ろしとなった『消えた少女』(57年8月20日発行)以降も、『おそ松くん全集』『赤塚不二夫全集』(ともに68年刊行スタート)が刊行されるずっと以前に、『おた助くん』(全7巻)、『ひみつのアッコちゃん』(全6巻)等の貸本向け単行本が、引き続き曙出版から多数刊行されており、この指摘においても、全くの誤謬であることに疑いの余地はあるまい。

さて、このように、デビュー後、職業漫画家として、曙出版を中心に活動を続けた長谷であったが、これといった人気作を生み出すまでには至らず、1964年、藤子不二雄、石ノ森章太郎、つのだじろう、鈴木伸一といったトキワ荘OBらが設立した「スタジオ・ゼロ」の雑誌部にチーフアシスタントとして参加し、『オバケのQ太郎』『レインボー戦隊』といった人気作品の作画補助を担当することとなる。

また、同時期に赤塚不二夫が「スタジオ・ゼロ」に合流した流れから、1965年、赤塚の「フジオ・プロ」設立に加わり、以降、赤塚のアイデアブレーン、マネージメント、文章物を中心としたゴーストライター、幼年向け作品やイラスト等、赤塚のサブストリーム作品の代筆を受け持つ傍ら、70年を挟んだ数年間においては、『ねじ式』の世界観にバカボンのパパが主役として紛れ込む『バカ式』、『ゲゲゲの鬼太郎』と『巨人の星』の登場キャラクターをクロスオーバーした『ゲゲゲの星』といったパロディー漫画を盗作漫画と称し、複数本に執筆する。

赤塚不二夫名義でのゴースト仕事で特筆すべきは、「ニャロメのうた」や「ココロのシャンソン」といった赤塚キャラクターのイメージソングの作詞であろう。

元々趣味的に現代詩を書いていたというだけあって、短いセンテンスの中にも、リスナーの心をグッと捉えて離さない独創的なワードが幾層にも重ねられ、そのセンスは、井上陽水の叙情的フォーク「桜三月散歩道」(作詞/長谷邦夫・作曲/井上陽水)にて結実する

「桜三月散歩道」は、日本初のミリオンセラーとなったアルバム「氷の世界」に収録され、「氷の世界」が日本作詩大賞・LP賞を受賞したことから、長谷もメダルを授与するという栄誉に輝く。

また、傑作にはなり得ていないものの、筒井康隆の長編小説『東海道戦争』を朝日ソノラマの「サンコミックス」レーベルより、コミカライズしたのも「バカ式」の執筆に前後してのことであった。

その後も、「赤塚不二夫責任編集」と銘打った「まんがNo.1」の実質的編集長を、多忙な赤塚に代わって務めたほか、「馬鹿なことを真面目にやろう」のスローガンの下、発足した「赤塚不二夫と全日本満足研究会」のレギュラーメンバーとして活動するなど、92年に至るまで、赤塚の創作、もしくはパフォーマーとしての活動を陰日向となって支えていった。

赤塚が体調を崩し、長期入院していた1986年には、集英社主催によるギャグ漫画の登竜門「赤塚賞」の審査を、審査委員長である赤塚に代わって務めており、そういったエピソードからも、赤塚と長谷は一心同体の存在であったことが窺えよう。

1960年代後半以降、貸本文化が衰退してゆく中、多くの漫画家がその活躍の場を奪われ、廃業してゆく。

それは、長谷が名を連ねていた「+画人会」も例外ではなく、貸本漫画家としての未来に希望を抱けなくなった長谷は、藤子不二雄、石ノ森章太郎、つのだじろうらが重役を務めるスタジオ・ゼロ雑誌部のチーフアシスタント、更には、赤塚のトータルマネージメントを引き受けることで、大手出版社と距離の近い環境にて、浮上の切っ掛けを得ようとするものの、現状は厳しかった。

だが、そこは、長谷の転んでもただでは起きない所以たる所で、超売れっ子となった赤塚をサポートすることで、表現者としての存在意義を見出すべく、奮闘したという。

つまりは、赤塚のスタッフとして、フジオ・プロに身を委ねることにより、漫画業界において生きながらを得たということだ。

そういった意味でも、長谷が「最も興味のある人間(漫画家)は、赤塚不二夫である」と公言していたのも実に頷ける。

1970年代、赤塚が、夜の新宿を舞台に、様々な業種の異才、鬼才らと交友を重ねる中、長谷もそうした酒の席に臨席しつつも、フジオ・プロにヘッドスタッフとして所属する中、サラリーマンの平均月収以上という安定した収入を得られるようになったことで、ジャズ、演劇、映画鑑賞、読書と一層サブカル趣味の世界へと耽溺してゆく。

