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岩手県 北上市立博物館④蝦夷の末期古墳・江釣子古墳群と赤彩球胴甕

2023年12月06日 13時56分46秒 | 岩手県

北上市立博物館。岩手県北上市立花。

2023年6月11日(日)。

江釣子古墳群猫谷地地区の現地は6月13日に見学した。

蝦夷(えみし)たちが眠る国史跡・江釣子(えづりこ)古墳群。

江釣子古墳群は北上川に注ぐ和賀川和賀川北岸の河岸段丘上に築造された古墳群である。東方の八幡地区に23基、中央の猫谷地地区に29基、西方の五条丸地区に81基、和賀町長沼地区13基の古墳の存在が確認されている。これらの古墳は7世紀後半から8世紀前半にかけて造られたもので、直径6~15mの円墳が約 120基以上あり、勾玉(まがたま)、切子玉(きりこだま)、蕨手刀(わらびてとう)、直刀、馬具などが数多く出土している。

猫谷地地区の調査された5基は、横穴式石室を内部主体とする。奥壁に巨石をたて、側壁は河原石を小口積みし、羨道端を河原石で閉塞する。石室上に天井石を遺存していたのは1基のみである。最大の石室は全長3.55m、最小の石室は全長1.2mをはかる。いずれも小規模な石室であるが控積みが顕著であり、床面に河原石を据えて側壁の立石を安定させ併せて棺台とするなど特色ある技法が見られ、羨道の前面に石敷の前庭を設けるなど、横穴式石室に伴う構造の一端をよく示している。

五条丸地区では、石室で調査されたのは31基、墳丘の形状が把握されたのは26基である。石室は、すべて横穴式石室であり、1基が4石室をもつ以外は、1墳1石室である。奥壁に巨石をたて、河原石を小口積みして側壁をつくり、羨門閉塞するのが一般であり、猫谷地地区でみられた側壁の立石例や床の棺台をもつ例は極めて少ない。石室は墳丘の中央に設けられ、全長5mに近いものから、1.5mという小さいものまであり、規模にかなりの大・小を見、また前庭を敷石する構造は稀であった。墳丘は円墳で、径4.5mから14m、周囲に幅1〜2mの湟をめぐらすが、羨道部の前には周湟をつくらず、墓道の存在を暗示している。

 副葬品には切先太刀、蕨手刀、鉄鏃などの武具をはじめ、馬具・工具・装身具類、土器などが豊富に発見されている。

 石室や墳丘の規模、構造に特色があり、遺物の多様さも顕著であり、東北地方屈指の横穴式石室を伴う古墳群として重要なものである。

蝦夷集団結束の象徴? 赤い甕に迫る特別展 北上博物館 朝日新聞2020年11月19日 溝口太郎

774年に始まった「38年戦争」古代の東北地方の蝦夷が、坂上田村麻呂らが率いる中央政権の軍勢と争い敗れたとされる。赤い甕(かめ)は北は青森から南は東京まで各地から出土するが、全体の9割が北上市の和賀川流域北側の遺跡に集中。多くは8世紀後半ごろに突如現れた集落からの出土だという。

付近には江釣子古墳群と呼ばれる8世紀ごろの蝦夷の古墳遺跡があり、西アジアのガラス玉やロシア産の錫製品も出土している。杉本館長は「中央政権が進出圧力を増すにつれ、栗原(宮城県)や胆沢地方の蝦夷が、要衝だった和賀川周辺に移転してきた可能性もある。赤彩球胴甕は蝦夷共通の祭祀道具だった赤い土器が基になっており、有力な和賀川周辺の蝦夷集団が主導し結束を強調するため作ったのでは」とみる。

文献史学では奥州市の胆沢川周辺の蝦夷集団が中心となって戦ったとされてきた。しかし、胆沢川周辺では赤彩球胴甕はほとんど出土していないといい「胆沢川周辺は前線の戦場で、最強の蝦夷集団は絶対防衛線だった和賀川にいたのではないか」と推測する。

