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新潟県上越市 上杉謙信の居城 日本100名城 春日山城跡

2024年03月16日 10時02分53秒 | 新潟県

春日山城。模型。上越市埋蔵文化財センター。新潟県上越市春日山町。

2023年10月4日(水)。

高田城三重櫓の見学を終え、旧師団長官舎を見学、町屋交流館高田小町へ立ち寄った。このあと、高田地区から直江津地区の春日山城跡へ向かった。

13時ごろ、春日山城の麓にある上越市埋蔵文化財センターへ立ち寄った。

上越市埋蔵文化財センターの展示は、春日山城と上杉謙信のほかに、縄文・弥生時代から戦国時代までの歴史も紹介されている。

その後、中腹の春日山神社前・上杉謙信銅像下駐車場に駐車して、本丸まで往復し、春日山城跡ものがたり館を見学した後、国府所在推定地区の五智国分寺、居多神社へ向かった。

日本100名城・国史跡・春日山城跡。新潟県上越市中屋敷。

標高180ⅿの春日山に築かれた春日山城は戦国時代の名将上杉謙信の居城として知られ、別名「鉢ヶ峰城」(はちがみねじょう)ともいい、城地としての広さは東西・南北ともに2㎞ほどで、規模の雄大さでも全国屈指の名城といわれている。

 

春日山城築城の時期はよくわかっていないが、南北朝時代に越後国守護である上杉氏が越後府中の館の詰め城として築城したのが始まりとされる。1507年(永正4年)、守護代であった長尾為景が上杉定実を擁立して守護上杉房能を追放し、新守護として定実が府中に入ると、長尾氏が春日山城主となった。永正10年(1513年)の古文書に初見されることから、この時期には山城として機能していたことがうかがえる。

ただし、現在のような広大な城郭に整備されるのは、長尾為景、上杉謙信・景勝、さらに堀氏が城主を務めた16世紀後半と考えられる。1536年(天文5年)、 長尾晴景が父・長尾為景から引き継ぐ。1548年(天文17年)12月、 長尾景虎(後の上杉謙信)が兄・長尾晴景から家督を相続し、入城。1579年(天正7年)、 御館の乱を制した、上杉謙信の養子上杉景勝が入城。1598年(慶長3年)、 上杉景勝が会津へ転封となり堀秀治が入城。1606年(慶長11年)、 堀秀治の急死に伴い、子の堀忠俊が引き継ぐ。1607年(慶長12年)直江津港近くに福島城を築城して移り、春日山城は廃城となる。のち、1610(慶長15)年の堀氏改易後は、徳川家康の6男松平忠輝が入封。1614(慶長19)年、高田城を築城して移った。

春日山城は(1)本丸周辺から春日山神社にかけての郭群、(2)南三の丸と通称される本丸の南に広がる平坦な一群、(3)御屋敷遺構群、(4)総構(そうがまえ)が築かれた山裾の平坦地の大きく4つのグループに分けられる。

特に、(4)の屋敷や空堀が広がる山のすそ野に、延長約1.2㎞に及ぶ堀と土塁で総構が築かれていることは春日山城の大きな特徴の一つである。

これら4つのグループにみられる違いは、春日山城の形成過程を示していると考えられ、春日山城は、初期の山頂を利用した小規模な段階から、南に拡大して平坦で大規模な郭を形成し、御屋敷遺構群が普請された後、最終的に総構築造と段階的に拡大していったと考えられる。

多くの絵図には石垣や天守閣などが描かれているが、ほとんど空想であり、石垣も瓦も発掘されていない。

春日山山中には春日山城と支城・砦を結ぶ軍事用道路が整備されていた。

上杉謙信銅像。

春日山神社。

千貫門。

直江兼続屋敷跡。

直江屋敷を見下ろす。

毘沙門堂。

二の丸跡を見下ろしながら本丸跡へ。

本丸跡。

本丸跡から直江津地区。米山・日本海。

天守台・本丸跡。

南の妙高山・鮫ヶ尾城跡方向。

二の丸跡。

二の丸跡から本丸跡を見上げる。

三の丸跡。

三の丸跡。米蔵跡。土塁。

三の丸下から上杉謙信銅像まで舗装道を下る。

新潟県上越市 続日本100名城 高田城三重櫓



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