泰西古典絵画紀行

オランダ絵画・古地図・天文学史の記事,旅行記等を紹介します.
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「レンブラント 光の探求/闇の誘惑」展 版画と絵画 天才が極めた明暗表現

2011-03-27 20:26:26 | 古典絵画関連の美術展メモ


 内覧会が中止となって,2週間振りに公開されたため,心待ちにしていたファンが集って,かなり込み合っていた.列に並んだり,空いたところに入りながら約2時間ほどで見て回ったが,各セクションの冒頭ではかなりの行列が出来ているので,数点は見られずじまいである.内覧会でオランダ大使が「版画の展覧会では虫眼鏡を使って細部をみる」ことをお勧めになっておられたが,たとえ比喩としてもそれを可能にするには前回のデューラー展くらいのすき具合でないと辛いところだ.

 展示は油彩画は1階の前半に5点(別に工房作1点,西美所蔵のオランダ絵画から2点参考出品あり),地階に7点と予想以上に多く,素描が3点(1点は帰属作品),版画は100点(同一版画の複数ステートが23点あるので画題としては77点,銅版原版が2点,別に他の画家による版画の展示が冒頭に9点あり)で,展示点数は多いが版画が主なのでボリュームとしては標準的だろう.もし注文を付けさせていただけるのなら,同一画題の作品はできることならもっと隣接していただければ,比較観察・鑑賞がしやすくなるのだが.
 展覧会の位置づけとしては,過去に国内で開催されたレンブラント展の殆ど*は,弟子や師の油彩画作品群とレンブラント(以下,巨匠)の版画群とともに巨匠の油彩画10点足らずが展示されたり,純然たる版画展として企画されたものが多かった.それに対し,今回の切り口は巨匠がキアロスクーロという画面の明暗をいかに探求して行ったかを明らかにするというものらしい.明暗=白と黒とすれば版画が主体となり,そこで巨匠が切磋した版の進化,用いた紙の選択を通して,彼の希求した光と闇が展覧される.特に紙については仕上りの点からも日蘭交流の観点からも和紙に力点が置かれている.

 シュテーデル展がフェルメール一色でPRされてしまうのは心が痛むが,やはり事業としての成功のためにはパンダが必要らしく,この展覧会では油彩画の「ミネルヴァ」や「ヘンドリッキェの肖像」がそれにあたるかもしれない.前者は1635年アムステルダム時代初期の野心的な大作の傑作である.かつてブリヂストン美術館に寄託されていたものだが,いまは米国に渡っており,当時のマッチしていたチロル風のオランダ額とは額が替わってしまっていた.後者はルーブルからで巨匠の愛が感じられる美しい作品で1650年代前半の顔の端正な造形と荒い衣装の仕上げの対照が味わえる.

 このほかの油彩画では,1620年代後半の「アトリエの画家」は予想以上に小品だが,このモチーフとして語るべきことが多い作品で,これは個人的にも初めて見る機会を得た.また最近真筆とされた作品が多く来日しており,すべて過去に一度ならずとも見てはいるのだが,ボイマンスの「トビトとアンナ」のほか,ニューヨークの個人蔵とされる「陰のかかる自画像」「白い帽子の女」などが公開されている.

 展示は四部構成,黒い版画(黒の階調表現)・和紙の使用・キアロスクーロと第4セクションは「三本の十字架」「この人を見よ」の名作2点の製作過程の展示で,図録ではセクション別に編年で通し番号が振られているようだが,実際の展示は必ずしも図録番号順でなく,その中にちりばめられた絵画は,逆にまとまって展示されていたりするので,作品一覧のリーフレットは展示順に改変されていたほうが,作品を追いにくいといったデメリットはなくなるのではないかと思う.また,油彩画や素描はそのような記載があると見つけやすいので親切だろう.また版画のほうは比較するのにステートの記載が欲しい.

 今回も個別にメモを取ってきたので,すべて詳述しても良いのだが,版画の展示を俯瞰した感想を要約すると,
(1)今回の展示では,たとえば,繊細な線から力強い線までが効果的に用いられ豊かな階調が表現されているNo.42「ヤン・シックスの肖像」はとくに表情の繊細さや剣の柄などの質感など絶品(案の定,図録にも拡大写真があるが写真の解像度がやや低く細部がにじんでいるのが残念.これは東京展のみで展示されるとのこと.これだけでも一見の価値は確かにある),このほかNo.17「金を量る人」,No.49・50「病を癒すキリスト」,No.89「善きサマリア人」,No.95「ハガルの追放」,No.96「手すりにもたれる自画像」,No.101「小屋の見える風景」,強いキアロスクーロのNo.15「羊飼いへのお告げ」,No.32「神殿奉献」などに感銘を覚えた.
No.42
 オランダ・バロック館としてもレンブラントの銅版画を蒐集し始めており,現在,聖書のモチーフのライフタイムプリント**を数点ではあるが所蔵している.研究機関では無いし予算も限られるので,技法の変遷を追うことを目的とするよりも,魅力を感じる作品に限定して蒐集すべきであると感じた.
(2)ステートの違いは「キリストの埋葬」No59と60,第4セクションの二作品などによく表れている.刷りの差は紙の差かもしれないがNo.61・62の黒さの違いは驚くべきである.銅版画を実際に製作したことがある人ならばご存知であろうが,インクの拭き残しも関係するし[plate tone:拭き残しを意図的に利用して仕上がりを調整する技法]圧着の強さも影響するであろうし,誰の手によったかは別にしても当時ウォッシュ・レタッチが施されるケースもあったのも確かである.
 制作技法についても,巨匠に特徴的なドライポイントによる加筆仕上げは後期に多用されるようになったこと,さらに,レンブラントは1648年の「病を癒すキリスト」以降,おもに50年代の初め頃[要確認]からプレート・トーンを直接的に活用するようになったらしい.
(3)巨匠は和紙を1647年から1650年代に使用したとのこと.和紙を使用した版では,希少性から高級感もあり,インクののりもよく,やや褐色がかった柔らかな階調で仕上がりにも優れる.とくにハイライト地の色調がくすんだ銀塩の板写真のような光沢を持つと感じた.一般の洋紙では紙がかさついた感じが残る.それをきらってか第4セクションの二作品にはヴェラム(いわゆる羊皮紙)も使われていたようだ.ただ,ヴェラムは硬いらしく,ドライポイントのまくれによるにじみburrの線を保つためにも,より柔らかい和紙を選択するようになったらしい.

* 異論もあろうが,京都の大レンブラント展は巨匠作品が圧倒的に多かった.
**レンブラントの存命中に,恐らく巨匠の監督下で刷られたと考えられる作品.これに対し没後刷りがある.

