goo blog サービス終了のお知らせ 

いちご畑よ永遠に(旧アメーバブログ)

アメーバブログ「いちご畑よ永遠に(旧ヤフーブログ)」は2023年7月に全件削除されましたが一部復活

平取町 二風谷コタンのチセ(アイヌ住居)群 「二風谷アットゥシ」の実演

2024年06月13日 10時14分01秒 | 北海道

チセ(アイヌ住居)群。二風谷コタン。平取町二風谷。

2022年6月9日(木)。

沙流川歴史館を25分ほど見学後、数分歩いて平取町立二風谷アイヌ文化博物館手前にある再現された二風谷コタン(集落)のチセ(アイヌ住居)群を見学することにした。

 

野外施設として9棟のアイヌのチセが復元されており、アイヌ文化継承の空間として活用されている。イワンチセ(6号)、アㇻワンチセ(7号)の2棟は「工芸のチセ」として5~10月の10時~12時および13時~16時に、二風谷民芸組合の工芸家が日替わりで常駐し、刺繍や木彫りを実際に行っている様子を見学することができる。トゥペサンチセ(8号)は8時30分~17時で「サラニプ製作体験」「ユカラと語り部」や各種儀式に活用されているという。見学は無料。

プ。高床式の倉。ヒエやアワなどの食物を保管したり、山菜を乾燥させたりするために使われたという。

木の梯子段が印象的。いかにも「階(きざはし)」らしい佇まいだ。台湾の原住民住居にもあり、日本などの東アジアに広く分布していた。

イワンチセ(6番目の家)。刺繍等の実演(女の手仕事)。

見学時には2棟が伝統工芸の実演をして、アイヌ工芸作家が木彫りや刺繍などの作業を輪番で行っていた。

アㇻワンチセ(7番目の家)では、木彫の実演(男の手仕事)をしているという。

イワンチセ。内部。部屋の中央には囲炉裏がある。

気温的には、名古屋の3月中旬に当たり、かなり寒く感じるので暖房はありがたい。

イワンチセ。二風谷アットゥシの実演。

女性工芸作家が作業をして、オヒョウのことなど説明してくれた。旅行の行程などの話を含め10分ほど気さくに対応してくれた。

イワンチセ。前室から。次の見学者が来たようなので出ていくことにした。

二風谷アットゥシ

沙流川流域の森が育むオヒョウ等の樹皮の内皮から作った糸を用いて機織りされた反物。二風谷アットゥシは、特に糸に撚りをかけることが特徴と言われている。水に強く、通気性に優れ、天然繊維としては類い希な強靱さと独特な風合いがあり。着物、半纏、帯、小物等に使用されている。

アイヌ文様 ‐女の手仕事‐ 「平取町文化的景観解説シート」から。

衣服(アミプ)の制作

アイヌの衣服として伝承されている種類は多岐にわたります。獣皮衣、魚皮衣、鳥羽衣、樹皮衣、草皮衣、木綿衣、外来の衣服などがあり、その内の幾つかは今日においても各地域で制作・着用(主に晴れ着や文化伝承の場)されています。

 沙流地方で伝えられている着物には、獣皮衣、樹皮衣、木綿衣があります(資料1)。今日において主に制作・着用されているのは、アットゥシアミプ、チカラカラペ、カパラミプの3種類です。アットゥシアミプは単にアットゥシとも呼ばれ、アッ(オヒョウニレ皮)やニペシ(シナノキ)などの内皮を素材にした着物です。

 地域の資料をみると(平村編1951、萱野 1974)、アットゥシに刺しゅうが施されたものは、アットゥシアミプの外、チカラカラペ、チニンニヌプ、カパリミといった名前が付けられています。つまり、この3種類の衣服はもともと礼服づくりの技法に対する呼び名であり、素材に規定されるものでなかったことが分かります。

 しかし次第に樹皮衣はアットゥシアミプ、木綿衣はチカラカラペ、カパラミプ(カパリミ)という呼称に 統 一 さ れ て い き ま す ( 萱 野1978)。 2種類の木綿衣はともに普段着ではありません。チカラカラペ(チニンニヌプ)は、美しい刺しゅうが施される晴れ着として伝えられています。カパラミプは「ふだんはあまり着ることがなく、ウェンペウシといって不幸があったときなどに礼服としておもに老人たち

が着ました。死者の衣装としても用います」(萱野 1978)とされていますが、今日では礼服や死装束以外にも文化継承活動の場など多様に着こなされるようになっています。

刺しゅうや切り伏せの文様が入ったアットゥシを別称にするという意識は、もともと普段着に刺しゅうがないか少なかったことを示しています。博物館資料としては少ないものの、洋服や和服の普及以前は、無地のアミプ(着物)が日常着であったとみられます。

アイヌ文様の刺しゅう

刺しゅうの技法が洗練されてきた背景には、鉄製針と木綿の安定供給があったと考えられます。近世後半から徐々にアイヌ社会に普及し、多くの女性が携われる素地が出来上がっていきました。

江戸の中ごろに国内生産が盛んになると木綿の古着の売買取引が広がり、大阪や江戸を拠点として全国に売りさばかれたという。古着がアイヌ社会にも流通するにつれ、毛皮の利用が減少し、木綿衣が作りだされるようになった」(津田 2006)という生産や物流の変容を背景にしながら木綿素材が一般化していったとみられます。

 アイヌの木綿衣制作・刺しゅうと女性の想いを伝える逸話があります(資料2)。夫のために美しい刺しゅうを施すという妻の気持ちは、現代の着物づくりにも受け継がれ各地のアイヌ文化振興を担っています。 

