泰西古典絵画紀行

オランダ絵画・古地図・天文学史の記事,旅行記等を紹介します.
無断で記事を転載される方がありますが,必ずご一報下さい.

レンブラントの製作技法(1)

2009-08-29 19:58:57 | オランダ絵画の解説
(1)レンブラント工房~アカデミー

 当時親方画家の工房には徒弟が4-6人程度修業するのが一般的で,これは聖ルカ画家組合によって規制されており,勿論レンブラント自身もそれに加入していないと絵を描いて売ることは出来なかったわけだが,この統制はアムステルダムにおいては他の都市よりも比較的寛容だったようで,レンブラント工房においては,その徒定数は遙に多かったらしい.その中には長期の見習い者(ホーホストラーテンは13歳から7年間修行した)もいれば,他の親方のところで数年修行をしてから入ってきた者(たとえばフリンク)もいたが,残りの多くはアマチュアで,イタリアの画家工房の「アカデミー」のように,授業料を払って指導レッスンを受けていたと思われる.これは組合の徒弟教育のような因習にとらわれずに,例えば人物モデルを囲んで弟子たちがスケッチするといった自由なものであったらしく,1630代のアムステルダムにおいてはこのような指導方法は目新しいものであった.
 ハウブラーケンの記述によれば,レンブラントは借りた倉庫で,弟子たちに布などで仕切った小さなブースを与えて,それぞれが煩わされずに描ける場を提供していたらしい.授業料を取る生徒から徒弟,若い画家に至るまでの才能のある者が彼の指導の下でレンブラント様式で描いた(時には各自に任せたりしたかもしれないが)同じ画材と技法の作品に,レンブラントは署名を入れたので,現代に至るレンブラント作品の真筆同定には困難が付きまとう.
 残念ながら,レンブラント工房にどの位の人数が関わっていたかは,アムステルダムの画家組合の記録が消失してしまっているため定かではないが,文献からは少なくとも20人位の名前は挙がっている.

(2)制作過程と画材
 一般に画家は東西に走る道路に面した家に住み,北窓からの空の光で一日変わらないアトリエの採光を好むが,レンブラントの場合も同様であっただろう.完成した肖像画では向かって左(描かれた人物の右手側)から光が当たっていることからも,彼は右利きであったと考えられており,東側に対象を置いて,左手の北から採光し,右手の影が邪魔をしないようにイーゼルを置いたと考えられる.

 ボストン美術館所蔵の「画家のアトリエ」25x32cm 1629年頃では,右利きの画家は作品から距離を置いて立ち全体のバランスを見ているようで,一般の画家がアトリエの自画像を描くときには椅子に腰をかけた姿が多いことを踏まえて,Broosはこのポーズに注目しているが,光の方向を考えればイーゼルの向きも描くときとは逆斜めでもあり,私見ではこれはすでに完成した作品を見ているか,構図上の虚構であって,この時代の精緻な筆遣いを考え合わせればレンブラントが立って描いていたわけではないだろう.
 支持材は標準的なサイズのオーク板や画布で,当時額の方が決まったサイズで制作されていたと考えられていて,これに合わせていたらしい.板は年輪年代推定法によって,特定の画板制作業者からまとめ買いをしていたようだ.パネルは大きいと2-3枚を継ぎ合わせたもので,裏は四辺を斜めに削って額に固定しやすく加工してある.使用されている板がカットされている場合,裏の削られ方をみれば元の板のサイズがある程度推定できる.板に塗る下地材は制作業者が塗った上に画家が塗り重ねることもあり,元が荒かったりすると真ん中の部分の下地材を削り落としている例(Br566)もあった.画布も下地の塗られたものを購入していたかもしれないが,アトリエで張ってから下地を塗りなおしており,ときにはカットして再利用したりしている.
 顔料については秘技秘伝の類はなく17世紀オランダ絵画の正統的なもので,広く購入可能で品質や欠点の良く知られた様々なものを使用している.よく使用されたものを挙げれば,イタリア・フランス・英国などから輸入された天然の土類からオーカー(黄土色)ochre・シエナ(黄褐色・焼けば赤茶色)sienna・アンバー(茶色・焼けば焦茶色 よく乾く 高級品はキプロスやトルコ産?)umberなどで,柔らかく暖かい赤・橙・黄・褐色が表現でき,溶剤との安定性もよく他の化学的に弱い顔料との混和にも問題がない上に,油での乾燥も早いメリットがあった.唯一の弱点は色の強さだったが,色調の幅の広さと下層の透過性はレンブラントの表現に適していた.人工的な顔料としては,厚く盛り上げて襞襟などを描くのに鉛白lead white,黒い衣装には獣骨を焼いた墨の黒bone blackを用いている.
 彼はこれらの顔料を透過性や不透明性を考慮しながら何層にも塗り重ねており,とくに塗り目(テクスチャー:質感を与える塗りの模様的な特徴)は,不透明で強固な鉛白やときに亜鉛華黄lead-tin yellowによる厚塗りimpastoで表現している.透光性のある大量の顔料を組合わせることで厚塗りで暗色調ながら透過性(色が濁らずに下層が透けて見える)のある部分passageも認められ,この技法はレンブラント独自の創作であろう.このような複雑な顔料の混ぜ合わせと多層塗りによって,レンブラントは色彩と透過性と塗り目から強い印象を与える表現を完成し,彼の選んだ顔料の安定性と組み合わせの良さによって,今日まで多くの作品が良い状態を保っていると考えられる.

