辺見庸のテレビ出演『瓦礫の中から言葉を』から
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僕は今、もちろん怒っているけれども、怒ることは無意味だと思う。
書こうと思う。
僕の誠実さは、それでもって明かすしか出来ない。つたないけれども、これだけの出来事、あるいはそれ以降の出来事に、僕の筆力、僕の表現は追いつかないだろう。到底追いつかない事は分かっている。けれども試みよう、と思う。それが亡くなった人たち、痛んでいる人たちに対して、僕が出来るおそらく唯一のことだと僕は思う。
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では、どのように言葉を紡ぐのか。いかなる言葉が紡がれねばならぬのか。
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やはり私は、いつ、どうやって、どこに向かって歩き出せばいいかという設問をする時に、思うんです。言葉は、必要であると思うんです。私たちを見捨てた言葉を〔「私たちが見捨てた言葉を」のいい間違いではないか?――引用者〕、我々がもう一度、回復することが必要である。
それはどう言うことかというと、「廃墟にされた外部」、外ですね。外の世界。これは廃墟であります。外部に対する、内部をこしらえなければならない。新しい内部を、自分の手で掘り進まなければいけない。
私の言葉で言えばこうです。著しく壊され、破壊され、暴力のかぎりを振るわれた我々の外部に対して、私たちは新しい内部を探り(あなぐり)、それを掘らなければならない。
――中略――
徒労のような作業かもしれないけれども、それは意味のないことではない。新しい内面を、新しい内部を我々はこしらえる。
それは決して、いたずらに虚しい物理的な復興だけではない、を言うことだけではない。あるいはどこか虚しい集団的な鼓舞を語るのではない。「日本人の精神」というふうな言葉だけを振り回すのではない。
もっと私(わたくし)として、私(わたくし)という個的な実存。そこに見合う、腑に落ちる内面を自分にこしらえる。ということが、私の言葉、私はあまり言わないのですけれど、それが…希望ではないかと、僕は思っているわけです。
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僕自身、多くの価値観を共有している人たちから様々な言葉を聞く。怒りの言葉。それは明らかに正当だと思っている。
政府の対応。原子力発電を推進してきた政治家、官僚、学者・科学者、電力会社、発電機メーカーへの怒り。それに疑問を持たなかったメディア、文化人。貧困を放置してきた者たち。我々にたいして。怒りがあって当然だと思う。
でも、それは何か虚しい。僕は政治的ニヒリストではないが、いま怒りに満ちた言葉は出来そこないのプロパガンダに思えてならないのだ。
それは、「個的な実存」に内化し、それをえぐり出した言葉ではないからではないだろうか。我々は、絶望と悲しみを深め、えぐり取り、静かに組み立てられた言葉こそ、必要としている。辺見庸の言葉を受けて。僕はそう思っている。