砂漠のレインメーカー

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【甘口映画レビュー】SR3 サイタマノラッパー ロードサイドの逃亡者

2012-05-21 04:24:54 | 映画

昨年DVD観賞し、深く感動した「SR サイタマノラッパー」シリーズの最新作、「SR3 サイタマノラッパー ロードサイドの逃亡者」を観賞してきた。

★いくつ?:★★★★★

シリーズの第1作は、埼玉県のフクヤ市という架空の都市が舞台
(ロケ地は入江監督の出身地である埼玉県深谷市。フクヤは深谷をもじっている)
日本中どこにでもあるような、地方都市を舞台に若者たちの「イタイ」青春劇が展開される。
そしてこの青春映画は日本の地方都市が(現代的課題として)かかえる独特の、空気感、空虚感、閉塞感を携えながらストーリーが展開される。

主人公のMC IKKU、IKKUが属するHip-HopグループSHO-GUNGたちは地方都市フクヤ市でラッパーになる、ライブをするという夢を持つ。イック達のHip-Hopかぶれが滑稽で、ダサく笑いを誘う。
しかしこの夢は、なにか現実的ではないし、いわゆる「イタイ」姿として描かれる。 
この空虚な夢のなかで、クラブもライブハウスも、レコードショップも金もない地方都市と若者達の苦しさがコミカルに描かれる。
そんなかで笑えるほどダサくもがきまくるIKKU達。そのなかでダサいIKKU達のSHO-GUNGは空中分解してしまう。
でも「この現実を無視すんな!!!」とラップとライムを刻み、夢の「始まりとも終わりともいえない」形で幕を閉じる。
この映画は独特の空気感、空虚感、閉塞感を持つ。
そして主人公は物凄く身を切るような切実さと悲しみを引き受ける。
それと同時に、絶望と孤独のふちから、言葉を持ちえなかった若者が、言葉を獲得し、最後に希望を紡ぎだす。Voice of Voiceless!!!

この映画に僕は救われたし、人生を教えてもらった。
(私事で恐縮なのですが、4月から大学院の博士課程に進学し東京で新生活。受験準備中の苦しい時期、SRシリーズの登場人物が僕を支えてくれた。そして、彼らに会いに行くんだという思いで勉強をしていた。こいつらに顔向けできるようにと、僕自身必死にもがいていた。そのもがきは現在も継続中)

そしてこのシリーズの最新作(第3作目)が公開。
僕はこの映画シリーズに恩義があるから、何が何でも劇場で観なければならなかった。
入江監督以下、とてつもない低予算でつくられている。
駄作であろうが(結論から言えば、これは全くの杞憂で、本作は大傑作)、何であろうが、このシリーズを応援するために、またシリーズや登場人物を見届けたいという、物凄い気合いで、観賞した。


そしてまた名作に、鳥肌が立つような映画館体験に出会うこととなった。
本当に、入江監督を含むSRクルーには感謝しても感謝しきれないと思っている。

前置きが長くなったが、本作のレビューに入ろう。

【独自の映像構成】
ストーリーに入る前に、本作の映像構成、映像美、画作りについて。
実は今作、映像構成に気を配って見ていた。
なぜなら別作品になるが非常に感銘を受けた映画「CUT」(監督 アミール・ナデリ、主演 西島秀俊)の三村和弘キャメラマンが、シリーズを通じて参加されているのを知ったからだ。
(京都シネマにナデリ監督が来館された時、プロデューサー兼通訳のニアリさんに三村キャメラマンが関わっていることを教えて頂いた。ニアリさん、本当に感謝しています。)

本作(また「CUT」でも感じられた)の映像構成の特徴を一言でいえば「同時共振的な近さと遠さ」である。
言いかえれば、 「蟻の目と、鳥の目」を同時に体感することになるのだ。
重要なのは、「近さ」と「遠さ」が時間的な循環として立ち現れるのではない。
「近さ」と「遠さ」が同時的に、そして共振的、倍音的に観賞者に経験される(ある意味観賞者はそこで引き裂かれているといえる)。
これにより観賞者は「登場人物の個別的な主体に内在し、同時に映画世界の全体状況・構造(力の場force fields 力の布置strcuture forces, constelattion of forces)」を経験する。

