DEEP ACIDなんでもかんでも日記・ヤプログ!より移行

憲法と聖書

 前回の記事で、古典宗教の信仰は人間の外側に基準を設けると言う意味で、今日の人間中心主義~経済至上主義を批判的に考える上で重要であることを主張した。もちろん、外部であればなんでも良い訳ではない。得体の知れない宇宙人を外部基準にしたところで、彼らの思想信条を拝聴し、コミュニケーションが取れる状況でなければ意味がない。古典宗教は私たち現代人とは異質なところを多く持ちながら、聖典と言う明確な拠り所があり、そこからメッセージを発信しているところに意味がある。
 その一方、憲法もまた、政治を語る上で“外部基準”としてふさわしいツールである。
 もちろん、法治国家では憲法に限らずあらゆる法律、条例が名文化され、特定の人物(すなわち独裁的統治者)の思惑に左右されない政治決断をする仕組みが出来上がっている。そして憲法はその頂点に君臨する。
 そのときどき、ケースバイケースで判断を下すことも大事だが、正しい判断をするためにメンターとして存在価値を持つ外部基準として、憲法は最高の地位にあると言える。すなわち、憲法とは本来、時代の流れで変えるべきものではない(その下の法律を変えれば良い話)。
 だから、時代の流れに沿って憲法を変える、と言う入口の議論がすでにおかしい。たかだか数十年ごときで変わるものを拠り所に政治的判断を下すなんてあり得ない。2000年間変わらない聖書のように、長い年月の風雪に耐えた言葉こそが私たちの正しい外部基準になる。
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「社会・政治」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事