 今回の展覧会では,殆どがライフタイムプリントであろうと思うが,アナウンスされているようにNo.71-76は没後刷りであることに留意されたい.B194"Het rolwagentje"は赤子の歩行練習とデッサン修練を掛けたモティーフで工房で用いられたらしいが,第2ステートであるNo.74については製作時期について図録の記載がやや不明確なこともあり,E.Hinterding,"Rembrandt Etchings from the Frits Lugt Collection",2008で確認した.No.73のように和紙を使用した第1ステートの例においても版は損なわれており,すでにそれ自体が巨匠の刷りではないと考えられていること,さらに第2ステート以降は巨匠以外の手による修復や陰付けが認められ,紙の透かしの分析も併せると,これらは17世紀末から18世紀に刷られたものであるとのことだった.
 
それ以外の没後刷りの可能性がある作品は少ない.B277「ヤン・アッセリンの肖像」では,No.39のBM所蔵の和紙版第1ステートは素晴らしく,背景のカンバスが消し去られたNo.41の第2ステートも捨てがたい.Hinterding博士によれば第2ステートへは1668年以前に改版されていたことは確実であるが,巨匠による変更かどうかは未解決らしく,余人の手による可能性があるという.図録ではその「可能性が高いと思われる」と書かれていた.さらに,右側のイーゼルの端も取除かれた第3ステートが没後刷りであるのは確からしい.
 また,同博士の業績によって,B270「書斎の学者(ファウスト)」のNo.53のほうは第2ステートだが,ここでは元々のドライポイントによる部分をわざわざエングレーヴィングの細い線で修正している点で,巨匠の手ではない後刷りと解釈されるようになった.
 これらの同定作業は日進月歩の研究課題でもあり,”Rembrandt as an Etcher”('06)や上記('08)以来,Hinterding博士のさらなる新しいレゾネの出版が待たれる.ちなみに美術史学会主催のシンポジウムを楽しみにしていたのだが,流れてしまった.とくに今回の展覧会では紙の話題が取り上げられているにも変わらず,透かしの研究についてはすでに定説であるということだろうが,あまり語られていないのは残念だった.

 第三者の手が入った後刷りが18世紀以降も巨匠の作品として流布し続けている現実がある.たとえば,「窓辺で描く自画像」B.22はNo.44とNo.75として展示されているが,後者のような没後刷り作品だけを見ると下膨れのぱっとしない自画像だと感じてしまうが,ライフタイムの前者を見れば,よりコントラストが高く,かつ右目の眼力を感じる立派な作品であることが分かる.これはある意味,恐ろしいことだ.

No.75と44 このサイズのデジタル画像では良し悪しが分からないのが残念
 いわゆるベイリー版というものがあって,「病を癒すキリスト」についてもNo.76のそれでは18世紀末のベイリー大佐による"修復"改変によって,類型的な線描表現のために人々の表情・感情表現は直截的かつ浅薄になっている.この版を100枚刷った後に,ベイリーは銅版自体を分割してしまった.


シュテーデル美術館展(5)

2011-03-24 19:54:12 | 古典絵画関連の美術展メモ

 17世紀オランダ風景画を論じる際にバイブルとなるのは1966年に刊行されたW.Stechowの"Dutch Landscape Painting of the 17th century"であろう.ここでは,(1)オランダ風景として,田舎の風景(砂丘や田舎道・パノラマ・河川や運河・森)・冬景色・浜辺・海景・都市景観),(2)他国の風景として,想像上の風景・チロルやスカンジナヴィア・イタリア風景,(3)夜景 に分類されている.
 過去の展覧会として重要なのは1987年にボストンやアムステルダムなどで開催された"Masters of the 17th-Century Dutch Landscape Painting"でSuttonが監修しており,対象としては上記から海景と都市景観画を外している.日本では,1992年に小林頼子先生が監修された17世紀オランダ風景画展がその嚆矢である.その中でEdwin Buijsenは,I.空想の風景画(1530-1640),II.初期写実主義の風景画(1600-25),III.単色主義の風景画(1625-50),IV.壮麗なmonumental古典としてのclassical風景画,V.親イタリア派の風景画(1620-80),VI.理想化された風景画(1680-1750)と分類している[訳語表記は筆者が一部改変].その油彩画の展示総数は66点であった.今回の風景画の展示数は38点で,教会内部画や海景画,あるいは18世紀の作品2点が含まれているとしても,それに次ぐほどの内容である.

 まず,BuijenのI~IIIにあたる作品を展示順を変更して観てみよう.なお,歴史的に定まったタイトルがある有名作品を除いては,静物画や風景画の題名は厳密さにあまりこだわる必要はなかろう.

地誌と風景画(1)  
小品4展の展示 一部画像なし

49

52
・メッヘレンのピーテル・ステーフェンスという馴染みのない画家の1614年作「修道院のある森の風景」は 紙のトランプ・カードの裏に油彩で描かれていることが珍しい.一見殺風景だが,よくみると右下に修道士の半身,中央上に礼拝堂と修道士が見えてくる.

 これ以外の3点は15x25cmほどの銅版に描かれた小品で,あるいは家具に嵌め込まれるキャビネット画として使用されていたのかもしれない.

(49)ヒリス・ファン・コーニンクスローの周辺画家「狩人のいる森の風景」1600年頃
 細密さ・コントラスト・構図の面白さのあらゆる点で52より魅力的で,図録によれば,ヤンI世にしては葉や樹皮の仕上げが甘く,コーニンクスローの樹皮のハイライトや葉の表現,優れたやわらかい配色に近いとのこと.この時代のフランドル派の風景画家の同定は必ずしも容易ではない.

△(52)ヤンII世の追随者「エジプト逃避のある森の風景」1620/50年頃
 49とは葉の描き方が少し違い,やや装飾風図式的である.ともに森の風景を近い位置から観察し,色彩遠近法を用いて表現したかなり質の高い作品だが,視点は49が高いのに対して52は低く,それによって52のほうが制作年代は下っていることが窺える.ただし,52の年代推定には30年の幅を持たせてあるように確定は困難だろう.

ヤンI世の「森の外れの風景」1605/10年頃はヤンとしては構図がやや寂しいかもしれないが,標準的な作品.



ルーカス・ファン・ファルケンボルフ「乳絞りのいる森の風景」1573年

 緑にあふれた画面で,村人の衣服の赤がアクセントとなった細密で美しい作品である.前景の村人のモティーフは恋の戯れとのこと.フランドル派の風景画は一方ではやや厚塗りの色付けもあるが,ルーカスの関心は細部にあり,ここでは葉一枚一枚を点描する凄い技法を用いている.