 レンブラントの描画技法はレイデン細密派に通じる精緻様式から出発して晩年の粗塗り様式で終わるが,とくに最晩年の作品の念入りで精妙に仕上げられた表面の構造は,筆やパレットナイフの痕跡を見取ることが出来ず,どのように制作されたのかは謎のままである.Broosは,このような自発的で極めて独自の画業の進化はultima manieraに到達しているという.van de Weteringは,この変化は17世紀の工房における意図的な決定に導かれたものであろうといっているらしい.


 この記事は尾崎先生の「レンブラント工房」やvan de Weteringの著書などを読み進めながら改訂してゆく予定です.

レンブラントの宗教画(3)

2009-08-27 21:49:36 | オランダ絵画の解説
(3)中期(42サスキアの死去~56破産)
 1642(1)43(1)44(1)45(3)46(4)47(2)48(2)49(0)50(1)51(1)52-53(0)54(1)55(3)56(1)57(1)

 1640年代前半の聖家族の一連の創作にはサスキアを無くしたことがかかわっているのかもしれない.この時代のその他の歴史画のモチーフとしては,それまでの焼き直しも多い.作風もルーベンス風の力強さを離れて,中規模の画面に,レイデン時代ほどの精緻さへのこだわりからも距離を置いて,静かな精神性を醸し出していくかのようだ.1630年代を支配した強いキアロスクーロは落ち着きを見せ,周辺の重要性の低い部分は略し,劇的ではないが親密さや静謐な瞬間というものを感じさせる.
 Broosによれば,1645年頃制作された作品は,温かみのある深い赤色調の絵の具をたっぷりのせた筆遣いで描かれており,16世紀のヴェネチア派の画家への回帰を思わせるという.1646年の「羊飼いの礼拝」で,フレデリック・ヘンドリックの注文による「キリストの生涯」の連作は完成したが,ハイス・テン・ボッシュのオラニエ・ホールの装飾画の注文はレンブラントではなく他のよりフランドル風の画家に依頼されている.残念ながら,レンブラントが選ばれなかった理由は定かではない.
 1647年以降,「エマオの晩餐」を除けば彼の制作数は激減した.当時レンブラントは新たな家政婦ヘンドリッキェに心を奪われ,ヘルーチェを追い出しにかかっており,その家庭問題が創作に影響していたようで,その後のトローニーや肖像画作品では,以前よりも色遣いは褐色~暗赤色で筆遣いも太く粗くなってきている.
 1652年になると,彼は問題に打ち勝って肖像画の制作を再開し,1653年にはシシリア貴族のRuffoからの重要な注文による「ホメロスの胸像を見つめるアリストテレス」を制作し,その過程で古典学者としての意見を聞いたのであろう友人のヤン・シックスの肖像を1654年に描いているが,この野太い筆遣いの手の仕上げと微妙な筆致による顔の表情の機微の描き分けは,近い時代で比肩できたのはハルスだけであろう.同じ年に描かれた「沐浴するバテシバ」については,Broos曰く「フランドル様式以来の最も偉大な歴史画」とされている.1650年当時のオランダ画壇では洗練された明るい色合いが流行っていたにもかかわらず,レンブラントの太く自在な粗い筆遣いと光と影の強いコントラストは,時代遅れながらも,まだ多くの肖像画の注文を得ていた.このような独自の画境は何処からインスピレーションを得たのだろうか?
 「聖家族」1645 「羊飼いの礼拝」1646
 「エマオの晩餐」1648  「沐浴するバテシバ」1654
この作品は美術史の大家がこぞって傑作と述べているが,憂いのある顔が美しくはないためか,小生は不肖にしてその偉大さをまだ感得できていない.あらためてルーブルで見てみたいと思っている.
 「ヨゼフを祝福するヤコブ」1656
 Broosはこの作品をレンブラントの芸術家としての頂点とし,レンブラントが破産したこの1656年以降を晩期としている.

