泰西古典絵画紀行

オランダ絵画・古地図・天文学史の記事,旅行記等を紹介します.
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17世紀オランダ・フランドルにおける建築画の歴史

2009-10-18 18:44:01 | オランダ絵画の解説
Liedtkeの論文(The Dictionary of Art vol.2 pp.340-34)を改変

 1550年から1700年頃の低地地方においては建築画も発達したが,この時代の建築画とは,線遠近法によって宮廷の景観や教会の内部を描かれたものをさすことが多い.その端緒はまずアントワープに興り,フランドル及びオランダ全体に広がって行き,とくに,アントワープ派のほか,オランダではハールレム派やデルフト派が存在した.
  17世紀の「遠近法」という呼び方をしたときフランドル様式の建築画がこれに該当するのに対し,オランダ絵画においての創作はといえば,邸宅の優美な人々(elegant company)を描いた作品群と大教会の内部(教会内部画church interior)を描いた作品群に明瞭に区別されたことである.教会内部画については,とくに1600年以降のフランドルにおいては慈善や礼拝や洗礼といった人々の信仰の行いを明示する作品が主流となるが,オランダでは,時に空想上の場合もあるが多くは,購入者たる信心深い市民の国民感情に訴える有名教会の内部であることが重要であった.

1.フランドル
 16世紀初頭のアントワープにおいては,イタリア・ルネサンス絵画,たとえばラファエロのヴァチカン装飾から着想を得た建築絵画が発展し始めた.ヤン・ホッサールトJan Gssartの描いた宗教画作品などに見られる背景の建物やその内部の華美で折衷的な表現と魅惑的な形態は,彼に続く16世紀中葉のフレデマン・デ・フリースHans Vredeman de Vriesの遠近法に基づく絵画や版画の着想の源になった.

・ヤン・ホッサールト 「ダナエ」1527年 ミュンヘン・アルテ・ピナコテーク

 デ・フリースの建築画は,精緻でカラフルで装飾的で,ゴシック様式とルネサンス様式が混ざっており,描かれた多くの群衆は流行の服装で道徳的な題材に縛られておらず,これらは比較的大きな画布に描かれ,個人では建てられない羨望の的として愛国者の家に飾られていたに違いないという.彼はまた,セルリオSebastiano Serlioの古典的寺院建築に関する書物を参考にして,師のファン・アールストPieter Coecke van Aelstと同様,建築とその装飾の総合設計にあたり,その集大成として1604年に出版された"Perspective"は,教会の中央を見下ろす超広角図法とアーチを通してみた王宮といった図式の図案集として,その後の建築画家に利用された.

・フレデマン・デ・フリース 建物のある風景 板 82x100cm エルミタージュ美術館

 フランドルにおいては伝統的に師弟伝授の縛りが強かったようだが,ヘンドリック・ファン・ステーンウェイク(父)Hendrick van Steenwijk the elderもデ・フリースの弟子で, 1580年代の初めに西から見たアントワープ大聖堂の内部を描いているが,デ・フリースの版画Scenographiaeに拠って,絵の平面に平行に浮き上がる効果repoussoirによってかなり中心寄りに後退して描かれており,ここで確立された様式が追随者に引き継がれた.ファン・ステーンウェイク(父)の作品の多くは,実在の教会を描き,微妙な光と影の雰囲気の点で写実的効果を醸し出し,アーチが両脇に引き伸ばされ水平線が低く置かれた前景の広角効果は,より遠方から見るよりも見るものに臨場感を与えているが,その限られた色遣いと柔らかい描画が続く40年の建築画の多くとは異なっている.

・ヘンドリック・ファン・ステーンウェイク(父) ゴシック教会の内部 1578年 銅版 35x46cm

 ヘンドリック・ファン・ステーンウェイク(子) the youngerは,フランクフルトやロンドンに住んだこともあるが,父の試みたキャビネット画(飾り棚にはめ込まれた小画面の精緻画)において,微妙な光と影というよりも色彩と精緻さで卓越した作品を描いた.
これは17世紀フランドルにおける建築画家の主導者ピーテル・ネーフス(父)Pieter Neeffs the elderにおいても同様であるが,その画面は大きく,主にアントワープ大聖堂か同様に設計された空想のゴシック式教会を描いた.その子のピーテル・ネーフス(子)は父の下で制作したが,父の繊細な線や精妙な影付けなどにおいて遠く及ばなかった.両者は,画中の人物像の画家としてそれぞれフランス・フランケンⅡ世とⅢ世と共同製作した.