だからこそ、観賞者は異常な緊張感、緊迫感のもと映画世界に入り込むことが可能となる。
先回りして言えば、この「同時共振的な近さと遠さ」が如実に表れるのが、終盤クライマックスシーンの一部である。
このシーンで、本作主人公MIGHTYは車で逃亡を試みる。
車の後部からのバックショットで、車の内部と逃亡を試みるMIGHTY、そしてその恋人である一美をカメラは捉える。
車という極めて限定的な内部空間を映し出すので、鑑賞者はこの映像によって極めて「近く」登場人物に内在し、感情移入してしまう。 しかし、この映像は(バックショットであることもあり)どこか引いた視線により構成されている。
この引いた視線が存在することにより、鑑賞者は物語の全体構造を体感しているのだ。
MIGHTYに感情移入し内在し、同時にMIGHTYが知らない全体状況を鑑賞者は知る。それによって鑑賞者は引き裂かれ、異常な絶望と異常な緊張感を体感し、映画世界の登場人物以上に悲劇的状況から這い出そうともがく経験をすることになるのである(逆説的だが、だからこそこの映画体験には希望がある)。
むろん、このシーンは直前のシーン、そして物語全体のストーリーに支えられている。
しかしこのシーンと、「 同時共振的な近さと遠さ」という映像構成もこの映画の全体構造を支えているのである。

【ストーリー1:転落するMIGHTY、逃避行】
さてストーリーの方に入っていこう。
今作はかつてSHO-GUNGのメンバーであり、SR1でIKKU(駒木根隆介)やTOM(水澤慎吾)と袂を分かった、ブロッコリーラッパー(実家がブロッコリー生産農家)MIGHTY(奥野瑛太)が主人公。
MIGTYは地元フクヤの閉塞感から逃れ、適当に楽しそうな東京に行ってしまったようにみえた。
(第1作目を注意深く見て頂きたい。MIGHTYが東京行きをIKKUたちにきりだすシーン。ここでなぜかMIGHTYの軽トラの荷台に東京ディズニーランドのチラシがある。このシーンについて入江監督いわく「こいつ音楽やるとかいってるけど、完璧に遊びにいくな」という演出意図。そして「ちなみに言うと、そこは千葉だぞ」というギャグ要素もあり)


しかしMIGHTYはラッパーの夢、いや志を捨てず密かにチャンスをうかがい、またラッパーのスキルを向上させていた。
そして上京後の2年間の多くを、極悪鳥というハードコアHip-Hopグループの裏方スタッフとして努力を重ねる。
しかし実体は極悪鳥のパシリにすぎない。それでもMIGTYは腐らず、パシリ業に全力を尽くしつつラッパーとして成長しようとする。
そんな中、MIGHTYが出場するMCバトルが近づく。そして極悪鳥の先輩から「もし決勝まで進んだら、極悪鳥のメンバーとしてステージに立たす」と。
このMCバトルでMIGHTYの2年間が報われようとする。確かなラップ、フリースタイルラップスキルにより決勝まで勝ち進む。
MIGTYはようやく、今までの閉塞感や2年間の苦労から一つ開放されようとしている。
しかし決勝進出を極悪鳥の先輩MC林道に報告する電話で一つの展開がある。
MC林道はこうつげる。「よくやった。でも決勝の相手は今度対バンするグループ、メンバー。金も持ってるやつだから、お前が勝つんじゃねえぞ。極悪鳥の羽おるんじゃねえぞ」と八百長を強要される。
衝撃の言葉とともに、失意のどん底に突き落とされるMIGHTY。しかし極悪鳥のメンバーとなろうとするなら、MC林道の命令は絶対となる。MIGTYは自らの魂を売り渡し、八百長に加担する。
(本作は、多くの名画へのオマージュが詰まっている。そしてこのシーンはボクシングを題材にした「レイジング・ブル」(監督 マーティン・スコセッシ、 主演 ロバート・デニーロ)へのオマージュであろう。「レイジング・ブル」では八百長のシーンが出てくる)
屈辱の八百長行為を行ったMIGHTY。しかし極悪鳥へのメンバー入りは、あっさりと無かったことにされる。