1642 (III)David's parting from Jonathan
1643 (?)The toilet of Bathsheba
1644 Christ and the adulterous woman
1645 S. Joseph's dream
1645 The Holy Family with angels
1645 Tobit and Anna with a goat
1646 (?)Abraham and the three angels
1646 The adoration of the sheperds
1646 (?)The Holy Family with painted frame and curtains: Kassel
1646 (?)The adoration of the sheperds
1647 Susanna and the elders
1647 The rest on the flight into Egypt
1648 Head of Christ
1648 The supper at Emmaus
1650 (?)Hannah and Samuel in the temple
1651 (?)Noli me tangere
1654 Bathsheba bathing
1655 Joseph accused by Potifar's wife
1655 (?)Christ and the woman of Samaria
1655 (?)David playing the harp before Saul
1656 Jacob blessing the sons of Joseph
1657 (?)The apostle Paul

(4)後期(58転居~69死去)
 1658(0)59(4)60(2)61(9)65(1)66(1)1669(1)

 この頃から1665年の「ジュノー」に至るまで歴史画において一人(ないし二人)の半身像を配した構図で,赤褐色調が支配した作品を制作していく.このほか,同時期に小画面の群像で粗い筆致の作品群もあるが,アムステルダムの新市庁舎の装飾として1662年に描かれた彼の最後の歴史画大作「クラウディウス・シウィリスの謀議」は品位に欠けるとしてまもなく返却されてしまう.1665年頃の「ユダヤの花嫁」の人物の特定は出来ておらず,「イサクとリベカ」などの主題とする歴史画との解釈はportrait historieか否かも含めて明らかではないが,光の魔術や厚塗りの効果がすばらしく,続く1668/9年の「家族の肖像」ではカンヴァスの上でパレットナイフで造形している.
 「石板を叩き割るモーゼ」1659 「ペテロの否認」1660
 「クラウディウス・シウィリスの謀議」1662  「放蕩息子の寄託」1668年頃 
 
 「ユダヤの花嫁」1665年頃
 拡大しないと判りづらいが,女性の肩の透けた生地の部分は,ぼやけたような下層に出鱈目に筆を当てて絵の具を滴らせているように見えるが,それによって金糸を織り込んだ高価な質感を巧みに表現しており,赤いスカートの部分には透明感のある赤の下層に置かれた明るいレリーフの絵の具の塊を見出せる.


1659 Jacob and the angel
1659 Moses with the Tables of the Law
1659 Tobit and Anna
1659 Christ and the woman of Samaria
1660 Assuerus, Haman, and Esther
1660 The denial of Peter
1661 Self-portrait as the apostle Paul
1661 Christ resurrected
1661 The Virgin of Sorrow
1661 S. Matthew and the angel
1661 The apostle Bartholomew
1661 The apostle James the Major
1661 The apostle Simon
1661 (?)Christ with a pilgrim's staff
1661 (?)The circumcision in the stable
1665 (?)Haman recognizes his fate
1666/9 The return of the prodigal son
1669 Simeon in the temple (unfinished)

レンブラントの宗教画(2)revised

2009-08-23 20:26:23 | オランダ絵画の解説
承前

 後半がManuthの受け売りになってしまったので,レンブラントの真作と多くの研究者が認めている作品で,聖書主題の油彩画を年代別に拾い出してみることにした.あわせて,B.Broosによる1996年の時点での総説(Grove's "The Dictionary of Art",Vol.26,pp.152-179)により内容を修正した.

 インスピレーションや発注も含めて,恐らく工房の運営がうまく行っている時期に作品数が増えるのであろうと思われるが,それ以外では1661年の使徒連作は異例である.
 旧約聖書の中でカトリックでは聖書正典とするがプロテスタントでは外典として扱われる書物は第二正典といわれ,トビト書(記)・ユディト書などが挙げられ,エステル書の一部やダニエル書の一部(スザンナの節などヘブライ語聖書に含まれない部分)もこれに含まれる.例えばトビト書は,ユダヤ教では外典として,カトリックでは旧約聖書の続編として(1546年トリエント公会議の決定),プロテスタントでは聖書ではなく文学として扱われている.ただし,1618年のドルトレヒト宗教会議で承認されたオランダ語の聖書には含まれていたという.詳しくは1986年の「レンブラント・巨匠とその周辺」展に寄稿しているJ.Heldの論文「レンブラントとトビト書」を参照のこと.
 これらを含めて旧約聖書の主題に限ってみれば
主題\制作年代 1625-31 32-41 42-56 58-69
アブラハム(含イサク)   35 46  
ヤコブ     56 59
ヨゼフ   33 55  
モーゼ(含バラム) (26)     59
サムソン 28 35・36・38    
サムエル     50  
ダビデ(含バテシバ) 27・28   42・43・54・55  
エレミア 30      
ダニエル(含スザンナ)   33・35・36 47  
エステル(含ハマン)   32   60・65
外典トビト書 26・30 37 45 59

とくにトビト,ダビデやバテシバ,サムソン,ダニエルやスザンナをよく描いていることがわかる.