2.オランダ
 空想上の宮殿眺望図や教会内部画はともにオランダで流布したが,ミッデルブルグのディルク・ファン・デーレンDirk van Delen,ハーグとデルフトでのバーソロメウス・ファン・バッセンBartholomeus van Bassenとその弟子ヘリット・ハウクヘーストGerrit Houckgeest(及びロッテルダムのアンソニー・デ・ロルメAnthonie de Lorme)らは1640年までにこぞって,ファン・ステーンウェイク(父)の作品を連想させるあたかも入ってゆけるかのような空間配置と控えめな色彩,洗練された彩飾の"realistic imaginary church(現実にある構造物を想像上で配置した教会)"を描いてゆく.

・バーソロメウス・ファン・バッセン レーネンの聖Cunera教会の内部 1638年 板 61x81cm ロンドンNG


・ヘリット・ハウクヘースト 「沈黙公ヴィレムの墓のあるデルフト新教会」
左 1650年 板 126x89cm ハンブルグ美術館  右 1651年頃 板 66x78cm マウリッツハイス美術館

 ハールレムのピーテル・サーンレダムは実在する教会を取り上げた初めてのオランダ画家で,彼は建築物を間近で記録する際の知覚的な問題を洗練された解釈でこなし,いくつかのオランダの大教会を忠実にスケッチで記録した.教会の建物の一部を取り上げた彼の淡い色調の様式化された絵画は他の画家には採用されず,もっと因習的な仕事の方がハールレムの同世代及び後輩となる画家ヨプとヘリット・ベルクヘイデ兄弟やイサーク・ファン・ニッケレ(ン)Isaac van Nickeleに影響を与えた.

・ピーテル・サーンレダム 「ユトレヒトのBuur教会の内部」1644年 板 60x50cmロンドンNG

 オランダ建築画の最後の時代はデルフトで始まる.1650年から51年にかけてハウクヘーストが彼の地の旧教会と新教会の実際の内部を,円柱をすぐ目の前の前景として配しつつその遠近の複雑な接合部を驚くべき忠実さで描くのに二点遠近法を採用した.
 これには,すぐにヘンドリック・ファン・フリートHendrick van Vlietが倣ったが,とくにファン・フリートは画業の後半をこれに費やし,建物のプロポーションやいくつかの細部を自由に描き換えたり,他の都市の多くの教会を取り上げたりもした.

・ヘンドリック・ファン・フリート 「沈黙公ヴィレムの墓のあるデルフト新教会」1665年 画布 80x65cm 個人蔵

 デ・ロルメのロッテルダム近郊のLaurens教会の眺望や,デルフトのコルネリス・デ・マンCornelis de Man(1621-1706)の少数の教会内部画では,ハウクヘーストやファン・フリートの発案による構図が取り入れられている.

・コルネリス・デ・マン「デルフトの旧教会の内部」 板 73x59cm

 エマヌエル・デ・ウィッテEmanuel de Witteは初期は野暮ったい塗り方であったが,1650年頃からはハウクヘーストの二点遠近法など他の画家から図案を借用しつつ,1652年頃にアムステルダムに移り,建物の構造やその質感ではなくて,光と影,雰囲気や広大な空間の流れといったものの印象を描くために,建築画においては先例のない流麗な洗練された筆遣いを取り入れたことによって,オランダの建築画の絶頂を具現した.彼の作品に見られる現実ないし,円熟期のrealistic imaginary church仮想の教会は,壮大でありながら同時に親密さを兼ね備えている.17世紀オランダの建築画は因習的な面が強いが,その中で,サーンレダムとデ・ウィッテの二人が傑出していた.