MIGHTYの絶望と怒りは、まずここで最初の極限に達する(なぜ最初かというと、この映画でMIGTYは絶望まみれだからだ)。
そして自らの感情を暴発させ、MC林道を血まみれになるまで殴り続ける。
当然ながら、追われる身となるMIGHTY。MIGTYは自らの恋人である一美(斉藤めぐみ)(ポッチャリ系だがキュートな子。リアリティがあり)をつれ、東京を後にする。
ここから、MIGHTYの転落と逃亡が始まる。

特筆すべきは、ここまでのストーリーの展開の速さだ。展開の速さを重視するあまり、リアリティが置き去りにされる事があるかもしれないが、僕自身は全く気にならなかった。どこかMIGHTYの必死さと、埼玉から背負った閉塞感にコミットしていたためであろう。

そしてもう一つ。
この展開に感情移入できない、感想がいくつかある。
ストーリー展開の速さ故だろうか。またMIGTYのラップスキルの上達過程が描かれていないからだろうか。
また(通常ストーリーの中盤あたりで現われる)MIGTYの感情の暴発が、序盤に一気に現われてしまうからなのか。
この展開への否定的は考えは次のようになるのではないか。
MIGTYはより地道にやれば、確実にラッパーとしての活躍する機会が訪れるのに、なぜ簡単にキレてしまうのか。

しかし、僕はこの急進行する展開は次のように理解している。
この映画(またシリーズを通じての)の空気感には、現代の地方都市、農村地方の空虚感と閉塞感が存在している。
そしてこの空虚観や閉塞感は大都市とて無縁ではない。常に都市と農村は連関している。
渋谷に活躍の場を移しているMIGHTYとて、この閉塞感からは無縁ではない。
実際この閉塞感ゆえMIGHTYはIKKU、TOMたちと袂を分かち、故郷フクヤを後にしたのではないか。
この閉塞感からの解放が一瞬見えた刹那、先輩達から裏切られ、道を塞がれ、魂を売り渡してしまった抜け殻の自分を足蹴にされたのだ。
絶望し、MIGHTYの熱情が暴発したとしてもおかしくはないであろう。

そしてMIGHTYは逃亡の地に栃木を選ぶ。
この栃木の地にてMIGHTYは夢を棄て、犯罪組織の一構成へとなり下がるのである(自分では「くだらない夢」に決着をつけ、現実的に生きているふりをしながら)。
そしてこの犯罪集団は金もうけの一環として、栃木で野外LIVEフェスを行おうと計画する。
しかもこのフェスはオーディション出演者から出演料を払わせるなど、ミュージシャン、観客等を巻き込んだ詐欺まがいの企画なのだが・・・
MIGHTYはこのフェスの取り仕切りに関わることになる。自らの夢を売り渡すどころか、夢を持つ者のはらわたを喰うような、金の亡者の手下になり下がるのだ。自らの夢を利用され、そして利用し、人々を騙す悪の手に染まっていくのだ。彼は生きながら、死んでいるような存在へと徐々になりだすのだ。

【ストーリー2:IKKUたちの登場】
この詐欺まがいのフェス計画が進行するなかで、SHO-GUNGであるIKKUとTOMが登場する。
多くの人がここで安心するという感想がある。確かにそうだ。
しかし、それは彼らのオフビートかつコメディタッチの存在感ということからくるのではない。
IKKUとTOMは第1作目にて、絶望の淵のところで言葉を獲得した。自己存在の芯を獲得した存在なのだ。
だから鑑賞者は彼らが転落することがないことを確信している。だからこそ、安堵する。
しかし僕自身は同一の要因からより一層、鑑賞姿勢に力が入った。
なぜなら、それは空虚に転落していくMIGHTYとの残酷なコントラストであり、悲劇的なクロスポイントを暗示させるからだ。
もうこの段階になったら、(この映画に恩があるというのもあるが)「お前たちの旅路の行く末を、しっかりと見届けてやる」という覚悟のもとの映画鑑賞になる。恐ろしい展開といっていいだろう。
そのため、僕はギャグシーンも周りの笑い声によって気づく始末(苦笑)。「ああ、これコメディ映画でもあるんだよな。笑っていいんだよな」と。