 これに銅版画の主題を加えてみると,アブラハムとイサクを中心に創世記に基づく主題が圧倒的に多い.
c.33 B38 R- Jacob Lamenting the Supposed Death of Joseph
34  B39 C  Joseph and the Wife of Potiphar
37  B30 C1+ Aabraham Casting out Hagar and Ishmael
c.37 B33 C2- Abraham Caressing Isaac
38  B28 RR+ Adam and Eve
38  B37 C2+ Joseph Telling his Dreams
41  B43 C2- The Angel Asceding from Tobit and his Family
c.41 B40 C2  The Triumph of Mordacai
45  B34 C2+ Abraham with his Son Isaac
51  B42 C1+ Tobit Blind, with the Dog
52  B41 C1  David on his Knees
55  B35 C2- Abraham's Sacrifice
55  B36 RRR Four Prints for a Spanish Book: Statue of Nebucadnezzar,Jacob's Ladder,David & Goliath,Daniel's Vision
56  B29 C1- Abraham Entertaining the Angels
主題\制作年代 1632-41 42-56
アダム 38  
アブラハム(含イサク) 37・37・41 45・55・56
ヤコブ 33  
ヨゼフ 34・38  
エステル 41  
外典トビト書 41 51


(1)レイデン時代(1625-31) 1625(1点)26(4)27(4)28-29(6)30(2)31(3)
 Broosはこれに先行する修行時代を1626年頃までとしている.1641年に伝記を残したOrlerによれば「レンブラントはアムステルダムのラストマンの工房に半年間入った」が年代は明確にされていない.1625-6年の彼の作品に見られるラストマンからの強い影響から考えて,それらは工房からレイデンに戻って描いたと従来から考えられているが,その場合工房には1625年かその前に在籍したということになり,あるいはBroosによれば,ラストマンの工房で独立した助手として描いた可能性もあるらしく,その場合は工房には1625-6年に入っていたことになるらしい.当時ラファエロ風の歴史画をエルスハイマーのように小画面の作品として制作していたラストマンの工房を勧めたのは,レイデンで一緒になった神童のリーフェンスだろう(彼自身が1617-19年頃まで工房に在籍しその価値をよく認識していたから).レンブラント自身が後に「イタリアに行かずともオランダ国内でその絵画を研究することはたやすい」と述べたのは,当初,ラストマンのイタリア風の構図や背景建築から学んだためであろう.この時代のレンブラントのオリジナリティーとしては例えば1626年の「商人を神殿から追い払うキリスト」に見られるような半身像を積み重ねた構図が挙げられる由.

 師ラストマン由来の明るい画面が支配する明暗表現の中に豊かな色遣い・誇張された動作の人物表現といった特徴を色濃く見せる1625年の「聖ステファノの石打ち」の僅か3年後には,暗闇に浮かび上がる明暗表現(キアロスクーロ),より繊細・精緻な筆遣いで人物の豊かな表情とものの質感を巧みに表現できるまで,その表現技法に大きな変化を見せている.これは例えばハイヘンスをして「歴史画においてはどのような偉大な画家も容易にはレンブラントの"vivid invention"には到達し得ないであろう」と言わしめた1629年の「30枚の銀貨を返すユダ」(現在は個人コレクション)などで確認できよう.同時期~その後の作品として,オランダではアムス国美の「悲嘆の預言者エレミヤ」やマウリッツハイス美の31年の「キリストの神殿奉献(シメオンの賛歌)」,米国ではロサンジェルス郡立美術館の「ラザロの蘇生」などにもその効果(キアロスクーロなど)をいっそう強く見いだすことが出来る.ここに至るまでにはリーフェンスとの良きライバル関係aemulatioによる研鑽があったことは言うまでもない.
 「30枚の銀貨を返すユダ」1629
 「悲嘆する預言者エレミヤ」1630
最も好きなレンブラント作品の一つ.
 「キリストの神殿奉献(シメオンの賛歌)」1631
細部にこだわったラストマン様式とレンブラント自身の劇的なスポットライトによる力強い構図によって表現された人物群像から,Broosはこれをレイデン時代の頂点としている.