 中央政府に敗れて服従したとされる蝦夷だが、赤彩球胴甕は、坂上田村麻呂が9世紀初めに造営した志波城(盛岡市)外郭や東京都多摩市の遺跡などからも出土し、志波城が廃止された後の9世紀前半の蝦夷の遺跡からも出土している。杉本館長は「奴隷として服従したなら風習や文化は捨てさせられたはず。蝦夷は38年戦争を生き残り、技術や文化を発展させたと考えられる。考古学の立場から見れば、従来の歴史とは違う事実も見えてくるということを伝えたい」と話している。

北上市立博物館「博物館だより」No.42  2021年3月 

特別展「蝦夷の赤い甕 -最強の蝦夷は和賀川にいた-」で蝦夷の謎に追る : 館長 杉本良

謎の蝦夷の赤い土器

私たちが住む岩手県北上市に流れる和賀川は、北上川最大の支流です。この流域の1250年ほど前の村の跡を発掘調査すると、赤く塗られた球形をした丸い甕 (赤彩球胴甕)が多く見つかります。

この甕が出土する遺跡は宮城県北部から岩手県北部に分布していますが、その出上の中心は和賀川流域です。また、遠く東京都多摩市からも見つかります。

この土器がさかんに作られたころ、この地域に住んでいた人は、中央の京政権 (平城京~平安京の政権)か ら蝦夷と呼ばれていました。この赤い土器も蝦夷が作ったものだったのです。

赤い土器とそれを作った蝦夷、何を意味しているのでしょうか。11月 1日から3月 7日まで開催したこの特別展では、その謎に挑みました。

大きな戦い ~陸奥国38年戦争

赤彩球胴甕がさかんに作られていた8世紀後半から9世紀初頭にかけて、この地域を舞台に日本を揺るがす大きな戦いがありました。それは、京政府と当時蝦夷と呼ばれたこの地域の人々との間の38年間にわたる戦いでした。この戦いは、蝦夷の族長阿弖流為(アテルイ)と政府軍の名将坂上田村麻呂の英雄譚として、いまでも小説や漫画などの題材に多く取り入れられています。陸奥国38年戦争とも呼ばれるこの戦いの結末は、教科書などに掲載されているように京政府軍の勝利と蝦夷社会の崩壊が定説になっています。

この時代、文字で書かれた記録は政府側のものだけです。そこから読み解き導き出される答えは、政府側の視点以上にはなかなかなれません。文字記録を持たない蝦夷側の視点に立つには、考古学の成果しかないのです。ただ、残念ながら考古学資料では具体的な歴史事象についてはわかりません。今回の展示では、考古学の成果を文献による歴史事象に当てはめて、この陸奥国38年戦争について新しい解釈を試みたと言えます。そして、その突破口となる考古学の資料は「赤彩球胴甕」と考古学者が呼んでいる、赤く焼き染められた土器なのです。今回の展示では、県内だけではなく、県外のものを含めて、主な赤彩球胴甕をすべて展示しました。また、合わせてこの赤彩球胴甕がどのようにして生まれたか、そのルーツについても検討してみました。

赤彩球胴甕とは

丸く、大きく、球のような胴部を持つ器形の甕形土器を球胴甕と呼びます。奈良時代の北東北太平洋側にこの形の甕形土器に、独特な赤彩文様を施すものが多数見つかっています。

多少のバラエティはあったものの、次第に統一化した形と赤彩文様になっていきます。大きく外反する国縁部と大きく丸く張った胴部の形態の土器です。赤い顔料の主成分は酸化鉄で、焼く前に塗られます。口の部分は縦方向の条線を内外面に、胴は外面全面に施されます。このような赤彩土器は、他に類例がなく、この地域独特のものです。赤く塗ることに実用的な効用は無いので、何かの祭祀に用いられた呪術的な意味があった土器と考えられます。

赤彩球胴甕とその時代

赤彩球胴甕の分布には、大きな偏りが見られます。突出して多く見つかるのが和賀川下流域、特に北側に集中しています。つぎに豊沢川流域の南北両側に多くみられ、雫石川では南側にみられます。また、なぜか北上盆地の南半を飛び越えて宮城県の迫(はざま)川流域にも集中がみられます。その他、三陸沿岸、胆沢川下流域、馬淵川中流域に少量出土します。注目されるのは、遠く離れた東京都多摩市からも見つかっていることです。