同「スヘルデ川の彼方に見るアントワープの冬景色」1593年

  ファルケンボルフの地名はマーストリヒト近郊に残るがルーヴェン出身で,1535年頃の生まれと考えられ,アントワープ時代にオーストリア大公に仕え,その後,同国内を移動したが,この作品の年にフランクフルトに定住し数年後に死去した.したがって,この風景は過去のスケッチを用いて再現されたものと考えられる.先の作品と比較すると,20年の時間を経て,さらに薄くさらさら塗り上げていく様式に変化しているようだ.
 このような冬のモティーフは,高い視点から俯瞰したピーテル・ブリューゲルの世界風景の名残があるが,その後,冬景色として一つのジャンルとして定着するようになる.氷の上での遊びはブリューゲルの作品にも表されているように「人の命の不確かさ」を示しているという.


ルーカスは「バベルの塔」もよく製作した.これは1594年のルーブル所蔵品.

 画像なし ヤーコプ・サーフェラィ(サーフェリー)「村の風景・秋」 1600年頃 画面はウェットな印象だが緻密に描かれたフランドル派の流れを汲む風景で,町並みも師のハンス・ボルの作風だが,牛は明らかに弟のルーラントの作風に影響している.個人的にはルーラントより好きかな.

 展示する壁の都合もあったのだろうが,流れから言えば次はホイエンであるべきだ.
53



55



56



54 

ヤン・ファン・ホイエンの田舎道を描いた風景画群4点

 1628-9年という近接した時期の,そして35x60cmほどの同サイズのホイエン作品が4点も展示されるというのは,勿論国内初めてであり,欧米の主要美術館でもそうあることではない.作風が近似していて,続けて見てしまうと「おんなじ~」で終わってしまいそうである.シュテーデルがどういう意図でこれらを貸し出されたのか,自分がキュレーターならどういうセールスポイントで展示しようとするか,考えさせられてしまった.
 すべての作品で水平線は画面の比較的低い位置にあり空が占める割合が大きい.ということは視点が低く,人々の営みに近づくと共に,さささっと仕上げられる空の占める部分が広く,結局沢山描き上げられるということになる.それが1630年前後以降のホイエン作品の第一の特徴で,事実,ホイエンは多作の画家であった.

 53や55の構図は木の頂点から対角線の構図で,前景の影が暗い三角形になっていてその向こうを浮かび上がらせる引立て役(ルプソワールRepoussoirは打ち出しの意.一般的には55の木のように画面の左か右端に用いる)の効果があり,こういった構図は二重対角線と呼ばれる.色調は53が比較的青みが強く55は黄味が強い.前者は修復が完了しているのに対して,後者はニスがまだ強く残っていることも関係するが,画像処理をしてみても同じ年の製作でこれだけ違う.青い空に雲が広がるので天候の差はさほどないとすれば,時刻が異なるのだろう.よくみると55では家々の煙突から煙が上がっているので,夕餉の支度の時間のようだ.日が傾いたことは木々などの影の長さでも分かる.木の葉を良く見ると,葉一枚一枚の描き方は笹の葉型に近く筆を斜めにぽんぽんと置いているようで共通しているが,.53の木では枝葉の広がりが狭いのに対し55では丸く広がっており,53の幹はくねくねしているが55では比較的直線的なことから,木の種類が違うようだ.立ち止まって語らう人々や馬車が行き交うモチーフは共通,ただし,55の家には旗のように看板がかかっているので,宿屋らしく,より賑やかだ.

 56も完全な対角線ではないが,画面の半分で対角線となっていて,低地帯のオランダでありふれた光景である砂の丘に小さな木と旅人が描かれている.このような木は風で倒されないように[要確認]背丈ほどで切られ刈り込まれる習慣があり,オランダ風景画には(例えば,ブリューゲルの冬景色にも葉が落ちた状態で)よく登場する.左前景は引立て役,その遠方には小さく都市が描かれている.砂丘の中には黒チョークの大雑把な下書きがくねくねと透けて見えており,彼の作品には良くあることだ.残念ながら,暗い色の雲は擦れて色落ちしてしまっている.

 54はStechowの著作に図版入りで紹介されていて(p.27 fig.26),研究者にとってはこれらの中で最も有名な作品だ.「エサイアス・ファン・デ・フェルデの名残はあるが色のニュアンスなどは抑えられ,道は奥に抜けるが基本的な構図はまだ左右が主張している」(三軒の家の屋根を結ぶ対角線の構図は,他の三作とは違って右の木で崩されている).しかしながら,ここで描かれている村人の営みは普遍で,遠景に映るにつれて,色彩遠近法のバリエーションとして灰色がかって彩度を落としているのが見て取れる.

 これらの作品は本来は屋敷の壁に左右対称に擬似的な対作品として飾られただろうが,54と56以外,額もやや異なっているし....ここでは,見比べやすくするように田形に集めて展示するのが最も良いかもしれない.


(図録の写真は青過ぎ)
ヤン・ファン・ホイエン「ハールレムの海」1656年

 これは前作群から25年以上経過したホイエン没年の海景画で,この作品もStechowの著作に図版入りで紹介されている(p.114 fig.225).ホイエンの海景画は100枚ほどもあり,1655年に急にその製作数は増えたという.荒れた海もあれば凪いだ海もあるが,晩年になるにつれ,後者が増えていった.本作は「ホイエンの晩年の円熟様式を最も雄弁に物語る傑作」であるとしている.
 この作品は薄く描かれているので結構擦れており,空の殆どは補彩と黄変したニスの残りで覆われていて,鑑賞の妨げになるのが残念.水平の構図で単色調の時代に準じているが,とくに左下の漁師の服の赤褐色などは眼に留まって鮮やかである.風車が遠景に描かれている.筆致を別にすれば19世紀ハーグ派による灰白色の「オランダの光」ないしメスダッハ(メスダフ)の「日没の穏やかな海の漁船」を思い出してしまった.

 やや荒れた海の例は西美の「マース河口」1644年という佳作がある.