・エマヌエル・デ・ウィッテ 「デルフトの旧教会の内部」1651年 板 61x44cm ウォーレス・コレクション

ヨルダン・シリアの旅(7)

2009-10-10 15:06:46 | 旅行記
ダマスカス Damascus

 4000年以上の歴史ある大都ダマスカス.ノアの次男ハム(→アフリカ,長男セム→アジア,三男ヤペテ→ギリシアなど)の国に由来するシャームという通称もあるらしく,1万年程前から人類が定住したと推定され,世界で最も古い都市であるといわれる.古来より地中海とメソポタミアの交易の中継地で,紀元前11世紀にアラム人の王国の首都としてシリア地方の中心都市になったが,新バビロニア王国の支配を経て,紀元前539年ペルシア帝国によってシリア州の州都となった.続くアレキサンダーによる征服,セレウコス朝とプトレマイオス朝による争奪戦の後,紀元前64年ローマ帝国によるシリア西部の併合によってデカポリス(十都市連合)の一つとなりギリシャ・ローマ文化が開花したが,この時代までの遺構は地下に埋まっているという.
 その後636年にイスラム帝国によって征服され,続くウマイヤ朝の首都として繁栄の頂点を迎える.750年アッバース朝が興ると首都はバグダードに遷り,その後970年にファーティマ朝による支配下で,ローマ風の格子状の大路は狭い街路のイスラム風の都市に変貌して行く.1079年のセルジューク朝において再び独立国家の首都になり,その後,1169年からのサラーフッディーン(「宗教・信仰の救い」の意)」,英サラディン)の統治下で城砦は再建され学問の都となったが,彼の死後内紛で徐々に衰退し,続くマムルーク朝,オスマン帝国においては州都に甘んじた.
 現在はシリア共和国の200万人が暮らす首都ですが,今回は半日で国立博物館と旧市街の一部を観光しただけでした.

 なお,ダマスカスの北西には旧約聖書創世記に記述のある「カインがアベルを殺した場所」とされるジャバル・カシオン(カシオン山)が旧市街を見下ろし,南にはグータという大きなオアシスがあり「エデンの園」のモデルではないかと云われているそうです.


左上・看板上方にOld Damascusとあるように旧市街の城壁,右にスーク(市場)の入り口が続く
左下・入口付近から見たスーク・ハミディーエというオスマン帝国時代に建設された市場 アーケードの中は少し薄暗く
日の光が差し込んでいる
右二列・光物を扱う店が多いが,入口近くの右手に楽器店があった(右端).リュートは下の貝象嵌のものが売値US$550,
上の銘木の象嵌のほうが高価とのこと.その前にあったズゥーメラzoumeraというダブルリードの貝象嵌の幾何学模様の
入った縦笛を土産に購入した(US$55.5→45でそれ以上は無理とのことだが).狭い店内ながらチターやヤマハの電子
楽器も扱っていた.

 この突当りがウマイヤド・モスクの北門だが,先にすぐ左手のサラディン廟に向かった.十字軍からイスラム帝国を救い1193年この地で病死したアイユーブ朝の始祖にして英雄のスルタン,サラディーンの墓である.


左・サラディン廟の外観 神聖な場所であるため靴を脱ぎ,女性が拝観するにはアバヤというフード付きコートのようなもの
をかぶらなければならない.ある人曰く「ネズミ男」のようだと
右・同内部 外壁上部は後付けである.壁にはビザンチン時代のイスラム風の細かな植物のモティーフの装飾
手前の白い石棺は1889年ドイツのヴィルヘルム二世から送られたもので空,右手(奥)の緑布が被せてある木製が本物.

 ウマイヤド・モスク(ダマスカスの大モスク)は,2000年以上前から神聖な場所で古代ローマ時代にジュピター神殿があり,ビザンチン帝国時代はキリスト教の聖ヨハネ教会だったものを,ウマイヤ朝が715年に10年以上の年月を要してモスクに改造したもので,創建時の姿を留めるものとしては世界最古,世界で最も大きいモスクの一つであり,イスラム教で第4番目の聖地(カアバ・預言者のモスク・岩のドームに次ぐ).通常のモスクとは違いローマ建築・ビザンチン建築の様式が色濃く出ている.内部には絨毯が敷き詰められており,入場時の服装に制限があるのもサラディン廟と同様.