1625 The stoning of S. Stephen
1626 Balaam and the ass
1626 The baptism of the Eunuch
1626 Christ driving the moneychangers from the Temple
1626 Tobit and Anna with the kid
1627 David with the head of Goliath before Saul
1627 The rich man from the parable
1627 S. Paul in prison
1627/8 Simeon in the Temple
1628 S. Peter and S. Paul(?)
1628/9 S. Paul at his writing desk
1628/9 The supper at Emmaus
1628/9 Samson betrayed by Delilah
1628/9 David playing the harp to Saul
1629 Judas, repentant, returning the pieces of silver
1630 Jeremiah lamenting the destruction of Jerusalem
1630 Tobit and Anna
1631 The raising of Lazarus
1631 Simeon in the Temple
1631 S. Peter in prison

(2)アムステルダム時代前期(1631~34サスキアと結婚・35新居~42夜警の完成)
 1641年にはレンブラントはアムステルダムの主導的な画家の一人と見做されているので,Broosはこの時期を1640年頃までとしており,彼も,歴史画において1630年代はレンブラントの最も「バロック」らしい時代と述べている.
 1632(2)33(4)34(7)35(5)36(3)37(1)38(2)39(1)40(1)41(0)

 フレデリック・ヘンドリックによる「キリストの受難」の発注を受けて注文制作も増加し,工房も軌道に乗ったのであろう,彼の歴史画は小振りな作品から大画面へと移行して行き,等身大の2-3人を縦長の画面に納めた「天使に制止されるアブラハム(イサクの犠牲)」「ガニメデの誘拐」や横長の「ダナエ」,数人までの群像を描いた「ベルシャザール王の饗宴」「目を潰されるサムソン」などの傑作を1635-36年の間に次々と描いている.

 
 「天使に制止されるアブラハム」1635
構図はラストマンに由来し,それを受けたリーフェンスの同名作品をレンブラントは熟知ないし所有?していたようだが,イサクの裸体の構図はルーベンスの借用である
 「ガニメデの誘拐」1635
 ガニメデの泣き叫び放尿する姿はきわめて現実的で日常の写実でもある
 
  「目を潰されるサムソン」1636
 レンブラントは構図にルーベンスの躍動感と大胆さを取り入れているが,サムソンの構図自体もルーベンスの有名な「繋がれたプロメテウス」(1611-18年;英外交官のカールトン卿のコレクションで1618~25年にはハーグで見ることが出来た)に由来している.
 この作品は上記ヘンドリックの発注を取り持ってくれたホイヘンスへのお礼として制作されたと考えられていたが,Broosによればこれは確実ではないらしい.
 レンブラントはこの作品の後,このような劇的様式から離れてゆく.
「ダナエ」1636 宗教画ではないが,最も好きなレンブラント作品の一つ.残念ながら硫酸事件で昔来日したときの面影は無い.
 ドラマの一シーンの様ではあるが,躍動感や力強さよりも親密さが加わり,Broosは17世紀の絵画のヌードで最も印象的な作品と述べている

 例えば女性の顔のモデリングも1633年ごろまでと比較して変化が感じられ,これらの作品は,ルーベンスを思わせるダイナミック(劇的)な瞬間を,浮かび上がるキアロスクーロの中に描いたまさにバロック絵画の頂点の一形態である.
 この制作数の増加には,アムステルダムにおける歴史画の大家であった師ラストマンが1633年に亡くなっていることも関係しているであろうし,ルーベンスも1640年に世を去っている.フランドルにおいても歴史画大作などの注文はヨルダーンスらの手に委ねられてゆく.作品の注文主については今後も確認調査が必要だが,不明のものが多い.
 1636年以後,フランドル様式への傾倒から離れるとともに歴史画の大作は減り,かつてのラストマン的な小画面に戻り,1637年の「トビアスとその家族のもとを去る天使」を制作するが,この天使の構図はヘームスケルク作品に基づく版画図像に基づいており,版画図像に関するレンブラントの造詣の深さを伺わせる.
 その後,1640/41年に発注された集団肖像画は記念碑的大作「夜警」として1642年に完成する.

1632/3 Esther?(A young woman) at her toilet
1632/3 The descent from the cross
1633 The raising of the cross
1633 Christ in the storm on the Sea of Galilee
1633 Joseph telling his dreams
1633 Daniel and Cyrus before the idol Bel
1634 Ecce homo
1633/5 The Entombment
1634 The incredulity of Thomas
1634 The Holy Family
1634 (II)The Descent from the Cross
1634/5 John the Baptist preaching
1634/5 The Lamentation
1635 Abraham's sacrifice
1635 Belshazzar's feast
1635 Samson threatening his father-in-law
1635/9 The Entombment
1635/9 The Resurrection
1636 The Ascension
1636 Susanna at the bath
1636 The blinding of Samson
1637 The angel Raphael leaving Tobit and his family
1638 The risen Christ appearing to Mary Magdalene
1638 The wedding of Samson
1639 Man in oriental costume (King Uzziah stricken with leprosy?)
1640 The Visitation

レンブラントと宗教画(1)

2009-08-16 22:22:33 | オランダ絵画の解説
 オランダ・バロック絵画館では歴史画History Painting(物語画)の収集がコレクションの重要な柱の一つで,09年現在,旧約聖書をモティーフとした絵画15点,新約聖書の絵画7点を所蔵しているが,とくに旧約聖書の題材に力を入れている.
 このこととレンブラント派の作品の収集をもう一つの柱としていることは,よく話題にされるようにレンブラントの生きた宗教改革の時代の新教国オランダにおいては,宗教画の需要が低迷していたらしいと考えれば,一見矛盾するように見える.