 ヤン・ファン・ホイエンは,今日,最も有名なオランダ風景画家の一人で,1617年頃に1年間ハールレムで6才年上のエサイアス・ファン・デ・フェルデのもとで学び,その後の方向に大きな影響を受けた.その後1632年に首都ハーグに移り,1640年頃には同地の聖ルカ画家組合の組合長を務め,油彩1200点以上,素描800点以上を制作するが,当時の売却単価は比較的低かった.ホイエンは富と名声を求めた野心家であったが,チューリップ相場などの失敗で多額の負債を残している.
 ヤン・ファン・ホイエンの初期(1620-26年)の作品(署名は:I.V.GOIEN )は明らかにエサイアス・ファン・デ・フェルデの影響を示し,一部はフランドルの伝統による円形画面の対作品として仕上げられているが,それ以外はかなり横長の画面に村や海岸の情景を描き,ファン・デ・フェルデと違って襲撃や戦闘の場面は描いていない.多くの人々を登場させ,高い木を配して構図を分割し,近景から遠景への奥行きを感じさせる.その後(1628年から署名は通常VG),ハーレムのピーテル・デ・モレイン,サロモン・ファン・ライスダールらとともにオランダの風物をより自然に近い色彩で描く単色調の写実的風景画を目指すようになった.1630年代を通じては褐色と緑色調で砂地や河を表現し,対角線で奥行きを持たせる構図,30年代末から調和と統一のとれた作品を描き始め,微妙に変化を与えた銀灰色の色調が優位となるが,1640年代には簡素な黄金色を帯びた褐色調となり,河に描かれた帆船は背景から前景へと位置を移し,河岸は隅の方へ後退してくる.この頃から対角線の構図から水平の構図も取り入れるようになり(特に遠景),空を覆う雲は陰の効果で光の対比を生む.描かれた都市には記念碑的な建物がしばしば登場している.40年代後半には単調な褐色が支配し,1650年代には再びより自然な色彩に戻り,とくに海景画が傑出して行く.

 これらの作風の変遷が分かるような展示,あるいは師やライバルらの作品の展示がもっとあればよかったとは思うが.
サロモン・ファン・ライスダール「渡し舟のある川の風景」1664年

 サロモン・ファン・ライスダールは,1623年にハーレムの画家組合に入会し生涯その地に居を構え,初期にはエサイアス・ファン・デ・フェルデ,次いでピーテル・デ・モレインの影響を受け,1630年代にはヤン・ファン・ホイエンとともに単色調の河の風景という独自の画風を確立する.この頃の様式はホイエンと区別しがたいが,微妙な緑,黄,灰色を寒色調に用いながらより細かい筆致で描いている.ホイエンらと異なり,サロモンは素描を残さず,直接油彩の[要確認]デッサンの上に作品を仕上げていったらしい.二重対角線の構図で描かれた渡し船や漁夫のいる河辺の風景が典型的である.1640年代には甥のヤーコプ・ファン・ライスダールの影響からか上下の構図が強調され,色調が鮮やかさを増してくる.マックス・フリードレンデルがいみじくも述べたように,ホイエンが嵐の前の風景とすればサロモンは雨上がりの新鮮な風と大気を感じさせる,といわれる所以である.

 1660年代のサロモンの作品は1640年代のモティーフの描き直しが比較的多いが,より線は荒めにコントラストは強めになっているようだ.ここに展示されている作品も標準的な良品である.
画像なし  ヘルマン・サフトレーヴェンIII世「河の風景」1650年 薄く塗られた顔料が磨耗しオークの板の木目が出てきているしニスもくすんでいるようだ.コンディションが悪いので,この画家本来の美しさが損なわれている.サフトレーヴェンは,おもにユトレヒトで活躍した親イタリア派の風景画家で,1640年代にはヤン・ボトと比肩するような大画面の作品も製作していたが,そこで用いた葉の細かい仕上げに見られるようなオランダ絵画特有の細密さで,1650年代以降はフランドルの風景画の研究とドイツ旅行を通じて,ライン川などを高い視点から見た世界風景として,本作のような小画面に仕上げる技法を生み出した.

・ヨハネス・ スフッフ「夕暮れの川の風景」1648年頃 並品.ホイエンの影響を受けた多くの画家の一人としての展示か.近景のホイエン風,遠景のサフトレーヴェン風(河岸の平地もそうだが,山の形が62とそっくりだ)の仕上げが読み取れる.



(図録の写真は青過ぎ)

 


アールベルト・カイプ「運河の風景」1641年頃 

 アールベルト・カイプは肖像・風景画家ヤーコプ・ヘリッツゾーン・カイプの息子で,ドルトレヒトで多様なジャンルの絵画を残したが,オランダ風景画の題材にイタリア風の光の効果を導入した風景画家として18世紀英国において高い評価を得,オランダ風景画の巨匠の一人とみなされている.画風が写実主義から親イタリア派に転換してゆく好例なので,先に取り上げた.
 カイプの初期(1639- 1645年頃)の作品には,ヨース・ド・モンペルII世, ヘルキュレス・セーヘルス,やエサイアス・ファン・デ・フェルデらへの関心が認められるが,次第にホイエンやサフトレーヴェンらの影響を受け「ホイエン様式」,その中においてもカイプは常に強く明るい光のコントラストを追い求めている.本作品もホイエンより明るい画面だが,空の青を除けば,ねっとりした細密なクリーム色と褐色のエスキースのような単色調である.余談ながら集う村人の一人の横顔の鼻が大きいのも特徴であろう.

同 「羊の群れのいる風景」1645/55年

 カイプは1645年頃から親イタリア派風景画家であるヤン・ボトの強い影響を受け初期「逆光」様式を導入し,明るい黄緑色のアクセント(今回展示されているホイエンの1629年頃の作品を見ているとこの色もそこに原点があったのではないかと思えてしまう)で草を表現したり,点景として現れる羊飼いや家畜たちは次第にクローズアップされてくる.その後,「黄金の雰囲気」をたたえた円熟期の作品を完成してゆく.
 本作はその移行期の作品で,1645年よりはかなり後であろう.間近で見るとボテッとした粗大さを感じるが,独特のクリーム色と淡褐色で描かれた町の遠景や,白変してしまったグレーズが近景に見出され,前作共々画面右端の最高点が中央レベルにとどめられる構図や,大気を表す雲の卓越した表現と相まって,すべてがカイプのオリジナルの特徴である.また,本作のような50x75cmの板の支持材はこの頃のカイプによく認められる.
 この作品もStechowの著作に図版入りで紹介されており(p.40 fig.68),両端の前~中景に縁取られた新しい様式のパノラマ風景画の嚆矢として論じられている.
アールト・ファン・デル・ネール「夜の運河の風景」1645/50年

 ネールはアムステルダムの風景画家で夜景画の第一人者.本作は典型的な佳作である.消失点が水平線の中央右寄り,月明かりの光源近くに位置している.両側の立ち木による額縁効果で構図が引き締まって見える.

「月明かりの船のある川の風景」1660/70年は,約20年を経て,月光を受けた雲の雰囲気は相変わらず良かったが,構図には単調さを感じた.これは前作が広角レンズでみた構図であるのに対し,こちらは望遠レンズで中央を切り取ったような設定となっていることによる.
 この作品では月を船の帆に隠しているが,このように光源を隠す技法は,例えば1628/9年のレンブラントの作品のように,風俗画や歴史画での蝋燭の光源の処理に際して,他のジャンルではしばしば行われていた.

