信頼性とは「何度繰り返しても一貫性がある」ということだ。
これまで紹介した研究方法は、それを検証できるか?
かなり疑問が残る。
ただし、中には標準化されるものもあるだろう。
例えば「バカ」と言われた場合の人の反応…などは、わかりやすいかもしれない。
たいていの人は怒る。しかし、時と場合と言う人や言い方によっては、うれしかったり喜んだりする。これは、みなさんにも、覚えがあるはず。
この不確定さが、心理学は科学とは言い切れない何かを持つ気がする。
仮に百歩譲って「人はバカと言われたら67%は怒る」と標準化されたとしよう。
だからと言って「妥当性」があることにはならない。
「妥当性がある」とは、実施された検査や測定が意図されたことを本当に測定している…と言う意味だ。
例として、安物のプラスチック定規。
これは「何回図っても同じ」という信頼性はあるが「正確である」という妥当性はない。
もしかしたら、心理学に限らず、あらゆる科学は「現時点で正しい…かも?」に過ぎず、普遍性があるとは言えないかもしれない。
よって、このブログでは、こう結論する。
「心理学は科学かもしれない。でも、科学には確実な普遍性はない。所詮、現時点で『そうなの…かも!?』ぐらいのもんだ」
だから、丸ごと信じるのは、人生や命を不意にしかねない。「科学的」って言われたら信じちゃうでしょ?ちょっとだけ「東スポの記事と大差ない」と考えません?(もちろん、東スポはワクワクする記事満載で人生を豊かにしてくれるステキな一流新聞だ。)「科学信仰」を止めません?
次回は、これまでと視点をガラッと変えて「哲学的方法」に入る。
これまで紹介した研究方法は、それを検証できるか?
かなり疑問が残る。
ただし、中には標準化されるものもあるだろう。
例えば「バカ」と言われた場合の人の反応…などは、わかりやすいかもしれない。
たいていの人は怒る。しかし、時と場合と言う人や言い方によっては、うれしかったり喜んだりする。これは、みなさんにも、覚えがあるはず。
この不確定さが、心理学は科学とは言い切れない何かを持つ気がする。
仮に百歩譲って「人はバカと言われたら67%は怒る」と標準化されたとしよう。
だからと言って「妥当性」があることにはならない。
「妥当性がある」とは、実施された検査や測定が意図されたことを本当に測定している…と言う意味だ。
例として、安物のプラスチック定規。
これは「何回図っても同じ」という信頼性はあるが「正確である」という妥当性はない。
もしかしたら、心理学に限らず、あらゆる科学は「現時点で正しい…かも?」に過ぎず、普遍性があるとは言えないかもしれない。
よって、このブログでは、こう結論する。
「心理学は科学かもしれない。でも、科学には確実な普遍性はない。所詮、現時点で『そうなの…かも!?』ぐらいのもんだ」
だから、丸ごと信じるのは、人生や命を不意にしかねない。「科学的」って言われたら信じちゃうでしょ?ちょっとだけ「東スポの記事と大差ない」と考えません?(もちろん、東スポはワクワクする記事満載で人生を豊かにしてくれるステキな一流新聞だ。)「科学信仰」を止めません?
次回は、これまでと視点をガラッと変えて「哲学的方法」に入る。