だが、そうした長谷の趣味、素養がフジオ・プロのアイデア会議の際、赤塚の執筆へのモチーフになったであろうことは想像に難くなく、赤塚自身、「情報屋の長谷がいるからこそ、僕は漫画を描いていられる」と常々語っていたほど、赤塚の長谷への信頼度は絶大なものであったと言えるだろう。

後に稀代のエンターティナーとして国民的人気を博すことになるタモリこと森田一義と邂逅し、赤塚に紹介したのも、長谷が、ジャズ・フュージョンの山下洋輔トリオの熱烈な追っ掛けであり、また山下と交流を結んでいたことがその原点にあったと言っても差し支えあるまい。

ただ、長谷の最大の欠点は、赤塚とは違った意味で金遣いが荒く、平均サラリーマンをも上回る収入を得ていながらも、蓄財が苦手なタイプであり、自らの趣味とは無縁な飲食費や遊興費の一切合切を全て赤塚にたかっていた。

つまりは、赤塚のように、印税や著作権使用料等、莫大な不労所得が入ってくるといった生活環境ではなかったのだ。

そのため、仲間内では「お呼ばれおじさん」という有り難くない仇名を頂戴し、業界内においても、我が物顔で振る舞うそのキャラクターから「赤塚の威を借るキツネ」なるレッテルを貼られるなど、その人物評は芳しいものではなかった。

その趣味人としての生き方は、晩年に至るまで続き、先にも述べた山下洋輔トリオのほぼ全てのツアーに参加していた以外にも、劇団「青い鳥」のオブサーバーにしてスポンサーの一人として名を連ねるなど、妻子持ちの身でありながら、その行動は常にフレキシブルであった。

だが、そうした趣味人としての活動も、ある日突然、ピリオドを打たれることになる。

その性格上の問題から、社長である眞知子夫人や、番頭役である元虫プロ常務である桑田裕との確執から、社内での立場が危うくなり、フジオ・プロを解雇されることとなる。

フジオ・プロ設立から加わり、27年目を迎えた1992年のことであった。 

長谷にしてみたら、長年の女房役である自分を赤塚が引き留めるであろうことは必至であり、擁護してくれるのは当然であると信じて疑わなったに違いない。

だが、赤塚も過度の飲酒により、この時期、情緒も不安定になっていたのであろう。

他人の感情にヅケヅケと土足で踏み込んで来る長谷に対し、赤塚が煩わしさを感じるようになったことは想像に難くなく、長谷の退職に関しても、致し方ないというスタンスを示していたという。

周囲から何と言われようとも、常々「俺も赤塚不二夫だ!」と公言して憚らないほど、赤塚とは不離一体の存在であると自認している長谷にとって、赤塚の態度は、自我の崩壊にも繋がるものであったと見て間違いないだろう。

その結果、長谷は淀んだ感情の全てを赤塚にぶつけるに至り、終生に渡って、愛憎入り混じりで、赤塚を批判し続けたことも合点が行く。

暫し、ネット等で、長谷が赤塚サイドに、膨大な赤塚作品の中には、自分が代筆した作品もあるのだから、その印税分をこちらに廻して欲しいといった旨の文面を各出版社に送り、それが原因で、赤塚、延いてはフジオ・プロ側との確執は更に深まったとのエピソードが流布されるが、赤塚と袂を分かった以降、長谷が代筆した赤塚作品はいずれも絶版状態にあり、そのような要求を長谷がしたとは、冷静に考えて違和感を覚える。

そもそも、長谷による『ニャロメの地震大研究』や『ニャロメの異常気象大研究』等のカルチャーコミック、『孫子』『五輪書』、『ビジネス風林火山』に代表されるビジネスコミック等の代筆作品は、赤塚と長谷が訣別されたとされる1992年以降、全てが絶版状態にあり、印税分を要求しようがないのだ。

まさか、1994年以降、復刻ブームに乗じ、竹書房、講談社、小学館、ごま書房等からシリーズ化された『天才バカボン』『おそ松くん』『もーれつア太郎』『ひみつのアッコちゃん』『レッツラゴン』『ギャグゲリラ』等の代表的な赤塚ワークスを自らの作品であると、各版元に訴えたとでもいうのか……。

いや、それはないだろう。

いくら長谷が、永年に渡り、赤塚作品のアイデアブレーンを務めていたとはいえ、その断片的なアイデアを一本のドラマとして漫画に落とし込んでいたのは、他ならぬ赤塚不二夫だ。