シュテーデル美術館展(4)

2011-03-21 19:19:46 | 古典絵画関連の美術展メモ

 図録では,次が風景画だが展示総数が38点と多く,静物画を先行前置させているが,これも充実している.静物画には,花卉画(一部に昆虫),食卓画として果物・魚介・肉類や食器(銀器・ガラス器・陶磁器など),game painting(狩の獲物)などがある.多くの場合,ヴァニタスVanitas(生の儚さ・快楽の空しさの象徴)の意味を持つが,とくに,髑髏(Memento mori:死を想えの象徴)・蝋燭やパイプ・時計・貝殻やシャボン玉・楽器・花や果物(とくにしおれたり腐りかけたり)などはそれを暗示し,この一部を集めて仕上げた静物画も多い.

 ここでは花卉画が3点,食卓画7点,獲物画2点,これらの作風の違いが分かるだろうか.キーワードは,構図・色彩・コントラスト・緻密さであろう.

  ヤン・ブリューゲルI世の工房「ガラス花瓶の花」1610/25年

 意外と小品で,銅版に描かれている.初期の花卉画の典型.各種の花は同時には咲かないので,画面上にレイアウトした虚構である.繊細な描き方がヤンのようだが,工房作とされることについては,花の配置やモデリング,花と花との隙間の埋め方に弱さが残るためかもしれない.
アブラハム・ミフノン(またはアーブラハム・ミニョン)「果物とワイングラス」1663/4年頃

 ミフノンはカルヴァン主義の家に生まれたため移住したフランクフルトで洗礼を受けたが,ユトレヒトでヤン・デ・ヘームに三角形に配された構図やライティングを学び,師がアントワープに移住する際に工房を受け継いだ由.より賑やかで緻密な画風はヘームを超え当代随一と考えられた.
 本作も小品だが水準以上の精緻さで,彼の食卓画のお約束どおり,昆虫が配されている.それによって果物は傷んでいくという教訓を暗示しているともいう.

 別の壁にある「死んだ家禽のある静物」1663/4年頃 もやはり精緻だがコントラストは低い.
 画像無し  ピーテル・デ・リング「果物とベルクマイヤー杯のある静物」1658年頃

 ヤン・デ・ヘームに学んだライデンの画家で,本作は前掲のミニョンよりコントラストが高いので見栄えがするが,精緻さには欠ける.
ハルメン・ルーディング「苺を盛った陶器皿とレーマー杯のある静物」1665年

 ライデンの画家だが,よく知らない.デ・リングの前掲作よりもさらにコントラストは高いが,精緻さも兼ね備えていてうまい.蔦と苺はこんなものかな.
 後述のヤン・デ・ヘームの作品同様,皮を剥きかけのレモンが登場しているが,これは見た目と違って味はすっぱいという暗喩をもつ.
 

 コルネリス・デ・ヘーム「庭に置かれた野菜と果物」1658年

 コルネリスはヤンの次男で,父と同様,アントワープで画家としてひとり立ちし,36歳でユトレヒト,45歳でハーグに移住した後にアントワープで没した.これらはアントワープ時代の作品.
 これも父譲りの対角線で縁取られた三角形の構図で,色彩が豊かであることが,コルネリスの擬古典主義的な特徴となってゆくらしい.この作品などは残念ながら父には及ばず,悪く言えば生硬で形式的か.

画像無し  コルネリス・デ・ヘーム「二羽の雀がいる豪奢な静物」1657年

 前掲作とは近い年代で明るさの差が目立つのは,屋内外の設定の差か?黄変したニスが残るために色調に差が出ている可能性もあろう.前掲作と静物の質感や出来に大きな違いはないが,こちろのほうが雰囲気があり,作品的にも面白い.熟した果物や交尾する雀で暗示する快楽は,鏡に映されることで道徳的警告を与えているそうだ.図録によれば,鏡が視覚,縦笛が聴覚,花が嗅覚,果物が味覚,雀の交尾が触覚を表しているとのこと.
画像無し   ヤーコプ・ファン・エス「調理台の魚」1635/40年

 輪郭線が太く好きな描き方ではない.87X219cmと極端に横長の画面は目線の低さとともに,食堂の暖炉の上などに飾られていたものと思わせる.図録でも,魚卸組合の公館用の注文か,「断食の際に好まれた魚の描写」から修道院の台所か食堂に飾られていた可能性を指摘している.
ヤン・デ・ヘーム「果物・パイ・杯のある静物」1651年

  ヤン・デ・ヘームは父がアントワープ出身で,自身はユトレヒトでレンブラントと同年に生まれ,花卉画は同地でアンブロシウス・ボスハールトI世の技法をファン・デル・アストに学び,20代でアントワープに移り,ダニール・セーヘルスの華やかな作風も取り込んで,色彩のグラデーション,明るさと明晰さが磨かれ静物画家として大成した(還暦目前の1665年から17年間ユトレヒトで一時的に工房を構えた後アントワープで没).これはアントワープ時代の作品.
 ヘームはやはりうまい.ただし,左の銀器は類型的で写真では線の硬さが気になっていたが,実物ではそれほどでもなかった.上部が円錐状のベルクマイヤー杯と樽状のレーマー杯が共に登場するが,それらも含めて全体が三角形に近い構成となっている.食べ残したものを描く食卓画においては,ヴァニタスよりは華麗さ,残すという贅沢さが前面に出ている.
 よくあることだが,画布は裏打ちの布に貼られていて,左右の額の縁との間に画布の端が見えていた.
ペトルス・ウィルベーク「ヴァニタス」1650年頃

 銀器の質感はヘームより明らかに上.髑髏の歯も本物のようだ.これは最大の賛辞であろう.ただし,花は今ひとつ.中央の蔦が絡まる長いグラスはみえにくいが,レンブラントの「放蕩息子に扮した自画像」に出てくるものと同じ.
 このアントワープの画家についても知らなかった.

画像無し  ヤン・ウェーニクス「死んだ野兎と鳥のある静物」1681年 ヤン・バプテストの子で貴族趣味の需要に応えて獲物画をよく描いた.銃身の木目に目が留まっただけ.
ヤーコプ・ファン・ワルスカッペレ「石の花瓶の花と果物」1677年

  彼はアムステルダムの花の画家で,柔らかい花弁が美しい.
 画像無し ・ラヘル・ライス「ガラスの花瓶の花」1698年

 史上最高の花の女流画家とされる彼女もアムステルダムの出でファン・アールストに学び18世紀にかけて創作を続けた.本作は17世紀末の作品で,師に似てやや硬めのタッチで華麗な緻密さがあるという.黄変したニスが残っているため.色味が正確ではなくてやや鑑賞の妨げになるが,画面上部の糸トンボに目が留まった.