 人文主義者エラスムスによるギリシア語の「校訂新約聖書」刊行後,1517年ドイツでルターが「95ヶ条の論題」を提示して「聖書中心主義」(「聖書のみ」を拠りどころとして「聖伝」を否定)を主張し,秘蹟としては新約聖書に記載されている洗礼と聖餐(カトリックの聖体)のみを認めて後,従来のラテン語ではなく自国語の聖書がグーテンベルグの活版印刷によって広まってゆく中でキリスト教徒は分裂してゆく.
 とくにフランスのカルヴァンは1536年「キリスト教綱要」を刊行し,後にドルトレヒト会議で定められた信仰基準,カルヴァン主義の五箇条TULIPとは,人間の全的堕落・無条件的選択・限定的贖罪・不可抗的恩恵・聖徒の堅忍とされているが,いずれにしてもカルヴァンは「神を目に見える形としては捉えられないので,神を図像化したものはすべて神聖への冒涜」であり,教会の建物の中での偶像崇拝のみならず,そのような図像の所有さえも禁じている.
 これに対するカトリック側の対抗(宗教)改革の動きの中で,1545-63年のトリエント公会議では,七つの秘蹟(洗礼・聖体・婚姻・叙階・堅信・告解・塗油)など教義の正当性の再確認とプロテスタント側の主張の排斥,教会の自己改革を決定した.その間の1555年にアウグスブルクの和議が結ばれ,ドイツにおけるルター派は容認されたが,カルヴァン派の信仰は認められず,信仰の選択は都市や領主が決定するもので個人の信仰の自由は認められなかった.その後,フランスではユグノー(フランスのカルヴァン主義者)戦争後の1598年のナントの勅令で個人の信仰の自由が認められた.
 オランダでは1560年頃,カルヴァン主義がフランドルのフランス語圏から伝播し,カトリックのスペインに対抗する北部諸州において重要な役割を持つようになり,アムステルダムでは1578年に改革派(カルヴァン派)が政治の実権を握り,他派(カトリック・他のプロテスタント諸派[ルター派・メノー派]・ユダヤ教徒)の信者は公職から追放された.しかしながら,その後,支配階級の市民(門閥貴族)は,他派の信者も都市の経済的発展に寄与していることを認識し,比較的寛容に扱うようになる.レンブラントの活躍し始めた時代はスペインとの12年停戦が協定された1609年以降のオランダ絵画の第二世代の時期といわれ,同地の宗教対立は沈静化していたようだ.

 すなわち,レンブラントの生きた17世紀前半には,レイデンにしろアムステルダムにしろ,家人にしろ隣人にしろ,周りがどのような宗教を信奉しているか気にかけないし,非公式の秘密礼拝があちこちで行われていた事実がある多宗教multi-denomitionalな時代であった.実際,レンブラントの父は結婚前に,母は結婚後に,カトリックからプロテスタント(カルヴァン派)に改宗しており,レンブラント自身は生涯を通じてカルヴァン主義者であったが,妻のサスキアは旧教会に葬られ,師匠のラストマンはカトリックであった.また,レンブラントの肖像画の注文主はカルヴァン派・メノー派・カトリック・ユダヤ教徒を含んでおり,アムステルダムの新居はユダヤ人居留区にあって,メノー派の人々とは深いつながりがあったという.
 従来のようなカトリック教会で使用された大祭壇画の需要は共和国内で激減した.レンブラントが目標としたルーベンスのように,他国の王侯貴族から引きも切らない注文を受けるだけの名声があればというところではあろうが.それに替わる顧客として現れたのが裕福で学識のある市民階級で,宗教画も彼らの邸宅を飾る比較的小画面の作品に変容してゆく.
 上述した教義から,カトリックの礼拝ミサで取り上げられるのは福音書に記述されたキリストの生涯にまつわる説話が多く,「キリストの受難」の絵画,とりわけ磔刑図は,オランダではカトリックの隠れ教会や個人宅の礼拝堂の祭壇画,あるいは寝室での祈りの対象として描かれていた.マリア信仰とともに神の子をも描く「聖母子」「聖家族」や「聖人像」も同様でカトリック信者の信仰の対象となるが,実際には親密な芸術作品としてあるいは鑑識眼を誇示する財産としてプロテスタント信者の所蔵となることもあった.聖人像でも例外的に,聖ステファノは初めての殉教者として聖書「使徒行伝」に記述があり,聖ヒエロニムスはとくに書斎にいる図像表現が聖書の翻訳や神学書の著者として,プロテスタントに認められていた.結局,当時のオランダでは,教義にかかわる図像学的意味の濃厚なものでなければ,信仰を問わず購入されていったようである.
 このような需要のある中で,レンブラントは宗教画を描いてゆくが,その主題は,上述の印刷された聖書のデューラー・レイデン・ヘームスケルクやM・ド・フォスらの挿絵版画と師のラストマンの作品からインスピレーションを得ている.Manuthによれば,レンブラントは登場人物の感情的反応に焦点を当てた物語を好むことが多く,美徳と悪徳を対比し感情を移入させるような作品に仕上げている.その点において,じつは,前レンブラント派からレンブラント派をふくめて,彼らはとくに旧約聖書の主題を多く取り上げていたのである.
 Manuthによれば,レンブラント派の主題としてもっとも多いのは「ハガルの追放」であるらしいが,それに続く「ハガルと天使」やアブラハム・ヤコブ・トビアスの説話などを通じて,神の使いとしての天使を登場させ,神との接触を間接的に表現したとも考えられる.
 「ハガルの追放」1637  「トビアスとその家族のもとを去る天使」1637


