DKS歩こう会 2月度街歩きアラカルト
日 時 : 2016年2月27日(土)
集 合 : JR桃山駅 AM9:30
コース : JR桃山駅→乃木神社→桃山御陵→昭憲皇太后陵→山科川→宇治川→
三栖閘門→東高瀬川→油小路大手筋(昼食)→鴨川→一念寺→草津の湊跡
→魚市場跡→妙教寺(旧淀城跡)→京都競馬場→京阪淀駅(解散)
参加者 : 伊藤、宇野(真)、小澤夫妻、大槻、大西、加藤、川野、桑名、佐藤(好)、
佐藤(孝)、杉本、関口、中井、永井、廣瀬、藤川、古川、村松、吉田(正)、
牧浦、奥村夫妻、 石田、小山(奥村さん友人)
以上25名(女性8名、男性17名)
<歩こう会に参加して>
冬型のややこしい天気が週末ごとに訪れ、気をもみながら迎えたこの日は暖やかになった。JR桃山駅に25名が集う。大西リーダーの解説は終始名調子であった。
道端には椿や梅の花が満開で春がそこまで来ている。乃木神社へ足を向けた。
鳥居をくぐると乃木大将の銅像、その前に学習院長と示されている。明治45年7月30日、61歳で天皇崩御。9月13日天皇の大葬の日、乃木希典は64歳で自宅に於いて辞世の句 「うつし世を 神さりましし 大君の 御(み)あと慕(した)ひて 我はゆくなり」としたため、婦人と殉死した。
天皇は生まれた京都に葬られることを、生前口にしていたので桃山御陵が造られた。
その完成後、御陵の近くに乃木神社、東京に乃木神社本殿も造られ、乃木の忠誠を称えた。桃山御陵に進む道中は、樹木がまるで原生林のように生い茂り玉砂利道は巾広く、しばらく行くと突然開けた明るいところに出る。まるで学校のグランドのよう。庭木は剪定され手入れ行き届き、鳥居の奥に玉砂利が敷きつめられ、奥に陵墓がストーパーのように塔が積み上げられ、うしろは山奥のように樹木がそびえている。
陵をあとに一段下の昭憲皇太后陵に着く。天皇陵よりふた回りも小さいが造りは同じである。歩を進めると天皇陵の階段を仰ぎ見る所に出る。階段は40mを突き上げている。
木立繁る天皇陵を後にして騒がしい街中に入る。車や信号を気にしながら山科川堤を登る。下流に向け川風を受けひたすら歩く。水は汚れているが水鳥が羽を休めている。やがて左手より宇治川が見え合流地点に来る。山科川の水は水流の大きい広い宇治川に呑み込まれ、大河となって勢いを増し流れている。
やがて三栖閘門。ここは江戸時代に伏見の船着き場として栄えた所で、京都や大坂の商いの中心であった。坂本龍馬もこの船着き場から京や大坂を往来していた。
宇治川から別れ東高瀬川の堤防を北へ進む。大手筋油小路に昼に到着。昼食後13時に集合し鴨川べりまで歩き一念寺に着き、鳥羽の大仏、阿弥陀如来を拝む。端正で優雅、心なごむ仏であった。女性職の説明を聞き一行は鴨川堤防に出る。羽束師橋が遠くに見え、心地よい風を受け南下する。ようやく羽束師橋に着く。昔ここは草津の湊と言われ三十石船が往来し、商業も栄え魚市場もあったとのこと。
二条城建設の石を木津から運ぶとき舟が転覆、3トンもある石が5個も見つかったとのこと。河川敷が広いのは、当時の役人が勝手に堤防を造ったためらしい。いつの時代も身勝手な行為が繰り返されている。
暖やかな川風がいつのまにか強い風となり、長丁場の堤防道を淀をめざして進む。
疲れて来た15時ころ妙教寺に着く。リーダーがお供えをまとめて払い、話し好きの住職の説明は30分に及んだ。
1585年秀吉が茶々懐妊のため淀城を再建して住まわせた。
1598年秀吉死去後、徳川の天下取りの関ヶ原合戦。
1615年大坂夏の陣で淀君、秀頼が死去。
1626年大坂の豪商法華又左衛門が この城跡に妙教寺を建立した。
1868年戊辰戦争、東軍(徳川)の大砲の弾が寺の本堂の柱を貫通。その砲弾と貫通跡を見る。
淀の地理、文化、宗教、戦争など、おもしろおかしく説明は続きました。寺を辞して淀競馬場に16時に到着。全員で歩き通した歩数計は23,500歩でした。
幕末の、船が主体の往来と物流の変化の、歴史とロマンの街歩きを与えて頂いた幹事さん、ありがとうございました。
以上