  アムステルダムの花の画家は遅咲きである.フランドルの静物画のほうがコントラストが高いようだ.

シュテーデル美術館展(3)

2011-03-20 09:56:49 | 古典絵画関連の美術展メモ

 図録のPollmer-Schmidtの風俗画についての序文解説はよくまとまっていて分かりやすい.一読をお勧めする.

風俗画と室内画  
フェルメール「地理学者」1669年

 あえて書くことはあまりない.久しぶりに見て手前に置かれた織物の中の青がやはり鮮やかであるのに気づいた.虚空を見つめる視線は上野で展示されているレンブラントの銅版画「書斎の学者(ファウスト)」を連想させる.

 リアルな質感のホンディウスの地球儀についても解説で述べられているが,「地理学者」の両脇に,その100年後に製作された松浦史料博物館に所蔵されている天球儀・地球儀が特別出品として展示されている.
 これらはファルク父子(父Gerard & 子Leonard Valk)がホンディウスの工房のあった建物に移った年である1700年の年記があり,これは同年に製作された銅版を使用していることを意味するだけだが,天球儀の子午線環に8の刻印があるので比較的初期の製作のようである.球径31.0cm・高さ46.3cmとサイズは比較的大きめで,天球儀はポーランド出身のヘヴェリウスが猟犬・小獅子・蜥蜴座など7星座を追加して1690年出版した星図に基づいている.
 一度是非拝見したかったところで心待ちにしていた.展示品は確かに色彩がよく残っているが,実物は写真よりもややくすんで紙のニスもやや褐色調だった.天球儀は獅子座を手前に向けて展示されることが多いのに対し,星座が地味な春分点のおひつじ座付近を手前にして置かれていたので,不審に思って裏を覗くとかろうじて見えたロブスターのかに座や南天の一部が少し破れているのが分かって納得した.
 地球儀では日本がどう描かれているか実物を観ていただきたい.

 この右手に神戸市立博物館からファルク製の「ヨーロッパ壁掛地図」が展示されていた.壁地図としてはやや小ぶりな107x123cmで,銅版画6枚を継ぎ合わせた紙製で,彩色された上にニスが塗られていたため褐色に変化している.傷んだ継ぎ目には修復があるのかもしれないが,都市の名前を追うには遠目過ぎた.これは4/12までで翌日からは「アジア図」に展示替えされるらしい.写真で見る限りではこちらのほうが状態はよく,これらは1695年頃の製作とのことで5枚で一組だったらしく現存は貴重であろう.

 このほか,地理学者が手に持っているような当時のコンパス(東インド会社の商船で使用されていたものらしい)や,デュサールトの風俗画の楽師にちなんで監修者である木島氏所蔵のハーディガーディが展示されていた.
ヘラルト・テル・ボルフ 「ワイングラスを持つ婦人」1656/7年頃

 テルボルフの代表作の一つで,その雰囲気や白い釉薬のかかかった陶製の水差しや袖口などの質感に彼の秀逸な描写力の片鱗をうかがわせるが,顔のディテールがかなり損なわれている.例えば98年のカッセル国立古典絵画館展で来日していたテルボルフの「楽器を持つ婦人と楽譜を持つ男」(部分)を下記左の画像に示すが,このように本作においても恐らく細部まで描きこんであったと思われる.
 
 05年のワシントン・ナショナルギャラリーでテルボルフの回顧展が開催され,50数点が一堂に会していたが,一言で言えば精緻さが出色で,一瞬の表情を巧みに捉えるところに真骨頂があると思う.残念ながら彼の作品にはコンディションの良いものは極めて少ない.若い頃の作品にも才能の萌芽を認めるが,晩年の作品は細密画家に必要な視力の問題からか技量の衰えが目立つ.美人のモデルは,画家の妹であることが多かったらしい.
 風俗画の読み解きとして,一人でワインを飲む行為と手紙がキーワードであるが,図録に拠れば妹のへジーナは詩人で「ワインは愛の裏切りへの対抗手段」と詠んでいるらしい.あるいは「手紙を送るときの勇気づけ」であるともいう.頭巾とショールは帰宅したところか,あるいはこれから外出することを暗示するものかどうか,机上にあるのが届いた手紙なのか書き上げた手紙なのかでワインの意味も変わってこよう.
 マウリッツハイスにある「手紙を書く婦人」(上記右掲1655年頃)とサイズがほぼ同じで連作または対作品と考える説もあるらしく,その場合,一杯飲んで手紙を出そうということになるのであろう.
  ヘリット・ダウ「夕食の片付け」1655/60年頃

 蝋燭に照らし出された横向きの娘の顔が印象的.ダウはこのように緞帳を引き上げた舞台のような設定をしばしば利用した.また,とくにこの年代にキャンドルライトに浮かび上がる作品もよく描いている.

   「夜の学校」c1660         「天文学者」1650/55
アムステルダム国立美術館       ライデン市立美術館

ピーテル・ヤンセンス・エリンハ「画家や掃除をする召使のいる室内」1665/70年頃

 窓からの入射光が不均一な鉛ガラスを通ったために波打って壁や床に差している.この照り返しが奥の壁に映って椅子の影が浮かんでいる.その上の鎧戸が下りた窓ガラスにも照り返しが不規則に映る.左下には大理石に映る光の反射や座る婦人の足元の反射も描かれている.エリンハはこのように明るく差し込む強い光をよく用い,光の妙にこだわってそれを忠実に再現した. 床の大理石は市松ではなく幾何学的で,中央右よりの鏡に一部が反射しているのも画家の好みであろう.あちこちにかけられた画中画も四角形の幾何学性を重視した意図的なものかもしれない.
 奥の間にいる主人が画家であることは,右手に楕円形のパレットを持っていることから分かるとのことだが,左腕の陰になっていて小さく分かりにくくて見落としてしまうだろう.建物の構造は凸型なのだろうか.また,手前の女中のプロポーションが9等身以上なのもいただけないところではあるが.
 エリンハはブリュージュ生まれだがロッテルダムに移って後,1657年にはアムステルダムでこのような室内画や静物画を描いていた.窓の明かりがもれる暗めの室内の設定で,掃除をする召使が近景に主人二人よりも大きく描かれているが,このような主題はデルフトで活躍していたデ・ホーホ作と見間違えてしまうかもしれない.デ・ホーホは1660年頃アムステルダムに移っているが,彼はこれほどには光にこだわらなかっただろう.これらを虚構と感じるか,構成の醍醐味を味わうかは,観るものの好みであろう.
 エリンハは寡作であり,Franitsは自著"Dutch seventeenth-century genre painting"('04)において,エリンハを無視したのか失念したのか,全く記載しておらず,デ・ホーホの追随者としか看做さなかったのかGrove's Dictionary of Art('96)においても同様であるのは驚くべきことである.

