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帯広市 帯広百年記念館埋蔵文化財センター 縄文土器 暁式 東釧路式 石刃鏃文化 宮本式

2024年06月29日 09時21分29秒 | 北海道

帯広百年記念館埋蔵文化財センター。帯広市西23条南4丁目。

2022年6月11日(土)。

11時50分ごろ、帯広畜産大学生協食堂を出て、次の見学地である帯広百年記念館の分館である埋蔵文化財センターへ向かった。住宅街周囲の幹線道路から中に入ったが、ナビを見ていても場所確定に苦労した。大きい建物の前に駐車した。帯広百年記念館のHPを旅行前に事前チェックして存在を知った。遺跡からの出土品の整理・収蔵が主業務なので展示スペースは小さいが、本館を補完する展示となっている。

縄文時代草創期の土器。

日本列島では約1万6000千年前、道内では帯広市大正3遺跡から出土した約1万4000年前の土器が最古とされている。

大正3遺跡の土器は、底が丸く、先端に乳房状の突起がつく形で、“爪形文”と呼ばれる爪でつけた文様に特徴がある土器群で、本州の東北地方から中部地方にかけての、この時期の土器群と共通した特徴をもっている。

縄文時代早期前半の土器(1)。 

およそ1万年前~8500年前道東地域を中心「暁(あかつき)式土器」と呼ばれる平底の土器が作られた。土器の底面に「ホタテ貝」のあとが明瞭に残されたものがあるのも、この土器の特徴である。「暁式」という型式名は、1961年に帯広市暁遺跡から見つかった土器を指標として命名された。この土器を出土する十勝管内のおもな遺跡は、浦幌町平和・下頃辺、池田町池田3、帯広市暁・八千代A・大正8の各遺跡があり、とくに八千代A遺跡ではこの土器を伴う大集落遺跡が発掘調査された。

このタイプの初期の土器には文様はほとんど無く、表面を縦方向に植物質の道具で擦ったようなあと(条痕)が付く程度である。

新しいタイプの土器はTa-d火山灰(約8000年前降下)より上層から出土するものが多く、絡条体(らくじょうたい)と呼ばれる植物質の軸によった糸(撚糸)を巻きつけた道具による文様で土器を装飾するようになる。

暁式土器」の文化は、土器や石器の特徴などから北方に系譜が求められると考えられ、同じような特徴をもつ土器がサハリンで出土していることが最近確認された。

一方、同時期の北海道西南部では底が尖り、表面に貝殻で文様をつけた「貝殻文尖底土器」が分布しており、この土器文化は本州東北方面と強いつながりがあったようである。

暁式土器(新相)。絡条体圧痕による文様に特徴があるやや小型の土器。帯広市大正8遺跡。

縄文時代早期前半の土器(2)。 

「東釧路Ⅰ式。口が平らなものと波状のものがある。表面に明瞭な文様はない。帯広市八千代A遺跡。

東釧路Ⅰ式土器」は筒形・薄手で、土器の表面に繊維質の工具で横方向に擦ったあとが残された特徴をもつグループである。同じような特徴の土器は北海道西南部にも分布する。

「東釧路式」の名称は釧路市東釧路貝塚でこのタイプの土器が層位的にまとまって出土したことに由来する。十勝でこの土器がまとまって出土した遺跡には、帯広市八千代A、清水町上清水4、豊頃町高木1、大樹町下大樹遺跡などがある。

石刃鏃文化」は8500年~8000年前頃に、北海道東北部に見られる“石刃鏃”という特殊な鏃に特徴をもつ文化で、ロシア極東地域のアムール川流域と関係があり、道東地域へサハリン経由で広がったものと考えられる。

このステージの土器は「女満別式」と呼ばれる型押文(スタンプ文)に特徴がある土器、絡条体圧痕文に特徴がある「浦幌式」などが型式設定されている。十勝では帯広市大正3・7、浦幌町共栄B・新吉野台細石器遺跡などが著名である。

大正7遺跡の発掘調査では住居跡の内外から1000点を超す石刃やこれを加工して作られた石器が出土した。

 この遺跡では石核や剥片類も多く出土したことから、石刃製作が盛んに行われていたようである。この遺跡で作られた黒曜石製石器は、十勝産のほかに置戸産地のものが多く使われていた。

 十勝地域は、暁式土器文化以降、石刃鏃文化に至るまでは、北方要素の強い文化圏に含まれていたと考えられ、道西南部地域と共通した土器文化に含まれるのは、温暖化が進んだ8000年前以降、土器の表面に縄文がつけられるようになってからのことである。     

石刃鏃文化の土器。三角形の型押文が施文される。帯広市大正7遺跡。

石刃鏃文化の土器(浦幌式)。口が隅丸方形、口縁に絡条体による文様がある。帯広市大正7遺跡。

 