赤塚周辺のみならず、業界内でも、決して芳しい評判があったとは言えない長谷であったが、一表現者として、長谷がそこまで厚顔無恥であったとは信じ難い。

長谷作品をろくに読んだことすらない長谷シンパの御仁には、『バカ式』『アホ式』『マヌケ式』(いずれも曙出版)刊、もしくは『少年マネジン』(実業之日本社刊)といった長谷のパロディー作品、延いては、赤塚ナンセンスに歩み寄った『ニャゴロー』(曙出版刊)、多忙な赤塚に代わって代筆した「月刊テレビマガジン」版『天才バカボン』シリーズ等を改めて通読して頂きたい。

優劣の差については、ここでの言及は避けるが、少なくとも、赤塚作品と長谷作品における作風の違いは、タッチ、ストーリーテリングも含め、一目瞭然ではあるまいか……。

ただ、そうした事実を踏まえ、確実な情報として書けることは、2005年に、小学館とコンテンツ・ワークスより『赤塚不二夫漫画大全集』がオンデマンド出版された際、赤塚がキャラクターデザインを担当し、長谷がその全てを執筆した『しびれのスカタン』(全3巻)の印税分を、「週刊少年サンデー」最後の赤塚番記者であり、武居俊樹とともに、底本となる『赤塚不二夫漫画大全集 DVD−ROM』の編集に携わった赤岡進へ要求し、支払われたというエピソードだ。

これは底本含め長谷への許諾なく収録されたことに原因があり、版元側のミスである。

従って、長谷による各出版社への印税要求のエピソードは、この事実が伝言ゲームとして、面白可怪しく伝わった風説の流布であったと、筆者は考えている。

フジオ・プロ退職後、長谷は、1993年の暮れに飛鳥新社が新創刊したコミックペーパー「日刊アスカ」の創刊に携わり、企画構成を担当するも、販売実績の問題から、鉄道弘済会より取次を棄却されたり、人気漫画家を招集出来ないといった、編集面での爪の甘さがネックとなり、半年足らずで廃刊の憂き目に遭う。

その後、2000年代からは、赤塚不二夫の元ブレーンという肩書きから、大垣女子短期大学、椙山女学園大学、中京大学のデザイン美術学科、表現文化学科等のマンガコース、宇都宮アート&スポーツ専門学校の小説・シナリオ科の大衆文藝演習の講師を務めることになる。

因みに、大垣女子短期大学を教鞭を執るまでに至ったのは、長谷にとって古くからの友人であり、同学科で特別講師を務めていた漫画家・しのだひでおの推挙があったことも要因として大きい。

このように、独立して以降、漫画家というよりも、講師として後進の指導にあたっていた長谷だったが、好事魔多し。

この頃から、長谷は漫画研究家、漫画評論家という立ち位置から、漫画関連のシンポジウム等にパネラーとしてお呼びが掛かる機会が一気に増えた。

人気少女漫画「キャンディ・キャンディ」の著作権の帰属を巡る裁判が、原作者である水木杏子、作画を受け持ったいがらしゆみことの間で執り行われ際、「マンガは誰のものか!?」と題されたフォーラムが京都精華大学・マンガ文化研究所の主催により開催され、パネラーとして登壇するのだが、ここで長谷は、自身の立場に大きく味噌を付けることとなる。

「キャンディ・キャンディ」裁判において、本来ならば、門外漢である筈の長谷が、水木杏子に対し、事実無根の虚言を交えて、その名誉を著しく毀損する発言を弄し、この一件が大きくクローズアップされる。

加えて、水木への誹謗を自身のブログにて書き連ねてしまったことで、水木サイドから弁護士を通じ、抗議を受ける事態へと発展してしまったのだ。

長谷は、その時裏覚えで耳にし、何の検証もなく、書き綴った水木への中傷の数々に対し、水木本人からクレームが届くものの、一切無視をし続け、水木の弁護人から抗議の文書が届いた際に、漸く事の重大さに気付き、該当記事を削除したという。

その後、長谷が水木サイドに対する謝罪文をブログに掲載したことで、事なきを得たというが、そうした虚言が事実へとすり替わって、独り歩きしてしまう危惧を感じずにはいられない。

そんな長谷の講義が、低レベルな内容であると一部の事情通から批判を受けていたのは事実だ。

それは、講師として知識面や技能面において、稚拙さを禁じ得なかったことも含め、そうした虚言や事実誤認による風説を公の場において恒常的に流布していたことが問題視されての結果と言えるだろう。

虚言という観点から、長谷を振り返った際、取り分け忘れ難いのが、『天才バカボン』を「週刊少年マガジン」から「週刊少年サンデー」に連載権を譲渡させた、俗に言う「バカボン移籍事件」についてであろう。

