女性管制官がアメリカで医者になった場合ーアメリカンドリーム

アメリカでアメリカンドリームを達成するには?
マーティンもと子(旧姓多尾もと子)の場合は?

ケロイドの謎

2012-10-28 16:51:01 | Weblog
誰にでも古傷はありますよね。

心の古傷も含みます。
私だって、傷だらけになりながら人生奮闘しております。
決していいことばかりではないです。
過去があって今がある。

今日はこんなお話。

中国系の食品を売っているところへ買い出しに行ったときのことです。
いつものようにお米を買って、ブルボンのお菓子や子供達の大好きなハイチュウを買います。
あれもこれも、とぐるぐる回っていますと。。。

ドクターマーティン

と声をかけられたのです。
振り向きますとなんとそこには若い可愛らしい感じの男の子が。

見たことのない子だなあ。
一体誰かな。

彼は私のところへやってきて病院で働くドクターだと自己紹介をしました。
まだオリエンテーションの最中に私を見かけたそうです。

なるほどねぇ。。。

そこで私はハイチュウを一つ差し出しすと、とっても喜んでくれてその後私のことをキャンディママと呼んでいます。

それである日カルテを持っていた腕に大きいケロイドがあることに気がついたので何気なしに、

これ、どうしたの?

と聞きますと。。。

なんとむかしむかしその昔、彼がもっともっと若い頃ストリッパーをしていたとか。
ステージで踊る彼の後ろの立ててあった鏡が別のダンサーの不始末で倒れて彼は腕を切ったそうです。

ああ、そうだったのね。
そう言えば、あんた私が見に行ったときの踊り子にそっくりだったわ、なんて口が裂けても言えませんねぇ。それは冗談ですが。
けれども男の人によるストリップ、どんなものかなあなんてね。彼の可愛らしい顔とストリップ、意外と想像しやすいような。。。

古傷、確かにどなたにもあるようです。
ドクターも例外ではありませんね。

もうすぐハロウィーン

2012-10-22 01:08:18 | Weblog
もうすぐハロウィーン(10月31日)です。
こんな時期になったんですね。
エルパソは日中はまだまだ暑いです。

ハロウィーンが過ぎたら感謝祭、そしてクリスマスがやってきます。
今年もあとわずか。
ほんとうに月日の経つのは早いですね。





今年のハロウィーンの飾り付けです。
魔女がほうきに乗って飛んでいます。



これは先日訪問したエルパソ博物館で手に入れたシャドーボックスです。
中学校の遠足にお供しました。
実はこれはメキシコの伝統のEl Dia de Los Muertosという日のためのものです。
この特別な日はハロウィーンの直後にやってきますが、要は日本のお盆のような亡くなった人たちを偲ぶための日のようなものですね。

ハロウィーン当日は私は仕事です。

世界の偉人から学ぶ その2

2012-10-19 14:11:05 | Weblog
フランスのパリで育った彼がいつも例に取るのはやはりフランスの偉人。

そして私の場合はやはり日本人が例にあがります。松下さんやら井深さんも。

私たちは子どもたちに成功した偉人の例を話してあげることをよくしています。
しかし、スポーツ好きな子どもたちにはそれに沿った線でアプローチした方がぐっと来るようです。

まずはこの方。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%AF%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AB


イワンレンドルです。

チェコ出身の男子テニス界に君臨した名選手です。
1982年から1989年まで、8年連続で全米オープン決勝進出を果たしたのですが、いつも決勝戦で敗れるという万年準優勝組。
あきらめずにはじめて努力がむくわれたのは1984年の全仏オープン。
念願のジョンマッケンロー制覇を果たして初優勝!!
もうこれで、また準優勝かと強くささやかれていた結果の大逆転でした。

次は出ましたアメフトの大選手、ジョンエルウェイです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%82%A4


アメリカのフットボール界の最高峰のゲーム、スーパーボールに4年間の間に3回も出場しながら一度も勝てませんでした。
しかし彼はあきらめずにフットボールの世界ではかなりの高齢である38歳の時に1998年スーパーボール初優勝しました。
もう引退かと何度も言われながらも彼は頑張り続けました。

子どもたちにこの2人に共通していることは何?と聞きます。

雪ちゃんが真っ先に、

NEVER GIVE UP!!!

