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NPO法人「ドネーションシップわかちあい」事務局ブログです

「寝袋、いりませんか」

2009-12-31 11:11:36 | 情報・世の中の動き
MSN産経ニュース↓より紹介させてもらいます
URL:http://sankei.jp.msn.com/life/trend/091231/trd0912310040000-n1.htm

「寝袋、いりませんか」
野宿者に配り続ける男がいる… 2009.12.31 00:37

 新年が間近に迫った大阪。毎年、大勢の野宿者が凍死・病死などで亡くなる路
上で、野宿者に寝袋を配る活動を続けている人たちがいる。代表は会社社長の石
黒大圓(だいえん)さん(62)=大阪市中央区。かつて4歳の次男を白血病で、
49歳の妻を胃がんで相次いで失った。「愛する家族の命を救えなかった分、路
上で凍え死ぬかもしれない人を助けたい」。活動の底流には、妻子への思いがあ
ふれている。

 「寝袋、いりませんか」

 クリスマスの夜、大阪市天王寺区の路上。石黒さんは仲間3人とともに、段
ボールで作った寝床で毛布にくるまる野宿者に声をかける。「おおきに」「助か
ったわ」…。笑顔と一緒に感謝の言葉が返ってきた。

 10月末から3月まで毎週金曜の夜、日雇い労働者の街・あいりん地区や天王
寺、ミナミなどを車で回り、野宿者に新しい寝袋を無料で配布している。毎年約
千個を配り、今年で9年目。寝袋の購入資金は全国から募ったカンパだ。

石黒さんによると、大阪の野宿者の数は“ブルーテント”に住む人を除いても3
千人以上。多くは高度成長期を底辺で支えた高齢の元日雇い労働者だが、今は不
況で仕事や住む家を失った30~40代も増えたという。

 「寝袋を受け取ると恋人のように抱きかかえ、泣き出す人もいる。決して同情
や人権問題として取り組んでいるのではない。野宿者にも自己責任はある。ただ、
目の前で凍え死ぬかもしれない人を放っておけない」

 大学卒業後、父が営む衣料卸業の跡を継いだ石黒さんが寝袋配布を始めた原点
には、愛する妻子と死別した体験がある。

 平成元年8月、次男の邦之さんを白血病で失った。「僕、何も悪いことしてへ
んのに、なんでこんな苦しまなあかんの」。闘病中に息子が発した問いに、とも
に涙を流した妻の佐知子さんも9年5月、胃がんで亡くなった。

絶望のどん底で人生の意味を考えた。
2年後に「オヤジ狩り」にも遭い、悩まされた後遺症の左肩の激しい痛みが半年
後に消えたとき、涙があふれた。「痛みのない体がどれだけ恵まれたものだった
のか、と。天からの恵みで私たちは日々生かされていると知った」

 やがて、肉親を失うなど同じ境遇の人と生と死について語る会合を重ね、その
縁で知り合った野宿者の支援者から「毎年100人以上が路上で死ぬ」と聞き、
妻子の姿と重なった。

 「妻子の命を救えなかった分、恵まれない境遇の彼らを救おうと思い立った。
こんな豊かな国で路上で死なせることは、大阪、日本の恥だと思って。私にとっ
ては、背中に日の丸を背負った活動でもある」

 石黒さんはJR大阪駅前でも週1回、野宿者におにぎり・衣料を配り、野宿者
と一緒に駅周辺を清掃している。

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40年続く派遣村 (さき)
2009-12-31 11:25:44
MSN産経ニュース↓12.28より
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/091228/trd0912282338016-n3.htm

40年間続く「派遣村」 日雇い労働の街、大阪・あいりん地区はいま…
2009.12.28 23:34

 日雇い労働者の街、大阪市西成区のあいりん地区が、リーマンショックに揺れ
た昨年にも増して、厳しい不況風にさらされている。日雇い求人数は昨年から約
4割も落ち込み、バブル崩壊後最低に。ピーク時は3万人以上とされた現役労働
者人口も1万人程度にまで減少し、代わりに生活保護者が急増している。28日
には40回目の節目を迎える師走恒例の「釜ケ崎越冬闘争」が始まったが、労働
者からは「こんなひどい年は初めて」と悲鳴のような声が上がった。

「派遣労働者も野宿」
 
 あいりん地区内にある三角公園。午後6時に始まった「越冬突入集会」には1
00人以上が参加。ステージ上から「今の世の中は派遣労働者も野宿せざるをえ
ない状態になっている。こんな世の中はおかしい」といった声があがると、一斉
に拍手がわき起こった。

 数カ月前から日雇い労働をしているという男性(52)はたき火で暖をとりな
がら「仕事はあっても5日に1度。金もないし、行くところもないのでここに来
た」とあきらめ顔。

 あいりん地区で20年以上、生活しているという別の男性(58)は「これほ
どの不況は今までなかったが、それでも何年かに1度は不況がやって来る。その
ときに真っ先に切られるのはいつもわれわれだが、落ち込んでばかりいられな
い」と開き直るしかない様子だった。

40年間も“派遣村"

 越冬闘争の実行委などによると、取り組みが始まったのは昭和45年末、地区
はこの年に開かれた大阪万博後の不況下にあった。各地の工事現場から帰ってき
た労働者には、金を持たず野宿する人も多かった。

 路上で凍死するケースが相次ぎ「生きて春を迎えよう」がスローガンに。寒さ
や飢えをしのぐため、ボランティアが公園での炊き出しや寝場所の確保、医療相
談をしてきた。

 昭和60年ごろからは地区内だけでなく、市内の繁華街で野宿している人たち
を見回る活動も始まった。

 実行委の委員長でNPO法人釜ケ崎支援機構理事長の山田實さん(58)は
「当初は路上死が日常茶飯事だった。昨年は年越し派遣村が話題になったが、こ
こはずっとあんな状態。路上死がなくならない限り、この活動はやめるわけには
いかない」と話した。

街の様相変わる
 
 近年、あいりん地区での日雇い求人数は激減し、建設現場に労働者を送り出す
「寄せ場」の役割も変わりつつある。

 西成労働福祉センターによると、今年4~11月の日雇い求人数は約21万5
500人。バブル崩壊後最低となった前年の同時期に比べ38%も減った。セン
ターの星野智紹介課長は「昨年以下になるとは予想していなかった。求人が増え
る見込みがなく未来が感じられない」と危機感を募らせる。


それとともに、転職が難しい高齢の労働者が生活保護を受給するケースが急増。
地区の労働者の生活を支援する市立更生相談所は今年度、11月末までに3千人
以上の労働者らに生活保護の支給決定を出した。

 労働者の支援に取り組んできた釜ケ崎反失業連絡会共同代表のカトリック神父、
本田哲郎さん(67)は「好景気のときは建設現場を支え、不景気には仕事を失
う。この寄せ場機能がなければ日本経済は成り立たなかった。人は仕事を通じた
社会参加の実感が必要で、生活保護は本当の幸せにはつながらない。競争社会で
取り残された人をどうするのかが行政の課題と思う」と語った。
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