 アイヌ文様の意味や捉え方は、地域や個人によって様々です(資料 3 ) 。 規 範 な し ( 道 教 委 編1985)、意味が伝わっていない(道教委編 1991)ということのほか、縄をめぐらすことから着想を得た魔よけ(萱野 1974)、虫の食痕から得たデザイン(道教委編 1988)、対和文化の発想(道教委編 993)など幾説にも及んでいます。

 受け継がれる主な刺しゅう技法オホカラは鎖のような小さな輪を作っては糸をかがっていくやり方で、イカラリは糸を置いて布をおさえながらかがって文様を作る。

資料3 アイヌ文様への想いとその意味

1.自分が思う通りに線を走らせて行けばよく、特に文様の規範はなかった。文様の名称としては、トモイノカ(うずまき)しかわからない(織田氏は、時にうずまきのことをモレウmorewとも言われる。モレウ オアミプ morew o amip「うずまき文様のある着物」)[静内 織田ステノ氏 明治35年生まれ]。

 (北海道教育庁社会教育部文化課編 1985)

2.マタンプシや着物につける刺繍の模様をモレウ morew ということを母から聞いた。モレウは、丸くうずのような形をいう。どんな意味があるか聞いていない[千歳 白沢ナベ氏 明治38年生まれ]。

(北海道教育庁生涯学習部文化課編 1991)

3.皮をむいていない家の柱の皮をむくと、虫(キキリ kikir)がすじをつけていることがあるが、その跡からししゅうの模様を考え付いたというテエタ ウチャシコマ(むかしの言伝え)がある。kikir noka kae pe キキリ ノカ カルペ(虫が模様をつくったもの)を研究したのだ[本別 沢井トメノ氏 明治42年生まれ]。

 (北海道教育庁社会教育部文化課編 1988)

4.この模様について、学者や研究者が、括弧紋だとか何だとか、いろいろ形式名称をつけているようですが、アイヌ語ではただモ ・ レウ ・ ノカ ( 静かに ・ 曲がる ・ 形 ) というだけです。うんと古いアットゥシでは、 模様は袖口と衿まわり、 裾まわりだけだったようです。そして私にはその模様が縄を象徴しているように思えてなりません。古い時代のアイヌの生活に、 縄は重要な必需品でした。しかも縄は驚くほど強い。おそらくそういうことから縄に特別な力を感じたのだと思います。縄を身体の衿まわり、袖まわり、あるいは裾まわりにつけることによって、どんな化物も身体の中に入ってこないと考えた。私にはそう思えてしかたがないのです [ 二風谷 萱野茂氏 大正 15 年生まれ ]。 

( 萱野 1974)

5.アイヌの着物の刺繍の模様は、侍の殿方のいるお屋敷までどう行くか、屋敷の中がどうなっているのか、 道すじを表したものだそうだ。それを見て攻めて勝った話もあるそうだ。孫ばあさんがいっしょうけんめいやっているのをみて、どうしてそんな刺繍するのか聞くと、そう答えた。刺繍の糸は、一色ではだめで、色を変えなければならない。裏口はどうで、横がどう、というのに従って、糸の色を変えたのだそうだ[白糠 菊地カヨ氏 昭和2年生まれ]。(北海道教育庁生涯学習部文化課編 1993)

二風谷アットゥシとは

 アイヌの暮らしで培われてきた樹皮製の織物・着物をアットゥシと言います。腰機で織られる平織の反物で、アッ(オヒョウニレの樹皮)、ニペシ(シナノキの樹皮)が素材として用いられます。繊維の品質がやや劣るニカプ(ハルニレの樹皮)等が使われたという記録もあります。

 平取町二風谷は、近現代に至ってもアットゥシの制作に力が注がれてきた地域です。今日においても主要なアイヌ工芸品として受け継がれ、後継者の育成や素材となる樹木の植栽が行われています。

 平成25年3月には「二風谷アットゥシ」として北海道初の伝統的工芸品に指定され、販路拡大に向けた全国規模のPRが行われるようになりました。

資料5 イザベラ・バードが見た平取のアットゥシ(一部抜粋)

「女たちには、暇な時が少しもないようである。彼女たちは朝早く起きて、縫い物や織物をやり、樹皮を裂く。彼女たちは、自分たちや亭主にとても破れそうもないような衣服を着せてやるためばかりではなく、物々交換のためにも織らなければならない。アイヌ人が丹精こめて作った衣服を日本人の下層階級が着ているのを、いつも見かけるのである。」(イザベラ著・高梨訳 2000)明治11年8月

資料6 二風谷のアットゥシ制作・販売について(戦後)

「専業に織って販売網を広げたのは、貝沢はぎ、貝沢みさをで、昭和20年代末からは旭川市の民芸社が大量の買いつけをするようになってきた。

やがて昭和30年代後半から民芸品ブームが起こり、造りさえすれば何でも売れる時代が来た。これといった現金収入がなかった村では今まで女の仕事だったシナ皮取りが男の仕事になり、糸をつむぐもの、織る者と二風谷を中心にアットゥシ織が大量生産され、婦女子は夜も寝ないで働いた。二風谷の暮らしがよくなった基礎は、アットゥシと婦女子の力によるといっても過言ではない。」

                           (二風谷部落誌編纂委員会編 1983)

このあとは、国の重要文化的景観「オプシヌプリ」、茅野茂二風谷アイヌ資料館、旧マンロー邸を見学し、新冠町、新ひだか町へ向かう。

北海道 平取町二風谷 沙流川歴史館 毛抜形太刀 ポロモイチャシ、ユオイチャシ 細石刃 



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。