北口からみたウマイヤド・モスクの中庭 左の建物は宝物庫,表面の装飾はモザイク


左上・北口外から見たウマイヤド・モスクと尖塔 右上・北口の天井装飾 赤地に幾何学模様はペルシャ絨毯を連想させる
 モスクの尖塔(ミナレット)は,北アフリカでは四角,イラクでは螺旋,オスマン・トルコでは鉛筆型とのこと
左下・中庭に面すローマ・ビザンティン建築様式の装飾 右下・回廊の角の壁には創建時のモザイク装飾が随所に残る


モスクの内部 左手の壁に緑ガラスの窓のある寺院にはヘロデ王によって斬首されたイスラム教で預言者とされる洗礼者
ヨハネの首が納められているといわれている


左上・モスク内部を見返る    右上・洗礼台
下段(左から)不遜ながら寺院の内部を見てしまった・祈る信者の方々・ミフラーブ(キブラ[メッカの方角]に向いた壁の
窪み)・入口のステンドグラス


上段・アゼム宮殿 1749年に建設された同市の統治者アゼムの館だったが,現在は民族学博物館
中庭が美しく,右のように等身大の人形を配して宮殿内の様子や,アラブの寺子屋,アラビア語の細密文字,工芸品やその製作過程,伝統衣装・象嵌細工の楽器などが展示されている.
下段・国立博物館 中央は 右端の写真の右の上はカシオン山
 シリア各地の遺跡からの重要な遺物が保管されている.建物内部は写真撮影禁止で英文のガイドブックを購入US$28 前14世紀のウガリット語の粘土板は,人類史上初めてのアルファベットの原型.ダマスカスの迎賓室は1737年築の豪邸の応接ホールを修復したものだが圧巻だった.253年に造られたドゥラDura・エウロポス都市のシナゴーグの壁画には旧約聖書の物語が描かれ24点が残っている.
 


上段(左から)小瓶に造られた怪しげな青い香水・午睡中失礼しました・屋台のザクロジュース売り
下段・アンティークショップ?・まっすぐな道にある旧邸宅の廃屋・ファーティマの手のドアノッカーの例4つ ファーティマは
ムハンマドの四女で理想の女性とされた.神への奉仕にかかわる教えは手の形に象徴されるといい,その手はスンニー
派には護符となったそうだ.


右上・まっすぐな道(正面にはローマ記念門と教会)     左上・まっすぐな道の終点 東門(バーブ・シャルキー)
右下・東門を出て右に曲がるとBab Kisan門へ 現在は聖パウロを記念した教会がある 左下・東門にあった案内地図

 この城壁は、1世紀頃、ローマが最初に建設したと言われているが,現在残っているのは13世紀から14世紀に,十字軍やモンゴル帝国の侵略を防ぐためアラブ人が建築したもので,7つの門が残っている.
 まっすぐな道は(直線街路Via Recta),1500メートル以上あった東西に走るローマ時代のダマスカスのメインストリートの一つであり,使徒行伝第9章第11節にある「聖パウロの改宗」に登場する.キリスト教徒捕縛のためダマスカスに赴くが途中光に目をくらまされたサウロは見えないまま道がまっすぐだったので過たずアナニアの家に辿り着き,そこで洗礼を受けたところ開眼したという.回心したサウロはパウロと改名したが,キリスト教徒によりバーブ・キーサンから籠に入り塁壁から吊り下げられてダマスカスから脱出したという伝説が残っている.

ヨルダン・シリアの旅(6)

2009-10-09 19:24:50 | 旅行記
クラック・デ・シュヴァリエ Krak* des Chevaliers   *シリア語=フランス語Crac

 トリポリの東,現シリアにあってホムス・タルトゥース間で海に出ることのできる唯一の道の峠にあって,標高650m程から地中海の海沿いを監視出来る地の利にある天空の城.1031年にアレッポ領主が築城したが,1099年に第1回十字軍のトゥールーズ伯レイモンにより落城,1144年聖ヨハネ騎士団に譲られその本拠地となり,周辺の要塞とともに十字軍の防衛拠点となった.「騎士の砦」の名の所以である.現存する十字軍時代の代表的な城塞として,カラット・サラーフ・アッディーン(サラディンの砦)と共に世界遺産に登録されており,wikipediaによるとアラビアのローレンス曰く「世界で最も素晴しい城」とのこと.