縄文時代早期後半の土器。 

およそ8000年前になると、東釧路Ⅱ式土器」と呼ばれる縄文が多用された土器が道内各地に分布するようになる。この土器は縄文のほかに、押引き文や貼付け文、刺突文など多様な文様が組み合わさるのが特徴である。このグループの土器は帯広市大正8遺跡からまとまって出土した。Ⅱ式の形や文様が変化して「東釧路Ⅲ式土器」へ移行し、さらに表面に細い粘土ヒモをいく段にも貼り付け、その間に細かな縄文を施文した「中茶路(なかちゃろ)式」土器へと変遷する。東釧路Ⅳ式土器は体部の縄文が羽状に施文されることに特徴がある。

東釧路Ⅱ式。口縁部に横位の縄線文、体部にはボタン状の貼付けが施文される。大正8遺跡

中茶路式。住居跡の一括資料。細い粘土ヒモの貼付けと、細かい縄文が特徴。左前の土器は絡条体圧痕が施文される。大正7遺跡

東釧路Ⅳ式。2ヵ所の頂部から短い貼付けが垂下する。体部は縄文が羽状に施文される。墓の副葬品。大正3遺跡。

およそ7000年前には、年平均気温が現在より2~3℃高かったとされる温暖期のピークを迎えた。この頃は海水面が3m前後上昇し、釧路湿原は太平洋の内湾であった(縄文海進。当時の十勝は、十勝川の中流域くらいまでが海水と淡水が入り交ざった大河のような状況で、現在の海岸地帯に見られる湖沼はこの名残と考えられる。

縄文時代前期~中期の土器。

およそ6500年前(前期前半)の土器は「綱文(つなもん)式」と呼ばれる丸底で太い縄文が付けられた土器が作られるようになった。土器を作る粘土に多量の植物繊維を混ぜていることに特徴がある。

6000年前頃(前期後半)になると、再び土器の底は平底となり筒形に近いかたちになる。このグループの土器は帯広市宮本遺跡の発掘調査でまとまって出土したことから「宮本式土器」という型式名が設定されている。

この土器を伴った墓には、日本列島を含む東アジア一帯に広がっていた特殊な形の耳飾りが副葬されたもの(芽室町小林遺跡)、漆器を副葬したもの(帯広市大正8遺跡)など、他地域との交流を示す遺物が出土する例もある。

宮本式土器。口縁部に沈線が施文される。体部の縄文はひし形構成。宮本遺跡。

宮本遺跡。帯広市西20条南6丁目。

市街地西部の高台にある宮本遺跡からは、縄文時代前期後半~中期(約6~4千年前)を主体とした土器や石器などの遺物8万5千点あまり、住居跡や落し穴などの遺構が出土した。

 二次にわたる調査では、植物質の食料加工に使われた「すり石」が900点以上も出土しており、宮本遺跡の5千年前ころの性格を示唆している。

一次・二次調査合わせて19基の落し穴が出土した。いずれも形は溝状で、長さ3m前後、深さ1.2~1.5mのものである。このタイプの落し穴は、シカを捕獲するために、シカの通り道などに作られたものと考えられ、道内では前期~中期に多く作られていたことが分かっている。

宮本遺跡の第一次調査で出土した土器は、それまで不確実であった前期前半と中期の間を埋める資料として注目され、「宮本式土器」と名付けられ、これ以後、各地の調査で出土する前期後半(約5千年前)に位置する土器の指標とされている。

縄文時代中期になると、土器に突起が付けられたり、粘土ヒモの貼付けによって表面が装飾された「モコト式」土器が作られるようになる。

その後、「北筒(ほくとう)式」と呼ばれる筒形器形で円形刺突文に特徴があるグループが広がるが、良好な復元個体は当市にはない。 

気候は、5000年前頃から冷涼に向かい、平野部ではトドマツ・エゾマツなどの針葉樹とシラカンバ類が増加したとする分析結果が報じられている。

縄文時代晩期の土器。

「北筒式」以降の後期中葉~晩期前半は、突瘤文や沈線文を主体とする土器が作られる。

晩期後半になると「幣舞式」と呼ばれる縄線文(縄を押し付けた文様)や沈線文を特徴とする土器が作られるようになる。しかし、帯広市内の遺跡ではこれらの良好な復元個体はきわめて少ない。

幣舞式土器。大型の浅鉢で、突起部に同心円状の縄線文が施文されている。大正7遺跡。

縄文時代の終末。およそ3500年前以降、縄文時代の終末頃になると十勝では墓は多く発見されるものの、確実な住居跡の調査例はきわめて少なくなる。それまでは河川近くの高台上に集落が営まれていたが、この頃から低地に集落が営まれるようになったことを示しているのかもしれない。この傾向は続縄文時代まで続く。2500年前頃、本州以南では「弥生時代」が始まり、1万年以上続いた縄文時代は終わりを告げた。

 

15分余り見学して、13時ごろ帯広競馬場へ向かった。

帯広市 帯広畜産大学生協食堂 寄宿舎 逍遥舎



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