この移籍事件は、1969年当時、『あしたのジョー』の大ヒットにより、少年漫画週刊誌No.1の座を「マガジン」に奪われ、部数低迷に喘ぐ「サンデー」復活の起爆剤になるべく、『バカボン』を『もーれつア太郎』とのダブル連載にすることで、「マガジン」の『バカボン』読者を「サンデー」に誘導しようという目論見によるもので、これは長谷による発案だった。

無論、「サンデー」連載の『ア太郎』が、ニャロメのブレイク前で、『バカボン』とのジョイントで『ア太郎』人気を盛り上げようという狙いもその前提としてあったことは言うまでもない。

だが、長谷は、後年になってこれを否定。長谷は、この時、赤塚のマネージメント役から降りており、あくまでチーフアシスタントという立場であったと言及し、『バカボン』移籍には全く関与していないという旨を至るところで主張していたが、これには理由がある。

1987年より、講談社によるアート通信講座「講談社フェーマススクール」マンガコースのインストラクターを務めており、過去の話とはいえ、『バカボン』の移籍により、自身が講談社側に不利益を齎した張本人にあるという事実は、どうしても伏せておきたかったに違いない。

そんな長谷も、2013年、脳出血で倒れ、幸いにも一命を取り留めるものの、後遺症による体調不良から、その後、栃木県高根沢町の特別擁護老人ホームに入所。

事実上、漫画家としての活動に終止符を打つことになり、2018年11月25日、うっ血性心不全により、同町内の病院にて、その生涯の幕を閉じることとなった。

今や天上人となった赤塚と長谷は、再会し、何を語り合っているのであろうか……。

赤塚と決別し、数年を経た1999年、「小説新潮」にて、赤塚との出会いから別れを綴った手記を発表する。

今、手元にその資料がないため、正確な一文ではないが、その締め括りに「夕方6時に新宿のバーで待っている」と、赤塚へのメッセージが綴られている。

これは、重度のアルコール依存症に陥り、昼夜問わず、のべつ幕なしに過度の飲酒を繰り返し、漫画の執筆に支障をきたすようになった赤塚への、未だ持ち得る愛情を込めたメッセージであると、個人的には理解している。

赤塚はそれにどう応えるのか……?

執筆を一段落させた赤塚が、新宿ではないが、天国のバーで、夕方6時に再会している光景を思い浮かばずにはいられない。


最新の画像もっと見る

19 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (長谷洋之)
2022-08-24 00:54:43
南那須の家のことについて、誤った事実が書かれているので訂正をお願いしたいです。
以下、故人やその家族にとって不名誉な内容もあるため、あまり詳細を書くのは控えますが…

まず、南那須の家は長谷邦夫というより、長谷の妻(私の母)が欲しくて強引に買ったものであり、フジオプロで買ったものを長谷が譲り受けたという事実はございません。

避暑にも使えるレクリエーションハウス、ということで書かれていますが、南那須町は雑な言い方をすれば宇都宮郊外で標高も高くなく、建物も一般住居としての作り(老後に住めるように考えて)であり、とても避暑に行くような場所でも建物でもございません。
建築開始前から完成、その後と、私もずっと見てきましたが、フジオプロの方がいらっしゃったことは1度もないかと思われます。
関係者からの話としてお聞きになったようですが、なにか別の別荘の話と間違えて伝わっているのではないかと思われます。

南那須の家を買うにあたっては、確かに父は赤塚先生から多額の借金をしており、90年代にフジオプロで話をした、というのも、その返済についてであって家の修復でトラブル云々は全くございません。(元々長谷の家なので当たり前ですが)

家は結局ローンを払いきれず人手に渡ってしまい、その時は既に東京の賃貸は引き払っていたため、南那須の近くで車無しで生活できる高根沢町にアパートを借り、そこに住んでいた次第です。
(ちなみに南那須の家の建物自体は2022年現在も残っています。)

ここに書かれたことが本当なのか(コメント者は長谷洋之と名乗っているが本人なのか)を証明することは難しいですので、あくまで参考情報の扱いにしかならないかも知れませんが…

以上となります。
返信する
Unknown (長谷洋之)
2022-08-24 01:33:14
申し遅れましたが、私は長谷邦夫の長男です。
サラリーマンですが長谷邦夫関係のマネジメントをしております。

http://kunio.52-52.net/
このページ一番下のメール連絡先へのリンクで表示される長谷邦夫アカウントのGmailにご連絡頂ければ、私が返信しますので
簡単な本人確認としては、これがわかりやすいかもしれません。
返信する
Unknown (douteinawa)
2022-08-24 02:48:06
長谷洋之様
ご親族でいらっしゃるが故の貴重な証言、誠に有り難うございます!