見つかる場所が限られているだけではなく、年代も限定されています。今から1250年前あたりの時期に多く見つかり、そして1150年より前にはもう作られなくなっています。日本史の時代区分でいうと奈良時代の終わりころから平安時代の初めのころです。その盛期はまさに「陸奥国38年戦争」の時期と重なっており、蝦夷と京政府と長い戦いの真っただ中であることがわかります。この年代の一致は何を意味するのでしょう。戦いの軌跡と赤彩球胴甕の分布もなぜか一致します。これについて、次章から詳しく見ていきます。

戦いの始まりと赤彩球胴甕

北上盆地の戦いの始まりは、京政府が設置した北方進出の拠点「伊治(これはり)城」 (宮城県栗原市)です。蝦夷出身の役人である伊治公砦麻呂(これはりのきみあざまろ)は京政権に坂旗を翻し、京政権の長官である按察使を殺し、京政権の東北拠点である陸奥国国府「多賀城」を焼失させます (伊治公皆麻呂の乱)。

この伊治城や、その近くの集落遺跡である糠塚(ぬかづか)遺跡から多くの赤彩球胴甕が出土します。また、伊治城の兵姑基地であった玉造柵と推定される大崎市宮沢遺跡からも出土しています。

戦いの端緒であるこの地域にも赤彩球胴甕の分布の集中がみられることは、38年戦争の始まりに和賀川流域の蝦夷が深く関わっていたことを示しています。

長き胆沢の戦いと赤彩球胴甕

砦麻呂の乱で一度は蝦夷勢が制圧した伊治城、多賀城も、すぐに京政権に奪還されてしまいます。このことから、蝦夷たちはこの地に固執しないで北上盆地に撤収したと考えられます。戦いの中心は、伊治城から北に50kmほど離れた胆沢川南側に移りました。

胆沢の戦いは20年近くにわたる長期戦に移ります。この時期あたりから和賀川北側において赤彩球胴甕を持つ集落が爆発的に増加します。しかし、胆沢川流域のこの時代の遺跡からはほとんど出土していません。これをどのように考えたらよいでしょうか。京政府が国家財政を傾けた征夷事業に対して、真正面から戦うのではなく、地の利のある北上盆地に引き込み、胆沢川流域以南を焦土戦場とし、北上川最大の支流である和賀川を最大最終防衛ラインとして、拠点集落を集中したと考えるのが妥当です。京政権も北上盆地の入口である衣川 までは前線基地 (衣川の三営)まで進出しても、それ以上の前進には躊躇したのでしょう。

京にいた桓武天皇の、前線の状況を把握できないままの攻撃指令による無謀な前進が阿弖流為を中心とする蝦夷軍の焦土作戦にはまり大敗を喫したことは、京政権側の文献にも記録されました。

従来は、胆沢川南側の蝦夷集落が戦いの中心地とされましたが、果たして20年にもわたる長期戦のさなか、戦場真っ只中に拠点集落を置くでしょうか。やはり、赤彩球胴甕を有する巨大集落群が確認されている和賀川北側が拠点であり、ここから京政府軍が動いたとみると政府軍を奥に引き寄せ討って出るという作戦をとっていたと考える方が現実的です。

戦いの終わりと赤彩球胴甕

北上盆地での戦いは、京政権の征夷大将軍・坂上田村麻呂によって802年に胆沢城 (奥州市)803年に志波 城 (盛岡市)が造営され、蝦夷側の全面敗北で終わった…というのが京政府側の文献記録からの通説です。では赤彩球胴甕を通じて見た歴史では…なぜか志波城から多量の赤彩球胴甕が見つかります。捕虜にされた蝦夷が作ったのでしょうか。しかし、胆沢城からは赤彩球胴甕がまったく見つかりません…

