砂漠のレインメーカー

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僕が死刑制度に反対する理由

2012-09-29 11:22:14 | 人文・社会思想

 このブログエントリは、僕のTwitterの死刑制度に対するツイッターに返信してくださった方(仮にAさんとしておきます)のために書きました。
 ですが、僕が今まで死刑制度に反対し続けてきた、普遍的な理由や信念のまとめでもあります。ですので、皆さんにも公開します。
 僕は原理主義的な死刑廃止論者で、この考えは容易なことでは変わらないでしょう。
 今のところ、死ぬまで廃止論者のままだろうなと思っています。
 それでは、以下僕の考えとAさんへのメッセージになります。

 Aさん。僕のツイートに返信を下さってありがとうございます。僕は死刑制度に対する原理主義的な反対論者です。ですが専門の研究家でも、運動家でも弁護士でもありません。そして、まだ勉強中でもあります。ですが、出来る限り誠実に自分の考えを伝えたいと思います。Aさんのツイートに完全に対応する内容、順序ではないかもしれません。また、最近ツイート疲れ、ネット疲れもあり、再返信頂いてもご返答出来るか分かりません。その点、御容赦頂きたいと思います。

【冤罪の問題】
 実は、この問題は僕にとって決定的な死刑廃止の理由ではありません。しかし、やはり重大かつ、重要な問題なので論じたいと思います。
 もし死刑判決を受けた人が冤罪だったとしたら。そして、死刑が執行されたとしたら。その人はもう死んでしまっています。取り返しがつきません。僕たちがどうあがいても、生き返ることはないでしょう。ですから、冤罪の可能性を考えると、とても死刑制度を法的に存置することはできないと考えます。
 もちろん、冤罪自体の可能性を少なくする努力は必要です。また冤罪を回避する様々な法制度、裁判制度があります。いくつか例をあげれば、裁判の公開制、陪審員制度、裁判員制度、被告が弁護士・弁護人の助力を得る無条件の権利、日本における三審制(地裁→高裁→最高裁)、取り調べの可視化、「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判の原則、一次不再理の原則、再審請求、etc。日本では採用されていない者もありますが、近代民主主義裁判の原則を積極的に採用していくよう努力すれば、より冤罪の可能性は減っていくでしょう。
 しかし、やはり人間は誤りを犯す動物だと考えています。僕自身も誤りをすることもあります。お金の計算を間違えたり、料理のレシピの分量を間違えたり、友人の言った言葉を聞き間違えたりといった些細なことや、家族や友達に酷いことをしたという重大なことだったり。Aさん自身もそういったことは人間だからあるでしょう。
 ですから、人間が社会制度や法制度をつくるときは、誤った判断をしてしまっても大丈夫なような制度設計が必要ではないでしょうか。死刑制度と刑事裁判に関して言えば、人間である以上、冤罪判決を出す可能性を0%にすることはできません。万が一でも、冤罪判決が出ても取り返しがつくように、法律や法社会制度をつくるべきです。

【死刑制度廃止論者は処罰を否定しているわけではない。犯罪を容認しているのではない】
 ひょっとしたら、感情的な議論になる場合、この点の誤解があるのではないかと思います。死刑廃止論者は法的・刑事的な処罰を否定しているわけではないのです。そして犯罪を容認し、賛美しているような人はいません(いても本当にごく少数でしょう)。僕自身、犯罪や罪というものを憎んでいますし、怒っています。罪を憎んで、人を憎まずという面はあります。また、日本が現在厳罰化の方向に進んでいることに反対しています。しかし、それでもどんなことがあっても罪を犯してはならない、正当化出来ないと考えています。
 また殺人、強姦、婦女暴行、政治的、宗教的テロなどの凶悪犯罪などには、それ相応の重い刑罰が必要だとも考えています。またその処罰や、処罰期間の更生教育と通じて、罪を犯した人が自分自身と自分の罪と向き合い、更生することが可能だとも考えています。
 しかし、死刑という刑罰はその人を死に追いやります。生きる権利をはく奪するのです。最後に述べる理由と重複しますが、そんなことが誰に赦されるのでしょうか。そもそも、そういった権利を理由なく剥奪するからこそ、殺人等の犯罪を私たちは憎んでいるのではないのですか。
 それを、法律に基づき行うことが赦されるのでしょうか。それが正義にかなうのでしょうか。僕は、法は正義に基づかなければならないと考えています。しかし、その法が正義を逸脱することは矛盾しているのではないですか。赦されることなのでしょうか。そしてその法律を作っているのは、僕たち、私たち一人一人の人間です。このようなことが、僕たち一人一人に赦されるのでしょうか。 