赤塚不二夫研究の第一人者を自認しております私にとりまして、このように一つの謎が、関係者様の証言により明らかとされたことに喜びを感じる次第であります。

あくまで仮説とはいえ、風説の流布となる以上、私と致しましても非常に不本意でございますので、該当の記述は削除させて頂きます。

既にスタッフに訂正文を送信しております。

反映まで今暫くお待ち頂けましたら幸いでございます。

取り急ぎ恐縮ではございますが、当該の記述に関しまして、謹んでお詫び申し上げます。
返信する
Unknown (長谷洋之)
2022-08-24 09:06:30
早速ご対応頂いているとのこと、ありがとうございます。
赤塚先生や父が活躍していた時代から時間が経過し、当事者や関係者の年齢も上がり、元々いい加減な話が流れやすい環境だったことに輪をかけて事実関係の確認は難しくなっているかと思います。
そんな中で、これだけ詳細なレポートをまとめられていることは本当にすごいと感じました。
また、父の事についても、ネット上の情報もファンからの褒めとアンチからの悪口のどちらかになりがちなところ、ニュートラルな立ち位置で書かれており好感が持てます。また、仕事上の実力などについても正しく評価出来ているのではないかと感じました。
もし、また何かご協力出来る内容があればご連絡するようにしたいと思います。
返信する
Unknown (douteinawa)
2022-08-25 19:52:29
長谷洋之様

ご丁寧なご返信、誠に有り難うございます!

洋之様も仰る通り、赤塚、長谷両氏も既に鬼籍に入られ、尚且つその現役時代となりますと、気が遠くなるほど過去の時代に遡らざるを得ず、関係者の曖昧な証言等からも、どうしても風説として流れてしまう部分が多々あります。

平成生まれの編集者では、赤塚関連に限らず、昭和時代をテーマにした際、確認作業において、どうしても行き届かないところが生じるのは、ある意味仕方がなく、まさに、昭和は遠くなりけりです。

しかしながら、そうした状況の中でも、今回の洋之様より頂きましたコメントは、誤情報が錯綜する赤塚トピックにおいて、新たなる前進となって余りある貴重なものであると、感謝しております。

今後もまた、新情報、訂正等ございましたら、ご教授頂きたく存じます。

引き続きどうぞ宜しくお願い申し上げます。
返信する
「バカボン移籍事件」について (takurama)
2023-07-05 19:56:59
「サンデー」連載の『ア太郎』が、ニャロメのブレイク前で、『バカボン』とのジョイントで『ア太郎』人気を盛り上げようという狙いもその前提としてあったことは言うまでもない。

と書かれていらっしゃいますが、『バカボン』がサンデーに移籍した時、ニャロメはすでに『ア太郎』における人気キャラでした。そのあたりのことについては、以前、以下のページに書きましたのでご一読いただければ幸いです。

http://takurama.seesaa.net/article/425566842.html
返信する
Unknown (douteinawa)
2023-07-07 21:25:26
takurama様

私の拙い文章のため、間違った解釈を与えてしまい、誠に恐縮です。
『ア太郎』人気を盛り上げるために『バカボン』を「サンデー」に移籍させたというのは事実でして、この話が出た段階においては、まだニャロメが活躍する以前の話なのです。
恐らく1968年の暮れか、69年の早い段階でしょう。
仰る通り、『バカボン』が「サンデー」にて連載開始となった際、『ア太郎』には、既にニャロメが登場しており、人気作となっていました。
つまり、『バカボン』をわざわざ「サンデー」に移籍させた意味がなかったという😅
その辺りは、別のエントリーで書いておりますので、ご確認頂けましたら幸いです。
返信する
Unknown (douteinawa)
2023-07-07 21:31:20
takurama様

当該記事は「ニャロメのブレイクと「サンデー」掲載版『バカボン」の打ち切り」です。
返信する
Unknown (douteinawa)
2023-07-07 21:58:01
takurama様

ブログ、拝読させて頂きました!
とても興味深い内容で、オンタイムで赤塚作品に接していらっしゃったからこそ醸し出される臨場感にドキドキ致しました😊
著名な映像作家さんでいらっしゃるんですね!
そんな方が誰も読まない、振り向かいゴミブログを😅
お恥ずかしい限りです💦
手隙の際に、他のエントリーも読ませて頂きますね👍
返信する
Unknown (douteinawa)
2023-07-08 09:40:14
誰も読まない、振り向かないゴミブログとは当ブログのことですので、誤解などございませんように😅
返信する

コメントを投稿