第6回 伏見区街歩きと川巡り
記録報告:奥村清美日 時 : 2016年2月27日(土)
集 合 : JR桃山駅 AM9:30
コース : JR桃山駅→乃木神社→桃山御陵→昭憲皇太后陵→山科川→宇治川→
三栖閘門→東高瀬川→油小路大手筋(昼食)→鴨川→一念寺→草津の湊跡
→魚市場跡→妙教寺(旧淀城跡)→京都競馬場→京阪淀駅(解散)
参加者 : 伊藤、宇野(真)、小澤夫妻、大槻、大西、加藤、川野、桑名、佐藤(好)、
佐藤(孝)、杉本、関口、中井、永井、廣瀬、藤川、古川、村松、吉田(正)、
牧浦、奥村夫妻、 石田、小山(奥村さん友人)
以上25名(女性8名、男性17名)
<歩こう会に参加して>
冬型のややこしい天気が週末ごとに訪れ、気をもみながら迎えたこの日は暖やかになった。JR桃山駅に25名が集う。大西リーダーの解説は終始名調子であった。
道端には椿や梅の花が満開で春がそこまで来ている。乃木神社へ足を向けた。
鳥居をくぐると乃木大将の銅像、その前に学習院長と示されている。明治45年7月30日、61歳で天皇崩御。9月13日天皇の大葬の日、乃木希典は64歳で自宅に於いて辞世の句 「うつし世を 神さりましし 大君の 御(み)あと慕(した)ひて 我はゆくなり」としたため、婦人と殉死した。
天皇は生まれた京都に葬られることを、生前口にしていたので桃山御陵が造られた。
その完成後、御陵の近くに乃木神社、東京に乃木神社本殿も造られ、乃木の忠誠を称えた。桃山御陵に進む道中は、樹木がまるで原生林のように生い茂り玉砂利道は巾広く、しばらく行くと突然開けた明るいところに出る。まるで学校のグランドのよう。庭木は剪定され手入れ行き届き、鳥居の奥に玉砂利が敷きつめられ、奥に陵墓がストーパーのように塔が積み上げられ、うしろは山奥のように樹木がそびえている。
陵をあとに一段下の昭憲皇太后陵に着く。天皇陵よりふた回りも小さいが造りは同じである。歩を進めると天皇陵の階段を仰ぎ見る所に出る。階段は40mを突き上げている。
木立繁る天皇陵を後にして騒がしい街中に入る。車や信号を気にしながら山科川堤を登る。下流に向け川風を受けひたすら歩く。水は汚れているが水鳥が羽を休めている。やがて左手より宇治川が見え合流地点に来る。山科川の水は水流の大きい広い宇治川に呑み込まれ、大河となって勢いを増し流れている。
やがて三栖閘門。ここは江戸時代に伏見の船着き場として栄えた所で、京都や大坂の商いの中心であった。坂本龍馬もこの船着き場から京や大坂を往来していた。
宇治川から別れ東高瀬川の堤防を北へ進む。大手筋油小路に昼に到着。昼食後13時に集合し鴨川べりまで歩き一念寺に着き、鳥羽の大仏、阿弥陀如来を拝む。端正で優雅、心なごむ仏であった。女性職の説明を聞き一行は鴨川堤防に出る。羽束師橋が遠くに見え、心地よい風を受け南下する。ようやく羽束師橋に着く。昔ここは草津の湊と言われ三十石船が往来し、商業も栄え魚市場もあったとのこと。
二条城建設の石を木津から運ぶとき舟が転覆、3トンもある石が5個も見つかったとのこと。河川敷が広いのは、当時の役人が勝手に堤防を造ったためらしい。いつの時代も身勝手な行為が繰り返されている。
暖やかな川風がいつのまにか強い風となり、長丁場の堤防道を淀をめざして進む。
疲れて来た15時ころ妙教寺に着く。リーダーがお供えをまとめて払い、話し好きの住職の説明は30分に及んだ。
1585年秀吉が茶々懐妊のため淀城を再建して住まわせた。
1598年秀吉死去後、徳川の天下取りの関ヶ原合戦。
1615年大坂夏の陣で淀君、秀頼が死去。
1626年大坂の豪商法華又左衛門が この城跡に妙教寺を建立した。
1868年戊辰戦争、東軍(徳川)の大砲の弾が寺の本堂の柱を貫通。その砲弾と貫通跡を見る。
淀の地理、文化、宗教、戦争など、おもしろおかしく説明は続きました。寺を辞して淀競馬場に16時に到着。全員で歩き通した歩数計は23,500歩でした。
幕末の、船が主体の往来と物流の変化の、歴史とロマンの街歩きを与えて頂いた幹事さん、ありがとうございました。
以上