 騎士団による改築は1142年に始まり約30年でほぼ完成,攻城兵器を使い難くするため内壁のすぐ外側に厚い外壁を加え,7つの守備塔を配し,濠も造られた.内部の建築物もよりゴシック調に改造され,アーチ天井のホールや礼拝堂を備え,長さ120mの食糧貯蔵庫は常駐する50~60人の騎士と2000人の歩兵でも5年間篭城可能で,実際1188年のサラディンによる包囲にも耐え抜いた.4000人以上収容できたとも云う.
 その後,1271年にマムルーク朝興隆の祖バイバルスが調略をもって落とし,礼拝堂はモスクに転用されイスラム風の内装が加えられた.1273年の第9回十字軍時にエドワード1世がこの地を訪れ,この城の求心型様式を参考にして自国に城を築き,西欧の築城建築にも影響を及ぼしたという.


クラック・デ・シュヴァリエの外観 (正面の向かって左前方から)


同 俯瞰銅版画 (背面の向かって左上から)  wikipediaより転載


左上・入口の壁に書かれた装飾文字の左端(↓)は獅子像 右上・入って左のトイレの照明以外は自然採光のみの暗闇
左下・外壁を上がって内壁との間に濠がある  右下・外壁の南西護衛塔の内部 中央の柱(⇒)にイスラム征服の碑文


左上・正面左前方の外壁上から見た内壁,高い塔が司令塔 右上・外壁を下り背面を回って左手奥へと向かう
左下・外壁上を回って左後方,背面の王女の塔方面へ 右下・外壁から背面と王女の塔を見返る(この4枚は反時計回り)


上・正面側から中庭を望む 左手はゴシック式回廊とホール,向いが礼拝堂,右手は護衛詰め所,手前の下が貯蔵庫
  (「地球の歩き方」に城の地図が載っていたが,見学時は地図無しでぐるぐる回っていたので今ひとつ不確実でした)
左下・護衛詰め所 兵卒の部屋らしく天井が低い       右下・瓶置きのある食料貯蔵庫


左・教会の礼拝堂                            右・ゴシック式アーチ天井の回廊 ホールはこの右手
右下・礼拝堂のニッシェ壁の彩色装飾(○) この城のフレスコ画は十字軍美術が保存されている数少ない場所という


左上・中庭から上がり正面を巡って司令塔に出る           右上・司令塔2階の君主の部屋(寝室)
下(左から)・司令塔の案内板・螺旋階段の入り口・君主の部屋の窓から下界を望む・螺旋階段は屋上へと続く



司令塔の屋上から,中央の塔と下の濠,下界を望む


左上・司令塔屋上より背面方向,右手が中庭 右上・向かって左手に広がる景色,このとき奥に地中海は見えなかった.
この方向にレバノン山脈に連なる砦が微かに確認でき,往時は狼煙を見て肉眼で交信していたという
下・夕焼けに染まる地中海は城から下るバスの車窓から見えた

ヨルダン・シリアの旅(5)

2009-10-08 22:01:23 | 旅行記
パルミラ Palmyra (2)  アラビア語 タドモル Tadmor


バールシャミン神殿
 豊穣・天候の神バールシャミンを祭っていた神殿で,ヘレニズム期にはゼウスと混同されたが,5世紀に教会として
改築されたため保存状態が抜きんでてよい.四面門から右に折れた突当たりにある

左上・朝日に染まるバールシャミン神殿とアラブ城
 アラブ城は17世紀の城塞 ここからの夕日に染まる遺跡の光景がすばらしいという
右・神殿の内部 自然に生えたドングリの木があたかも御神木のようだ.なっている実はクヌギに近いように見える.
ドングリはミイラの防腐剤として用いられていたともいう.

 墓の谷にある古代の墓には,塔形墓と地下墳墓がある. 