そしてこのIKKUたちの登場は、中盤のクライマックスシーンとなり、明確な希望が提示されることになる。
IKKUたちは前述の詐欺的なフェスのオーディションを受ける。
このオーデションは当然ながらいい加減な進行。オーディションを取り仕切る犯罪集団中心人物、山下(ガンビーノ小林)と少年ギャングたちは、IKKUたちオーディション参加者を嘲笑いながら進行する。
そして同席していた山梨・日光出身のラップグループ征夷大将軍と「将軍同士でなんかやってみろよ」と、屈辱をあじあわせようとする。
しぶしぶパフォーマンスをやることになるのだが、しかし山下達の意図しない展開となる。
必死でラップパフォーマンスを繰り広げる、征夷大将軍とTOM、そして超然と自信満々にしているIKKU。
IKKUは既にこのオーディションに宣戦布告をしている。「お前らの権力で、俺たちの魂は踏みつけられないぜ」そう言うかのようなIKKUの姿勢。
そしてIKKUがこのパフォーマンスに参加した瞬間、パフォーマンスは一気に高揚感を増す。
偶然に居合わせた、SHO-GUNGと征夷大将軍の魂がキッチリと絆として結びあわされ、主催者に確かに対抗することになる。
これに苛立ち、主催者はラジカセのトラックを無理やりきる。
弱く足蹴にされるようなIKKU達が勝ってしまったのだ。
芯をもったものの強さ。ぼったくりオーディションより、強い立場となる。そして、そこには金というものの呪縛からの解放がそこはかとなく表現されているのだ。

明確に希望は提示される。しかし、同時に僕の緊張感は一気に増した。
なぜならこの希望は、絶望を必死の思いで背負い込み、世界の不条理へ立ち向かう先にある希望なのだ。
ここで本作の映像構成「同時共振的な近さと遠さが」が大きな影響力を放つ。
IKKU達に近づくとともに、鑑賞者はこの世界を俯瞰している。そしてこの映画内世界が、極めてシリアスな場所であることを知っている。
これは鑑賞者に、示された希望に安易に安住することは許されないこととなるだろう。
そして鑑賞者は、自らが極めて特権的な鑑賞者であることの自己認識を迫られる。
つまり希望とともに、鑑賞者の自己現実へ回帰させられるのだ。
この物語世界の絶望と希望を引き受け、自らの現実生活へコネクトすることが担えるのかと。

(この後、SHO-GUNGと征夷大将軍は、IKKU達が敬愛するトラックメーカー故タケダ先輩の思い出を通じ意気投合する。タケダ先輩は生前、日光でLIVEをしていたことがあり、このLIVEから征夷大将軍はHip-Hopに傾倒していったのだった。)

【ストーリー3:MIGTY決定的な転落】
さて、ここでストーリーの展開をMIGHTYに戻そう(実際劇中でもこのようにMIGHTY側のストーリーに戻る)。
MIGHTY達の生活は、犯罪者集団に世話を見てもらっているとはいえ苦しい。
まともな生活ではない。そして栃木でも埼玉フクヤと同じ閉塞感の中にある。堅気になろうともなれない。
MIGHTYは自らの恋人、一美を結節点として決定的に転落する。

その結節点は、一美がMIGHTYのため、半強制的な売春の強要を受け入れることから始まる。
それを知ったMIGHTYは、一美に客を紹介した犯罪者集団の一味、いかがわしいスナックのオーナーママ紀代美(美保純)に食ってかかる。
そのMIGHTYをあざ笑いながら、紀代美はこう言う。
「お前は女の又の汁すすりながら生きていくんだよ」

ここでMIGHTYは決定的な転落する…

【ストーリー4:クライマックス、大立ち回り、金、絶望、フリースタイル】
決定的に追い詰められた、MIGHTYはこの場所から再度逃亡を果たさなければならない。

ここから一気にクライマックスへと入って行くのだが、ここで特筆すべきは今までの閉塞感、孤独、絶望、希望といったテーマに、娯楽としてのクライム(犯罪)エンターテイメントの要素が重層的に絡まり合うのだ。
そしてこのクライムエンターテイメントには、魅力的な悪役である極悪鳥の再度の登場、地元犯罪組織の元締め等々力(永澤俊矢)が関わる。一種の、縄張り抗争エンターテイメントという要素が、この映画により深いコクをあたえる。