1630年代のレンブラントはとくにサムソンの物語を頻繁に取り上げている.
 「デリラに欺かれるサムソン」1628 「 舅を脅かすサムソン」1635
 「目を潰されるサムソン」1636  「婚礼の客に謎をかけるサムソン」1638


 レンブラントの弟子の信仰は異なっていたが,主題に関しては,1630年代後半の弟子フィクトルスは厳格なカルヴァン派で,旧約のみで新約の主題は一点も扱っていないのに対し,最後の弟子ヘルデルは1685年ごろ製作した「天使をもてなすアブラハム」の中で天使の一人を神として描いているが,これはレンブラントの1656年の同主題の銅版画の表現にも似ている.
レンブラント「天使をもてなすアブラハム」1656 ヘルデル「天使をもてなすアブラハム」

 Manuthは「西洋美術史において17世紀オランダ画家達ほど旧約及び新約聖書の視覚化に貢献した画派はないが,その中で主導的な役割を果たしたのがレンブラント派であった」と結んでいる.

 要約すると,オランダという国の寛容性,個人の宗教的自由と嗜好,芸術である物語画の役割が宗教的対象から趣味の対象として変遷していったことが,比較的小画面で説話的主題の宗教画の需要を高め,レンブラント派はその中に活路を開いて聖書の劇的な場面を描いていったといえよう.

参考文献:
・「レンブラントとレンブラント派」展図録,「レンブラントの世界における宗教画」,V.Manuth,2003
・「レンブラント・巨匠とその周辺」展図録,「レンブラントと聖書」,C.Brown,1986
・"Rembrandt",C.Tuempel,1993

「栄光のオランダ絵画展」 ホテルオークラ・アートコレクション展

2009-08-14 16:54:17 | 古典絵画関連の美術展メモ
 ホテルオークラ東京のホールで毎年この時期に催される「秘蔵の名品 アートコレクション展」は過去数回訪れました.学術ではいつも井出洋一郎先生が中心となってらっしゃったようですが,今回監修は立入先生に譲られ顧問になられたようです.さて今年は15回目で「日蘭通商400周年記念 栄光のオランダ絵画展」と題して8/4-8/30まで開催されています.このタイトルからは17世紀オランダ絵画展を想像するのですが,今回は同時代から現代物までを手広く展示しています.

 先日,17世紀オランダ絵画の権威で本展覧会の監修者でもある東京藝術大学大学美術館のassistant professor熊澤 弘 先生の「セミナー&ギャラリートーク」を拝聴させていただきました.ホテルオークラのティー&ケーキ付で,入場券に図録パンフと出来のいい絵葉書5枚のセットがついて3000円は主催者のチャリティ精神の表れでしょうか,ありがとうございました.この企画は8/25にあと一回催されるので,参加ご希望の方は早めにお電話で申し込まれたほうがいいでしょう.