左・エラベル家の墓 地上五階建の塔形墓   右上・四階の窓から墓の谷を見下ろす
右下・一階の内部 正面には故人のレリーフ像・天井には彩色フレスコの肖像画 側面の壁柱の隙間に遺体を安置した


三兄弟の墓 名の通り有力氏族一族の埋葬された地下墳墓でその内部には,出資者のレリーフやアキレスの逸話などを
描いたヘレニズム期の彩色フレスコ画があり,優美な造りは当時の死生観が想像できるが,内部撮影は禁止.
右上・墓の入口の上枠にある碑文の中に(右中)アラビア文字で160の年記がある
 

ボルハとボルパの墓 パルミラ遺跡の東南にある墓地にあり,奈良のシルクロード学研究センターらによって,入り口の上にあるサテュロスの頭部の浮彫りの建造碑文(右上)から紀元前128年にパルミラの有力氏族である同兄弟によって建造されたことが判明した.墓の一部は220年ごろに分譲もされたらしい.
上中・入口の石の扉は非常に重い 扉は上に支持部があるらしい
左下・入り口のアーチの要石にはメドゥーサの浮彫り サテュロスとともに墓に侵入する邪悪なものに対する魔除け
右下・墓の内部正面 左右にもレリーフ

中央の石棺は家族団欒の饗宴を表現している

左右のレリーフも,半身を起こし立てた右足に右手を置いて左手に杯を持つ姿勢は同一で,足元に子供の立像を従えている.
中央・遺体は他の墓と同様,側面の壁の窪みに水平に足のほうから安置され,一列に三体ほど収容可能のようだ.
正面のレリーフの下に安置されたのが,兄弟のいずれかの家族だろう.


左上・遺跡手前の大統領広場の角にあるパルミラ博物館を車窓から 右・オリックスを庇護する獅子の像
左下・野外展示の名家の石棺



左上・レストラン併設の動物園のオリックス 左下・駝鳥   右・ベル神殿の前の駱駝の子


オアシスのナツメヤシ パルミラの語源は,ナツメヤシを意味するギリシャ語「パルマ」であるという

ヨルダン・シリアの旅(4)

2009-10-07 22:00:42 | 旅行記
パルミラ Palmyra (1)  アラビア語 タドモル Tadmor

 パルミラはシリアを代表するローマ帝国の遺跡都市でシリア中央部,シリア砂漠の中のオアシスにあり,ユーフラテス川の南西120km,地中海沿岸のフェニキアとメソポタミア・ペルシアを結ぶ東西交易路の中継点としてきわめて重要な隊商都市であった.
 旧約聖書の列王記などに古代イスラエルの国王ソロモンが荒れ野に「タドモル ないしTamar(アラム語やヘブライ語のナツメヤシのこと)」の街を築いたと記されている.紀元前2000年にはその名が粘土板に認められ,その後もアラム語でタドモルと呼ばれ,セレウコス朝が前323年にアケメネス朝ペルシアからシリアを奪って後もパルミラは自治独立を維持し,前3世紀頃から多数の地下墓地が建設され,紀元前1世紀頃から交易の関税により潤っていった.
 紀元1世紀前半のティベリウス帝時代にローマ帝国のシリア属州の一部となったものの,106年にペトラを都とするナバテア王国がローマに征服されるとその通商権を引き継ぎ,さらに129年ハドリアヌス帝行幸の際にその魅力から自由都市の資格を与えられたため,シルクロードの中継都市国家として大いに繁栄した.アラブ人の市民は東のペルシア(パルティア)式と西のギリシャ・ローマ式の習慣や服装,建築を同時に受容した.
 その後の軍人皇帝時代,ササーン朝の侵攻によりパルミラの長官がシリア属州総督となりパルミラはローマから半独立状態にあったが,長官が暗殺されると,その妻のゼノビアが実権を握りアラビア属州の州都ボスラを征服しパルミラ王国を建てエジプトの一部も支配したが僅か十数年,ローマの反撃に遭い273年にパルミラは陥落し廃墟となり衰退,ディオクレティアヌス帝の時代ローマ軍団の基地として城壁が造られたが,1089年の大地震で被害を受けた後は完全に放棄された.

 パルミラ遺跡はベル神殿,円形劇場,モザイクやカラフルな大理石の残る公共浴場,列柱道路と四面門などから成る.
 ベル神殿Temple of Belはパルミラ遺跡の最も重要な建物である.パルミラとバビロンの最高神ベル(セム語でバールBa'al)と,太陽神Yarhibolヤルヒボール・月の神Aglibolアグリボールの三位一体を祀るため,紀元32年に建設された東西210m・南北205mと広大な建物で,随所に花や蔓などの動植物の繊細な彫刻が施されている.