MIGHTYは逃亡とともに、復讐を遂げようとする。そして復讐とともに、逃亡の金を得ようとする。
山下の経営する産廃業者に忍び込み、金を得、見張りを殴り倒す。
そして危険なフェスの会場に戻って来る。

MIGHTYは背をかがめ、蟻の目で、そしてネズミの体制で鼠のように、獲物を狙う。
天敵の猫に噛みつき、復讐を果たそうとする。
(ここで俯瞰する鳥の目があることで、鑑賞者の緊張感が高まってくる)
ひっそりと身をかがめ、フェス会場で金を管理しているブースへ近づく。
そこで、手下であった少年ギャングとひと悶着がある。
さらに極悪鳥、元締めの等々力などが加わり、大立ち回りが始まる。

この大立ち回りと抗争は、悲劇であるのだが、同時に人と人がぶつかり合うプリミティブな高揚感も伴う。
クライムエンターテイメントとしての本作の要素が、一気に爆発する。

そして、この大立ち回りのエンターテイメントは本作およびシリーズのテーマとも関わる。
それは金だ。
なぜMIGHTYは危険なフェス会場に立ち帰ってきたのか、疑問に思う方もいるだろう。
それはMIGHTYが金に呪縛されているからに他ならない。

そもそも、このシリーズで立ち現れるのは決して豊かではない地方ロードサイドが舞台だ。
華やかさは微塵もなく、閉塞感であふれている。
その閉塞感と展望の無さの根源は金の無さであり、同時に金への呪縛なのだ。
僕の記憶が確かならば、MIGTYは「この金があれば逃げれる」といったセリフをはっきりと言っていたはずだ。
(皮肉な事に、このシリーズの製作体制は常に資金難の呪縛を背負っている)
金という麻薬と悪魔に溺れ、呪われ、呪縛されている人間(我々自身)。

この大立ち回りの末、MIGHTYは逃亡を果たせるかに見えるのだが…

散々、内容を明らかにしたがここからのさらに来るMIGHTYの絶望、そして二重のクライマックス、シリーズ定番のフリースタイルラップについては伏せておこう。
ここから後のストーリーはぜひ劇場でご覧いただきたい。

【エンドクレジット】
最後にエンドクレジットに触れておこう。
エンドクレジットでは第1作目の舞台、フクヤの風景が移される。
IKKUが東京でAV女優をしていた同級生、千夏(みひろ)が再び故郷を離れるのを見届ける鉄道の沿線。
MIGHTYの実家のブロッコリー畑など。

シリーズの(一応の)大団円で、シリーズ1作目への回帰すると言う円環構造を示すのだ。
これは「終わりなき日常を生きる」、「永劫回帰」などというものと少し違うであろう。
また、大団円でなぜ1作目に帰るのか?後ろ向きではないかという解釈もあるだろう。

これに対し、僕はこう解釈している。
この円環構造は原点への回帰‐希望への回帰を示している。
と同時に、鑑賞者を無理やりスクリーンの世界から現実に回帰、着地させ、そして鑑賞者自身の現実に存在する絶望と希望へと向かわせる。
これはどこにも存在しない、どこにでも存在する光景へと鑑賞者をエンドクレジットで立ち返らせるからである。
そして鑑賞者が、「同時共振的な近さと遠さ」によって経験した引き裂かれた絶望と希望と、苦闘を現実世界に持ちこませることになるのである。

以上は、多分に僕の過剰な解釈と意味付けによるレビューである。
しかし、それなりに正当性をもったレビューだと思っている。

上映後は今回の悪役、極悪鳥メンバーを演じられた北村昭博さん、板橋駿谷さんの爆笑トークショウ(急遽の設定)。
この極悪鳥への思いやら、劇中では描かれなかった極悪鳥の背景を知ることが出来た。

すばらしい爆笑トークショーでした。
それでも本作の余韻は残る。帰りの電車の風景からはMIGHTY、IKKU、TOMそして極悪鳥の姿を探してしまう。
現代において見られるべき映画にであることが出来、素晴らしい映画体験だった。
そしてこの映画体験をした僕は、自分自身の生を問われることになるだろう。



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