と答えました。


パソコン ダウン

2012-10-18 20:44:19 | Weblog
いくら気をつけていても、パソコンはウィルスに侵されたりスパイされていたりしますよね。
しばらくパソコンが手元にありませんでした。
ブログもリンクをiPad2では貼り付けられないので偉人シリーズが続けられませんでした。

パソコンに慣れた生活をしていますと、ないとなんか物足りないですね。。。

実は変な電話を受けたことがきっかけでした。

マイクロソフトのコンピューターライセンスに関係する会社?とかからで。。。
コンピューターから悪いシグナルが出ていてこのままではコンピューターが完全にだめになると言う話をし始めました。
そして私のパソコンで、それを確かめるよういろいろ具体的な捜査の指示をし始めたのです。

なんで、私の情報を?
ブログから?まさかね。。。

そこで電話を切ってまっすぐいつもお世話になっている修理屋へ。
いつも利用しているお店の名前が、コンピューターERドクターと言い、名前とても気に入っています。

そこへ2泊して帰ってきたパソコンですが、やっぱりスパイされていたそうです。
きれいになって帰って来ました。

しばらくは安心かな。

皆様もお気をつけ遊ばせ。

世界の偉人から学ぶ その1

2012-10-14 12:55:29 | Weblog
フランソワミッテラン、覚えておられますか。
フランスの元大統領です。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%AF%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%83%83%E3%83%86%E3%83%A9%E3%83%B3


1981年から1995年までの14年間、フランスの大統領であった偉人です。
14年間大統領であったというのはフランスの歴史上最長だそうです。
大統領選挙になかなか当選しなかったがあきらめずになんと16年間も挑戦し続けた結果大統領に就任しました。

次は、日本人なら誰でも知っている本田宗一郎。

本田宗一郎語録ですが。。。

何かを発明しようと思って発明する人がいたらお目にかかりたい。
自分が困ったときに、それを解決するために知恵を出すのが発明といってさしつかえないでしょう。
 
人間というのは困らなきゃだめです。絶対絶命に追い込まれたときに出る力が本当の力なんだ。
人間はやろうと思えばたいていのことはできるのです。

人間が進歩するためには、まず第1歩を踏み出すことである。ちゅうちょして立ち止まっていては駄目である。なぜなら、そこにどんな障害があろうと、足を踏み込んではじめて知れるからだ。
失敗は、その1歩の踏み込みだと思う。 前進への足跡だと思う。

大体おとなというのは過去を背負っている。過去に頼っていい悪いを判断するから、百八十度転換した時には非常にあぶないイデオロギーで現在をみつめる。
私はこれが一番危険であるとみた。おそらく若い人も納得できないと思う。

明日に続けます。

航空管制

2012-10-08 01:10:52 | Weblog
先日、このブログによくコメントを下さる管制官時代の大先輩の書かれた大傑作の記事の一部に私の書いたエルパソ便りが航空管制という雑誌に載りました。

現役時代投稿する機会がなかったので、管制の世界を離れたこんなあとでこのようなチャンスがめぐってくるとは思ってもみず、感慨深いものがありました。

思えば入省したのがなんと32年前です。

当時女性管制官第一号として5人の女性が選ばれ、私はそのうちの一人でした。

世界各国ですでに活躍していた女性管制官をモデルに法律は改正され、それまで男性ばかりの世界であった航空管制界に私たちはパイオニアとして入り込みました。
当時のマスコミの大騒ぎは相当なもので、テレビ、ラジオ、新聞、雑誌の取材に引っ張りだこだったものです。

数々の雑誌にも載りましたがその当時からまだ続いているのがクロワッサンと婦人之友という雑誌だけです。
音楽の森というラジオ番組で3日間に渡って対談した声楽家の立川清登氏は番組担当中に亡くなられています。
テレビの小川宏ショーにも出ました。

男性だけの世界だけあってほんとうに女性にできるのかと疑問視する先輩方も多く、大変な苦労をしました。
日本で一番忙しい羽田空港に配属された私でしたが、副席、飛行場管制とまでは順調に進みましたが、ターミナルレーダーの資格がなかなか取れず、結局はふつうの倍近くもかかってやっと免許が降りたという経緯がありました。

訓練が辛くて辛くて何度も泣きました。
あとから入ってきた後輩がどんどん追い越していく。。。こんな辛いことはありません。
私だって、できるのに。私だって。。。
しかし日本初の女性管制官、それも日本一忙しい羽田空港でのフルレーティング、99%でもだめ、100%仕上がっていなければ資格はあげられないと私は毎日厳しいトレーニングに励みました。
今思い起こしてもあんな辛い暗い日々はなかったと思います。

しかしあの時の逆行がここまで私を頑張らせたのでしょうね。

七転び八起き。まさに私の人生はそのとおりだと思います。

今回書いた記事をそのようになつかしく思い出しながら読んでくださる管制の先輩方がおられれば私はそれで幸せです。