【人が変わる可能性】
 時というものは、時間というものはながれていきます。そして、人も自然も世界も環境も変わっていきます。善人が善人のままでは必ずしもなく、悪人が悪人のままでも必ずしもありません。人は変わる可能性がありますし、現に変わっていきます。幸せに、かつ人格者として育った人も3歳の子供のころと、20歳の青年の時、60歳の老人の時では、同じ人間でありながら、変化を重ねるものです。
 罪を犯した人もまた、そうでしょう。憎たらしい、尊敬できず、嫌悪するような人間のままかもしれません。しかし、ひょっとして更生し、罪に向き合い、真摯で心根の優しい、自己犠牲あふれる人になってしまうかもしれない。そうなってしまった人を、死刑囚であるからといって、殺せるのでしょうか。僕は、殺したくないし、殺していいとはとても思えません。
 そして、ある人間が更生する可能性がないと、誰が言えるのでしょうか。人間は、全知全能の神ではありません。だから、未来のことは分からない。またそこに良いことも、悪いことの可能性もあるのだと考えています。
 そして、根っからの悪人などいるのでしょうか。根っからの善人がいないように。

【死刑囚とは危険な人間なのか?】
 大きな犯罪を犯し死刑判決を受けた人、そして死刑を執行された人たち。この人たちは、危険な人間だから、つまりまた被害者が出るかもしれないから、殺すべきなのだという考えがあります。しかし、これは根本的に論理的な錯誤(誤り)をもった考えでしょう。
 死刑囚、および死刑執行を受けた人たち。彼らは、自由に街に、社会にいるわけではありません。厳しい監視のある、刑務所、拘置所、監獄等にいるのが普通です。通常、重犯罪を犯した人は、自由の身ではありません。つまり、新たな犯罪行為、人に危害を加える行為をする可能性が極端に低く、その手段もない状態におかれた人たちです。その人たちは、本当に危険な人なのでしょうか。社会や善良な一般市民から、危険な状態に程遠い状況におかれた人間を、危険だからという理由で殺すこと。これには、大きな論理的な矛盾が生じています。

【誰にも人を殺す権利はない】
 僕にとり、死刑制度に反対する一番大きな理由は、やはりこの理由です。誰にも人を殺す権利などない。だから、酷い犯罪が行われ、罪のない人が殺されたとき、大きな怒りと悲しみを感じるのです。それをもう一度、法律の名のもとにするのですか。それが正義なのでしょうか。そして、人が生きていく権利を奪うことが出来るのは誰なのでしょうか。人間ですか、警官でしょうか、王でしょうか、国家でしょうか、被害者なのでしょうか、被害者遺族なのでしょうか、そして神なのでしょうか。僕の考えはこうです。僕自身にも、何人も、どのような存在にも、生きる権利を奪うことなどない。そう考えています。
 また、人間は社会的動物でもあります。ですから、仮釈放なき終身刑の導入にも反対します。終身刑は、いうなれば社会的な抹殺、社会的に殺すということです。
 それでは怖いという感情もあるでしょう。当然だと思います。そうであれば、更生教育をしっかりと行い、仮釈放審査も詳細に実行し、保釈後も居住地報告や保護司との頻繁な連絡義務を課すなどの、刑事行政実務をきめ細かく行う必要がありますし、それを実行すれば良いと思います。
 最後の終身刑の是非は、議論が大きく分かれるでしょう。しかし、「誰にも人を殺す権利はない」というところを第一として、僕は死刑に反対しています。

【補論1 可謬主義と反証可能性】
 哲学の議論に可謬主義と反証可能性というものがあります。小難しいものですが、法制度、社会制度として死刑制度は妥当性と合理性を持つのかということを考えるとき、重要なものとなります。可謬主義というのは、平たく言えば人間は常に間違う可能性を持つという考え方。反証可能性というのは、その延長線上で、どのような一般的命題(例えば「カラスは黒い」とか「Aという病気にはBという治療法を使えば完治する」)も反証される、つまり一般的正しさが覆されるという可能性です。これを論じている代表的な哲学者にカール・ポパーという人がいます(僕の大学の恩師がよくレクチャーしてくれました)。
 この議論を聞くと、何か人間は何も分からず、無力な存在のように思えてしまいますが、そんなことはありません。ポパーという人は、人間の知の可能性を信じた人です。そして、可謬主義と反証可能性というのは、不可知論(人間は何も知ることが出来ないという考え)とは違います。人間は完璧な真理を知ることはできない。しかし、間違っていたということは知ることが出来る。そして、その間違いを前提に考えや行動を修正していけば、より真理に近づくことが出来る。そうポパーは考えています。
 もう少し説明しましょう。可謬主義というのは間違う可能性です。これ以上説明すると、ややこしくなるでしょう。反証可能性です。まず「カラスは黒い」という命題。もし「白いカラス」が発見されると、「カラスは黒い」という命題は成り立たなくなります。法制度や社会制度は、一般的命題を前提に制度構築しなければなりません。そうなると、妥当性を失った命題、つまり間違っていたことが分かった命題=前提をもとに制度を維持すると、人間生活に不都合が生じることになるでしょう。
 もう一つの命題だと、僕たちの社会制度を考える上でより具体的になります。「Aという病気は、Bという治療法を使えば完治する」というもの。このBという治療法で、病気が治らない人が出てきたら。そうしたら社会全体、医療政策として「新しいCという治療法を確立しましょう」とか「Dという治療法とEという薬を医療保険の適用範囲に含めましょう」という対策を打つことが出来ます。つまり、間違っていたら修正が可能なのです。
 死刑制度に話を適用しましょう。可謬主義と反証可能性というのは、ある真理という前提が、間違っているかもしれない可能性に開かれている(反証可能性に開かれている)ということです。例えば「こいつが犯人だ」という一般的命題に基づいて、判決と量刑を決めます。しかし、この一般的命題というのが間違っている可能性は常にある。とすれば、間違っていた時に修正可能な制度をつくらなければなりません。判決や量刑を決めるのは、「この人が犯人」ということだけではありません。「明確な殺意はあったか」、これが反証されれば殺人罪ではなく傷害致死罪や業務上過失致死罪で裁かなければなりません。殺人罪と傷害致死罪と業務上過失致死罪では、判決および量刑内容に大きな差が生じます。このときにも、修正可能な法律の状態をつくらなければならないでしょう。
 もちろんポパーに議論に反論する人もいます。また世界のすべての物事を説明しつくしているとは、言いすぎかもしれません。しかし、法律、刑事裁判、死刑制度を考えるとき、ポパーおよび可謬主義と反証可能性の議論は非常に重要な位置を占めます。死刑制度の存置を主張する人は、この可謬主義と反証可能性の議論を完璧に覆しつくすような、合理的な哲学議論を提示する必要があります。僕はそのような議論は知りませんし、おそらく無理でしょう。そのような議論前提で、死刑を存置すること、また死刑制度を積極的に容認、奨励するようなことは、欺瞞的かつ無責任だと考えます。