また、789年 (延暦 8)から20年近く胆沢川を挟んで長期戦をしていたのに、なぜたった 1年で一気に志波城まで作られたのでしょう。完膚なきまでに滅ぼされたからでしょうか。しかし、志波城が造られた後も、和賀川北側の赤彩球胴甕を有する拠点集落は存続しつづけます。これをどう考えたらよいのでしょう。

このことは、明らかに、赤彩球胴甕の蝦夷集団と京政府側 (というより前線の坂上田村麻呂軍)との間に何らかの和議が結ばれた結果と考えられます。志波城という施設は、蝦夷と坂上田村麻呂軍との和のうえに造られた施設といえるでしょう。

東京多摩市の赤彩 球胴甕の意義

今回の特別展では、東京多摩市から出土した赤彩球胴甕も借用して展示しました。この土器は、蝦夷が京政府の支配下に置かれて俗囚と呼ばれ、強制的に関東や関西に配置 (俘囚の移配)された証拠として大きく取り上げられました。

俘囚の移配は、蝦夷の野蛮な風習を取りやめさせ政府に忠実な良民に教化するという政策です。本当にまるで奴隷のように強制移住させられたのでしょうか。

この多摩市の赤彩球胴甕は現地の材料を用いて作られたものであることが帝京大学の分析でわかっています。ということは、和賀川、もしくは豊沢川、雫石川の蝦夷が多摩市にいたことは間違いありません。しかし、戦いの象徴である赤彩球胴甕を堂々と現地で作っているところを考えると、とても蝦夷の習俗をはく奪され強制移住させられたなどとは思えません。むしろ、蝦夷の風習を頑なに守っている印象を受けます。私はこうした蝦夷が、騎馬・騎射戦などの蝦夷の戦い方などを広め武士の発生に大きく係わった可能性があると考えています。

江釣子古墳群と赤彩球胴甕

和賀川北側に赤彩球胴甕が集中する理由として、蝦夷の古墳の存在が挙げられます。北東北、北海道に分布する蝦夷の古墳を調べると、北上盆地にみられる特有の石で墓室を造る古墳の分布と赤彩球胴甕が多く出土する遺跡の分布が一致します。

江釣子古墳群は石室を有する古墳群で最大の規模です。文献にはほとんど登場しませんが、最強の蝦夷は和賀川にいたのです。そのもとになったのが江釣子古墳群であったといえます。

赤色を出す原料「赤鉄鉱」

赤彩球胴甕の赤色は、土器焼成前に塗布し、焼くことにより発色させたものです。帝京大学の分析によると、北上盆地の赤彩球胴甕で使われている顔料は鉱物系のものとわかっており、赤鉄鉱だと考えられます。実は和賀川上流にあった和賀仙人鉱山は、日本有数の赤鉄鉱の産地でした。今でも川原で容易に赤鉄鉱の原石を採取できます。赤彩球胴甕を多量に作った和賀川流域の蝦夷は、簡単に取れる豊富な赤鉄鉱を利用したのでしょう。

帝京大学八王子キャンパスの地下に眠っていた遺跡の発掘調査が1996年から1997年にかけて行われました。その調査によって現在から約1200年前にあたる平安時代の竪穴式の建物跡が発見され、そこから赤く彩られた土器が出土しました。その土器は作られた時代や使い方、なぜ赤く彩られているのかなど、謎だらけのものでした。そして、その謎を解明するべく研究がスタートします。地道な研究の結果、土器は古代の東北に住んでいた「エミシ(蝦夷)」と呼ばれていた人びとが使用していたものと同じ技法で作られたものだったことが分かりました。さらに、土器が出土した建物跡はエミシが住んでいた東北地方で多く発見されているものと同じ特徴を持っていたのです。

なぜ、帝京大学八王子キャンパスの地下からエミシの痕跡が発見されたのでしょうか。そこには歴史の影に隠されたエミシの人びとのドラマがありました。

 

みちのく民俗村・北上市立博物館を見学後、12時30分ごろ遠野市へ向かった。

岩手県 北上市立博物館③縄文の史跡 樺山遺跡 八天遺跡



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