いちご畑よ永遠に(旧アメーバブログ)

アメーバブログ「いちご畑よ永遠に(旧ヤフーブログ)」は2023年7月に全件削除されましたが一部復活

新潟県新発田市 日本100名城・新発田城跡

2024年02月10日 12時56分01秒 | 新潟県

日本100名城・新発田城跡。新潟県新発田市大手町。

2023年9月28日(木)。

新発田市街地外にある大名庭園の清水園を見学後、市街地へ向かい、カトリック新発田教会を探したが見つからず、新発田城跡へ向かうと激しい雨に遭遇した。再建辰巳櫓東外側の駐車場に駐車して、重文の新発田城本丸表門と旧二の丸隅櫓を外から眺め、表門から内部に入った。内部は狭い空地があるだけで、物品販売をしているボランティアガイドと話をした。その後、再建三階櫓を見学するために西北にある新発田城址公園駐車場へ移動して、三階櫓を眺めた。

慶長2年(1597年)、初代新発田藩主溝口秀勝が上杉氏の会津転封に伴い、6万石の所領を得て入封。新発田藩領内を治めるための拠点として新発田重家の旧城の地を選び、新発田城の築城を行った。城が完全な形となったのは承応3年(1654年)、3代宣直の時代といわれる。その後寛文8年(1668年)、享保4年(1719年)に火災によって城内建築に大きな被害を受けるが、その度に再建されている。

溝口秀勝が築いた新城は新発田重家の居城跡を城の一部として取り入れつつ、古城の数倍の大規模なものに建設された。

新発田城は、城の北部を流れる加地川を外堀に利用し、本丸を北の古丸を含んだ二の丸が取り囲み、三の丸が南方に突き出した変形の輪郭・梯郭式平城であった。これは、南以外の三方面が湿地であったことと、会津領方面への守りを重視したとされる。新発田城は、本丸が舟のような形をしているため「舟形城」、周囲の湿地にアヤメが咲いていたことから「菖蒲城」とよばれていた。

現在は本丸の一部を除く全域と古丸全域、二の丸の一部が自衛隊駐屯地として利用され、本丸南側の石垣と堀、櫓門の本丸表門と二重櫓の二の丸隅櫓が現存する。現存建築がある城跡としては新潟県内では唯一である。三階櫓や二重櫓の辰巳櫓は2004年に復元された。

石垣は本丸の表門側のみに前面乱積みの石垣がもちいられ、他は腰巻石垣や土居であったと考えられている。しかし寛文9(1669)年の大地震により、石垣が崩落しその復旧工事で、切込接布積に改められたとされる。

天守閣の代わりを果たしていたのが三階櫓で、3匹の鯱を配するという全国にも例がない大変珍しい独特の櫓であった。

新発田城域に最初に城が築かれた時期は不明だが、新発田氏による築城と考えられている。鎌倉時代初期に戦功のあった近江源氏佐々木盛綱の嫡流は代々越後国蒲原郡加地荘、備前国児島荘などを所領とし加地氏を名乗った。新発田氏は室町時代頃より加地氏より分かれ、代々新発田城を本拠とし新潟津(新潟市)から三条島(三条市)までに及ぶ周辺を支配した。新発田長敦の代には上杉謙信に従い、天正6年(1578年)の謙信没後に勃発した御館の乱では上杉景勝に従って活躍したが、長敦が急死。弟の新発田重家が継いだが、これが原因で恩賞から漏れ、天正9年(1581年)景勝に対して反乱を起こした。天正15年(1587年)、新発田城が落城して新発田重家は殺され新発田氏は滅亡した。新発田城の本丸北側の二の丸御蔵屋敷北側は「古丸」と称され、重家時代の新発田城の本丸であったと推測される。

本丸辰巳櫓。左は表門。

本丸の南東に建つ層塔型2重2階の二重櫓。三階櫓とともに木造で復元された。

櫓の外壁には冬季の積雪への対策の意味もあり、海鼠壁(なまこかべ)が用いられていた。その他の塀や一部の櫓門には、下見板が張られていた。『正保城絵図』では屋根は茅葺となっている。

2004年に木造復元され、同年7月から一般公開されている。

本丸表門。重文。

本瓦葺入母屋造2階建脇戸付櫓門。創建時期は不明。1668年失火による焼失後1732年に再建され現存する。2階に格子窓を設け、門の真上の床を外して石落としとする構造となっている。

石垣がすき間なくかみ合うようにきちんと積まれる「切込はぎ」と呼ばれる美観を重視した技法でつくられ、白と黒が美しい海鼠(なまこ)壁で仕上げられている。

旧二の丸隅櫓。重文。

層塔型2重2階の現存する二重櫓。1668年の大火後1712年までに再建。現在は、本丸鉄砲櫓の跡に移築されている。

三階櫓。2004年再建。

新発田城に天守はなく、本丸の北西隅に三重櫓を上げて「三階櫓」と呼んでいた。幕府に遠慮し天守を公称しなかったが、三階櫓は新発田城における実質的な天守であった。承応3年(1654年)に創建されたものは、寛文8年(1668年)の火災により焼失し、現在復元されている姿のものは延宝7年(1679年)に再建されたものである。『正保城絵図』では二重櫓だが、他の櫓よりも大きく描かれている。

明治初期に撮影された写真によれば、続櫓(付櫓)を伴った複合式層塔型3重3階で、1重目の西面と南面に切妻破風を持った石落としを兼ねる出窓があり、3重目屋根の棟は丁字型に造られ、棟上には3匹の鯱が載せられている。三階櫓の屋根が、なぜ特殊な屋根の形なのか明確ではない。1874年(明治7年)に破却された。

自衛隊敷地内にあり、外観を望むだけである。

明治元年(1868年)戊辰戦争の戦火は、越後へと波及した。同5月、東北25藩によって奥羽列藩同盟が成立した。そして、新発田藩は、戊辰戦争では、新政府側寄りの立場をとろうとするも、周辺諸藩の奥羽越列藩同盟の圧力に抗しきれず、やむなく加盟した。同盟側は新発田藩を参戦させようと謀り、6月、藩主・溝口直正を人質にとろうと試みたが、新発田藩の領民の強い抵抗に遭って阻止される。その後、城下が同盟側に包囲されたため、やむを得ず藩兵を同盟側に出兵させたが、7月、新政府軍が新発田藩領大夫浜、松ヶ崎浜に上陸したのを期に新政府軍に合流し、先鋒となって軍を進め、庄内、米沢、会津などの軍と戦った。

その結果、新発田の地は戦火から守られることとなった。ただし、この時の新発田藩の行動は越後長岡藩などからは明らかな裏切り行為と見られ、周辺地域との間にしこりを残すことにもなった。

明治政府は鎮台制の施行にあたり、東京鎮台第1営所に新潟を選定して歩兵第8大隊を配備することにし、明治4年(1871年)11月から明治5年(1872年)11月まで新発田城は臨時の営所として使われた。1874年に歩兵第8大隊は高崎(群馬県)に移り、その一部の第2中隊が新発田城に入った。同年11月に歩兵第3連隊の第2大隊となったのち、1884年に歩兵第16連隊に拡充され、敗戦まで新発田の郷土部隊となった。

城郭跡の大部分は日本軍解体まで陸軍が置かれていたこともあり、1953年から陸上自衛隊の駐屯地(新発田駐屯地)となっている。

 

13時45分ごろ、新発田城址公園駐車場を出て、関川村の重文・渡邉邸へ向かった。

新潟県新発田市 藩主御殿の大名庭園「清水園」② 新発田藩史料館・堀部安兵衛伝承館 旧新発田藩足軽長屋



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。