【補論2 無期懲役刑の事実上の終身刑化】
 実は、僕も昔は死刑制度廃止論者であると同時に、「仮釈放なしの終身刑」導入論者でした。しかし、現状の日本では無期懲役刑が事実上の終身刑化しているという議論があります。また過剰な厳罰化、死刑判決の乱発、死刑執行の積極的推進が進んでいる状況です。民主党政権になっても、変わらない状況です。
 この状況を見るにつけ、終身刑が導入されても、死刑制度は廃止されないであろうと考え始めました。より厳罰化が推進されるだけです。そこから少しずつ考えを変え始めました。死刑制度の廃止に基づかない、終身刑の導入など、「犯罪者」をより残酷に懲らしめたいという、人間のサディスティックな欲望に基づく行為に他ならないと考え、吐き気がします。

【補論3 北欧の処罰制度】
 重罪を犯した人は、厳しい処罰が下されると先ほど述べました。しかし、これとは違った政策をとっている国があります。それはノルウェーを代表とする北欧やヨーロッパでしょう。ノルウェーでも一時期、厳罰化を推進したそうです。しかし、厳罰化による刑務所環境の悪化や、それに起因すると思われる再犯率の悪化などが生じてしまいました。そこで、ノルウェーでは逆の政策推進した結果、治安状況等が良くなったという報告があります。
 そのノルウェーを取材したNHKの番組を見たことがあります。犯罪者が収容されている島が紹介されていましたが、驚きました。受刑者は牢獄に入れられていないのです。鍵の掛かっていない、一軒家等に住んでいるのです。家の出入りや、行動もほぼ自由です(島からの出入りの状況はあまり記憶に残っていません。ですが、かなり規則は緩やかなようでした)。この政策は、次のような考えがあります。それは「犯罪を犯した人は、犯罪を犯した時点で罰せられ苦しめられている」、「そのような人により厳しい処罰をしたところで、より苦しむだけである」という考え方です。
 たいていの場合、望んで犯罪を犯す人はどれほどいるでしょうか。その人が追い詰められることによって、自暴自棄な犯罪を犯す可能性の方が高いと思われます。日本でも派遣社員の弱い立場で、明日に希望が見えず犯罪を犯す例があるでしょう(代表例が秋葉原事件だと思います。また、犯罪ではなく自殺する人もいます)。リストラされ、養わなければならない家族がいるのに、借金で首が回らなくなった、本来は小心な人がいる。その人が、消費者金融に押し入って「火をつけるぞ」と脅したら、「やれるものなら、やってみろ」と言われた。本来が小心者だから、どうしていいか分からず火をつけてしまった。そう言った事件が日本にもあります。
 もちろん、どのような理由があろうとも、犯罪は犯罪、罪は罪です。しかし、このような状況にあるひと、あった人をより厳しい刑罰で罰したところで、(罪の意識は芽生えても)より犯罪へ到る道が近くなり、更生の方向からは遠くなるのではないでしょうか。
 先ほどのNHKの番組を紹介しているサイトがあったので、リンクを張っておきます。
 http://www.freeml.com/bl/301624/502134/

【補論4 まだ勉強中】
 僕自身、死刑制度だけでなく法制度、刑事処罰制度、また犯罪被害者の支援等、全然勉強が足りないと思っています。ただ、それでも上述した程度の事は言えると思っています。より勉強すれば、より死刑制度への反対の意思は強くなるでしょう。また、現代日本の刑事罰制度および人権状況と社会制度への批判意識は強まり、それに対する反論、対案もより具体的なものになると強く思っています。



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