  ディルク・ファン・バビューレン「歌う若い男」1622年

 バビューレンはユトレヒトのカラヴァジェスキの一人だが,もっとも奔放な画風で下層階級をモティーフにしたことが特徴的である.闇に浮かび上がる上半身の表現はその様式.風俗画に含めるのは広義の意味でというところか.
 指の部分を注意してみると,周りを後から塗り埋めていって形を整えている.左肩にかけた青緑の衣とビレッタ帽の白い羽飾りがが全体のバランスを整えている.羽飾りの一部は緑色で,一部は白がwet in wetで塗り重ねられ混ざっている.露出した右肩から胸部の下塗りにもこの色は入っているのだろうか?

バビューレン「リュート弾き」1622年(ユトレヒト中央美術館蔵) 対作品とされる.
アドリアーン・ブラウエル「苦い飲み物」1636/8年

 これは,ハールレムのハルスのもとで修業した後,アントワープで活動し30歳過ぎで早世にしたブラウエルの代表作.おそらく苦い薬を飲んだ一瞬の表情を表現したもので,一部の画家はこのような感情表現を「表情」を写すことで試みており,そのような習作はレンブラントが1630年頃に銅版画でさかんに製作し,一歩先行していたようだ.

 ブラウエルの作品は,このほかに「足の手術」「背中の手術」1636年頃 同じ老婆が登場しているが施術師の床屋は別人で,画家の関心は感情のほとばしりを表現することに集約しており,その意味で後者の痛がって顔をしかめている患者のほうが印象的.「酒を飲む農民」の小品は漫画のようだ.
  アドリアーン・ファン・オスターデ「納屋のされた豚」1643年

 オスターデもハールレムでブラウエルとともにハルスに学んだ.このような開かれた家畜の絵は半世紀前からアールツェンなどのフランドル絵画に登場するが,とくにアドリアーンの弟イサークはこの主題を頻繁に描いており,アムステルダムで1655年にレンブラントもやはり強いキアロスクーロで同題の傑作を描いた.ニワトリや葡萄の蔦は当初から予定されたものかどうか?素描があると分かるが.

 次の作品の「納屋の内部」を観ると人物が描かれていないといかに寂しい絵であるかが分かる.じつは奥と右に小さく農民が描かれているのだが.これで完成作なのか,この後,前景に人物が描かれる予定だったのか,あるいは板目は分かりにくいが半分ほどの断片か.全体の構図からは断片の可能性は低く,署名と年記が入っていることから,やはり完成作と考えるのが妥当であろう.

 この辺りの下層階級を描いた小品群は褐色調に支配されており,作風は荒く画家による差は分かりにくいかもしれないが,フランドル派のブラウエルやテニールスに比べて,ハールレムのオスターデはコントラストが高くてハイライト部はより細かく仕上げている.
ダーフィト・テニールスII世「居酒屋でタバコを吸う男」1659年頃

 喫煙は当時の民衆にとって悪徳とされており,クレイパイプで喫煙する左の男性は口から煙をふーッと吐いているが人相はよくない.背後で立ち小便をする男の帽子は,壁に貼ってある素描の人相書きのそれと同一なので,こちらがお訪ね者か?彼らは右の方に座っている人々とは明らかに隔てられている.
 この作品はブリュッセルの宮廷画家として活躍した頃の作品で,描画もしっかりしていて質は高い.

 これに対し,一つ置いて 「タバコをすう農民達」は1634年頃)の初期の小品で,アントワープにいた1640年代前半までの特徴としては抑えられた配色で薄塗りの技法で,テニールス独特の猫背の小男が描かれている.そして父の作品と区別するために署名TENIERの末尾にSをつけるようになったという.
 画像無し ・トーマス・ウェイク「裁縫する女性」 ウェイクの中でも並品だろう

ピーテル・コッデ「音楽の集い」 中央の男性の顔はよく描かれている.レンブラントの時代のアムステルダムの風俗画家コッデのモチーフを含めて淡色調の標準作.画中画としてやはり淡色調の風景画を配している.

・パラメデスゾーン「音楽の集い」 フェルメールの前の世代で市民階級をよく描いたデルフトの画家の並品.

・デュサールト「宿屋の前の辻音楽師」 モチーフも,例えば子供の顔つきも師のアドリアーン・ファン・オスターデに類似するが,1681年と時代は下っているので,色調はやや豊かになり,ライスダールの風景画から借用したような空の青,木々に灰色のフェンスが背景に描かれている.

・ヤン・ステーン「宿屋の客と女中」 並品でコンディションもよくない.このような作品は好きではない.

・ヤン・バプティスト・ウェーニクス「ローマの鋳掛師」 褐色に支配された画面にキアロスクーロで左半身が浮かび上がった若者のこちらを見つめるまなざしにはややあどけなさを感じる.親イタリア派的表現.個人的にはあまり惹かれなかったが.

シュテーデル美術館展(2)

2011-03-18 23:03:15 | 古典絵画関連の美術展メモ
 肖像画  
コルネリウス・デ・フォス「画家の娘の肖像」1627年 

 眉毛が消えていて,しゃくれた下顎の歯が見えるのでやや不気味に見えるかもしれないが,顔のこってりした質感の造形はやはりフランドル派.ほどほど粗大に塗り重ねられた衣服の表現は確かにデ・フォス(ド・フォスも通用)に良く観られる.彼は17世紀前半のアントワープにおいて,ヴァン・ダイクに続くもっとも重要な肖像画家の一人で,ルーベンスの元で学んだという記録はないが共同製作はしている.ダイクらの自由な筆致を吸収して1620年代には魅力的な色遣いと均整の取れた表現で肖像画家として成功を収め,1626年ごろからは背景に風景を入れたバロック風の大画面の家族肖像画で人気を博し,1635年頃には人物群が登場する大画面の歴史画に製作の重点を移してゆく.
 図録や小パネルにかれている「・・・子供の肖像画を描くことを専門にしたただひとりのフランドルの画家」という表現は,子供の肖像画自体が少ないので誤解を招きやすいかもしれない.ドルトレヒトのヤーコプ・カイプも子供の絵を良く描いている. 