上・ベル神殿の入場口からのパノラマ(合成写真) 左奥が本殿,その手前が犠牲祭壇,右手が正面の外壁
下・敷地中程から見返った正面外壁方面     ←は犠牲祭壇の屠所  ↓が入場口 ↑は生贄の牛・山羊・羊の通路


左・犠牲祭壇alterで神に捧げられた美しい乙女の首を切るガイドさんの演技
 流された血が真下の十字の穴を落ちて地下水路を外壁のほうに下っていった由.パルミラではメソポタミア由来の春秋の雨季の始まりと収穫を祝う儀式がこの神殿で催された.生贄は家畜らしい
右上・神殿の向かって右横に立てられたレリーフ群(もともと本殿cellaの装飾)の一枚目の表
 左から頭部が失われた立像二体~椰子の木~台上にざくろなどの実が置かれ,その右に立つのが太陽神(足のみ残る)と月の神(光輪の下部に弧に沿った三日月が描かれている),その間に「鷲」の姿で描かれているのがベル神である.観光客が下にもぐっているのは,底にもレリーフがあってそれを見るため
右下・二枚目の表 ベールで顔を隠した女性たちを伴って駱駝に乗っているのは祭事にやってきたベル神であるという説明もあったが,パネルの解説によると選ばれた守り人が神の宿った聖石を運んでいるのだという.これはアラム人やアラブ人がタドモル(パルミラ)へ移住したことを示している可能性もあるとのこと.
 下方に繰り返されている図柄は男性・女性器を象徴するらしい.最下段には葡萄の蔓と房の模様が美しく彫られている.


左上・本殿の正面 左下・本殿の背面 右・本殿の背面の外柱の列を見上げる 柱頭部は風化し削げ落ちているようだ


本殿の右手の側面 縦筋の入った円柱で柱頭部は渦巻のイオニア式か 脇の柱は角柱で柱頭の様式は異なる
壁の継ぎ合わせには真鍮の筋が入っているとのこと


本殿の右手の南の壁龕祭壇thalamos 上記の写真の内側に当たる こちら側の柱頭部はコリント式のようだ
 ここの左の壁に残るのはパルミラ文字(アラム文字を手直しした独自の文字)か


北の壁の壁龕祭壇 ベル神は惑星と星座を治めていると信じられていたので,この天井には創建時にレリーフ装飾と漆喰に彩色で宇宙が描かれたというが,距離が遠いのと煤が付いて黒くなっているのでよくわからなかった


神殿前からみた記念門と列柱 記念門の先,列柱は神殿から見て(北)北西へと伸びる.左手にメソポタミアの知恵の神を祀るナボ神殿の跡,続いて右に大浴場,さらに左に円形劇場があり,その保存状態はよいというが,今回は閉まっていて中には入らず.ギリシャ悲劇などが演じられ,旅人の娯楽であったという.


記念門 遺跡の東の入口で,神殿から正面に見えるように向かって右袖の小門は前後に二重構造でその間の横の通路にもアーチがあり,前構造のほうが手前に出ていて全体で三角形の複雑な造りとなっている.


微妙なバランスで崩落を免れている記念門の中央アーチをくぐる


早朝の太陽で逆光に映える記念門と列柱 


列柱の梁には樋があったが,その名残を残す獅子像の彫られた穴


ディオクレティアヌスの大浴場付近 列柱にはイタリアはカラーラ産の大理石が使われているが,左の円柱は花崗岩.二番目にあたる写真左端の柱は複製ではなくアスワンから運ばれたオリジナルらしい


四面門Tetrapylonとアラブ城 右手前の台座にのみ立像が残る 夕陽を浴びて赤く染まった四面門はことのほか美しいという 四面門より先の葬祭殿・スタンダード神殿・ディオクレティアヌス城砦には行かなかった.


左・記念門の内側の装飾彫刻 右上・柱頭のコリント式装飾 右下・柱の桁の装飾
 解説ではこの上にレバノン杉の屋根が乗っていたと聞いたように思ったが,彫像が飾られていたという.