ピーテル・サウトマンに帰属 「子供の肖像」1635/40年頃



 創設者シュテーデルの蒐集品のひとつで,構図からあるいは断片かもしれない.青い眼と人懐っこい表情が魅力的だろうが,個人的には会場ではあまり惹かれなかった.
[見直してみたところ,目鼻立ちの表情は良く描かれていて,この作品でも微笑みは左の口角をやや上げることによって巧みに表現されている.違和感を感じたのは体や帽子の描き方に立体の造形感が乏しいように見えることだった]

 フェルディナント・ボル「若い男の肖像」1644年



 ボルは1630年代後半から42年までレンブラント工房に属していたので,この作品は独立して間もない時期のもので,レンブラント様式の窓枠ないし手すりに手を置く姿勢や強いキアロスクーロを意識している.
 ボルの肖像画の特質は一言で言えばコントラストが高いことで,私見では肌が比較的白く,目の周囲などの黒の影付けがきつく,頬には紅が入って,目頭の描き方にも特徴がある.それ故,描かれた人物にはややナーバスで冷たい印象を受ける作品が多く,その意味ではこの作品も同様である.ここでは左目など暗部の薄い顔料層は磨耗が目立ち,全体としてかなりコンディションが悪いのが残念である.
  レンブラント「マールトヘン・ファン・ビルダーベークの肖像」1633年


 アムステルダム時代初期の作品.前年製作の「トゥルプ博士の解剖学講義」にみられるような透けるような肌の表現の片鱗は感じさせるが,女性をハイライトで描いたためか顔にはキアロスクーロの陰影表現は弱い.美人ともいえないことと相まって写真では印象が弱かったが,実物を見ると,目から鼻,口元にいたるまでが引き締まっていて,無駄のない筆遣いはやはり巨匠のこの時期のものだろう.
 楕円形のフォーマットは顔の形や膨らんだ襟に合うので,1630年代のアムステルダムで好まれたと図録にあるが,確かにレンブラントの1630年代の前半の肖像画作品には多いようだ.
 ただし,金ボタンがあまりに類型的で,この部分は工房の初心者に描かせたのではないかと感じてしまう.
 
  フェルスプロンク「椅子に座った女性の肖像」1642/5年頃

 彼はハルスに次ぐハールレム派の代表的な肖像画家である.大きな襟飾りをつけ,金のネックレスやブレスレットで着飾って,ダチョウの羽の扇子をもった女性は,鼻が少し上を向いてややつり目で,美人かどうかは別だが,堂々と腰掛け斜に向いてポーズをとり,左の口元を少し上げて微笑み,そして左目をそばめた一瞬の表情を,フェルスプロンクは繊細なタッチで独特のさわやかさを感じさせる作風で描いている.ただ繊細なのではなく,右手の表現などを見ると,ハルス風の筆遣いも見て取れよう.
 比較的大きめの四分の三身座像は対角線に乗った安定した構図は,やはりフェルスプロンクらしい灰褐色のやや寒色調で明から暗のグラデーションを用いた背景に浮かび上がる.

 
  フランス・ハルス「夫婦の肖像」1638年



 ハルスについては語る必要はないだろう. 彼の肖像画には一瞬の荒い筆遣いの中に微笑み以上の笑顔がある.残念ながら,小生はその偉大さをまだ十分に熟知してはいないのだが.
 カスパール・ネッチェル「ピーテル・シックスの肖像」1677年


 ネッチェルはテルボルフに学び共和国の首都となったハーグに工房を構えたが,このような細密な肖像画小品で名声を博した.この作品は,絨毯や衣服のサテンの質感,獲物の鳥,召使の表情など背景を含めて,中でも入念に仕上げられており,彼の傑作ないし佳作のひとつであろう.
 ピーテルはレンブラントの友人であったヤン・シックスの甥とのことで,この肖像画の当時22歳,後にアムステルダムの市長に就いている.背景に描かれている画中画はアンニーバレ・カラッチの「キリストとサマリアの女」(現ブダペスト国立美術館蔵)ないしその模写で,ヤンの蒐集品だったらしい.
   ニコラース・マース「女性の肖像」 1668/70年頃

 マースは1650年代にレンブラント工房に属したが,その後1660年代後半から80年代にはフランドルあるいはヴァン・ダイク風の明るい色彩に柔和な筆遣いで数百点の肖像画を描いたといわれる.これらは,やや小型の四角形の画布に楕円形に描かれた半身像や,やや大型の画布に時には噴水や円柱などを配した3/4身像,という二種類のフォーマットをとることが多かった.両者とも,日暮れの空のもと,テラスや垂れ幕などのある想像上の庭や建物を設定し,カールした長い髪は灰色や褐色で,サテンのような衣服は赤,青,橙,金あるいは紫色で輝きをもって描かれている.
 この肖像画もそのような作品の典型である.私見ではマースの顔の表現においては鼻の影がくっきりした褐色で描かれているのも一つの特徴である.この女性は実際に面長なのか,この作品が高い位置にかけられ下から見上げることを見越してなのかわからないが,頭蓋から顔面はややいびつかもしれない.

 ここで展示されている微笑む女性像はいずれも左の口角を軽くきゅっと上げているが,いかにもの欧米人の仕草を思い起こさせる.
   ヘルブラント・ファン・デン・エークハウト「イサーク・コムリンの肖像」1669年



 エークハウトも1630年代の後半レンブラント工房に属し,その後もレンブラントの友人であったと言う.
 エークハウトの肖像画はあまり見たことがなかったが,ここでは彼にしては顔の仕上げは精緻であり,手のやや強めの影付けのコントラストでエークハウトらしさが実感できる.
 背景にアムステルダムの地図を配し,向かって右に開かれた書物が置かれているが,この本から描かれた男性は出版業を営むコムリンであると推定されたという.

 画像無し ・バーレント・ファブリチウス「自画像」 MJそっくりなので話題になっているが,うちの絵画館収蔵品のフリンクによる「シャボン玉を吹く少年」と同じくらい顔料層が薄くなってしまっているのは残念.

・ヤン・M・モレナール「タバコを吸う男」 並品 比較的重要な画家だが風俗画の範疇だろう

・カーレル・スラバールト「髑髏を持つ自画像」 顔と髑髏は良くかけているが,人体のプロポーションや構図は少し気になる.アーチを置いて後ろの隠された窓から光が射しているが,その壁には家族の肖像画の額を予定したものの取り除かれたらしい.この画家については浅学にして詳細は知らない.

・トーマス・デ・ケイゼルの追随者「騎馬像」1660年代 貴族のたしなみであった乗馬姿は当時の市民階級の憧れでこのような小品もよく描かれており,アムステルダムのデ・ケイゼルの作品は中では有名である.この作品自体は並品

・バックハイゼン「男の肖像」 この奇妙な構図の作品は断片であるため.創設者シュテーデルの蒐集品のひとつとのこと.帰属についてもよく分からない.

以下続く....