 熊沢先生のレクチャーは,17世紀オランダ絵画の多様性や同時代のヨーロッパ美術における位置づけ,絵画が権力の象徴から市民の愛好の対象に変遷していく過程,さらに,18世紀以降のオランダ絵画の流れについてゴッホを経て現代まで,最近開かれた展覧会の話も含めて,1時間ほどでまとめられたわかりやすいものでした.
 この展覧会の企画は約1年前から計画されていたそうで,特別協力として名前の上がっているオランダの保険会社INGグループが展覧会の趣旨チャリティを汲み取って惜しみなく協力してくれたとのことで,フィリップスなどとともに同社はアムステルダム国立美術館の大スポンサーであることから,同館から今回の展覧会の核となるレンブラント工房作「聖家族」とレンブラントの銅版画7点などを拝借することが出来た,よく貸してくれたものだと思うとのことでした.また,同社はメセナとして現代に至る具象画の膨大なコレクションを有しており,オランダ銀行と同国外務省から各十点ほどの提供と併せて,今回の展示の大半を占める作品を貸し出されているそうです.これに日本側がゴッホについて国内の所蔵先に依頼されて吉野石膏コレクションや東京富士美術館などから,パリに移るまでの1884-6年にかけての作品4点を借用されたとのことでした.
 ギャラリートークでは,まず19世紀絵画として,ゴッホの展示があり,吉野石膏の「雪原で薪を集める人びと」は山形美術館寄託作品で先日の都美の「日本の美術館名品展」にも出品されていましたが,ミレーの作品に着想を得た人物像は宗教的色彩が強いらしく,これに対して「静物,白い壷の花」の色彩の変化はキャプションによればモンティセリの影響が現れ始めているようで,本邦初公開だそうです.
 19世紀オランダ絵画は11点の展示があり,17世紀の残照としての写実性とドイツ・ロマン派の馥郁さがブレンドされていたりする作品もあるのですが,とくに風景画については,写実表現の中にバルビゾン派の「絵画における宗教性」の影響を受けた「ハーグ派」と呼ばれる画家のグループが現れ,その創始者の一人メスダッハ(メスダフ)の典型的な作品「日没の穏やかな海の漁船」という作品が展示されています.熊沢先生によると中央を外した太陽の位置とそれに二分されながらも左にやや大きく船を置いた構図が大変すばらしく,これはオランダ大使館からの作品とのことです.メスダッハの作品はオランダのデン・ハーグにいけば壮大なパノラマ絵画を見ることが出来ます.ハーグ派はゴッホ絵画の宗教性に影響を与えたらしく,このほかヤーコプ・マリスの,バルビゾン派のたとえばミッシェルを思わせるような「河辺の風車」などが展示されていました.熊沢先生のもう一点のお勧めはブレイトネルのアムス移住後の作品「ローキンの眺望」.暗い作品ですが行き交う馬車の動きが一瞬をとらえた写真のようです.

メスダッハ「日没の穏やかな海の漁船」  マルモッタン美術館にある,同時代の第一回印象派展に出品されたモネの「印象 日の出」1872年 を比較として提示されていました.

 20世紀以降の作品については,ハインケスの「静物」(1935年)は,前景の静物の写実性と背景の風景の幻想性がマグリットのような魔術的リアリズムを感じさせるとのことでした.続くケットの「・・・ハインケスの自画像のある静物」は日常的なものを描きながら視点の非日常性によって,仏キュビズムの画家ジョルジュ・ブラックを想起させるとのこと.残念ながら重要なモンドリアンは展示されていません.
 オランダ人画家による1951年の油彩画「Red trilogy」は北野武氏の顔を巨大に描いていますが(INGのサイトでみられます),一時サブタイトルを「レンブラントからタケシまで」としようかという話まであった?とのことで,右頬に縦書きで書かれている日本語らしきものは一部は判読できるが結局意味を持つものかどうか調べられなかったとのことでした(作家あてに確認が出来なかったそうです).
 また,同サイトにある一見日本人カップルにみえる写真はオランダ人が日本人に扮装してハウステンボスで撮影したものだとのこと.
  20世紀以降の作品は著作権が残っている可能性があるので図版写真は掲載しません
 部屋を移して,17世紀絵画の展示は,熊澤先生苦心の作で,左奥にケッセルの「ダム広場と市庁舎」,正面にニッケレンの「聖バーフ教会の内部」,右手を仕切ってレンブラントらの銅版画群の奥正面に「聖家族」を展示されていました.とくにレンブラントの銅版画や素描は先生の主要な研究テーマの一つでもあるようで,版画の見方についても熱心にご説明くださいました.
 絵画は11点の展示にとどまり,上記とS・ライスダールの「エマオへの道」を除けば,作品の質やコンディション,研究途上などでまだ問題の残る作品も見受けられましたが,一見の価値は大いにあり,とくに「聖家族」と「キリストの生涯」が隠れたテーマになっているようです.

ケッセル「ダム広場と市庁舎」1668年 97x124cm 板 オランダ銀行
 これはオランダ銀行の総裁室に飾ってある作品で,そのため,オランダ人が最もよく見る機会のある市庁舎の絵だとオランダ側の人が冗談をいっていたそうです.
ダム広場はもとはアムステル川の堰(ダム)があった場所で,アムステルダムの語源であり,市の歴史的な中心地でした.手前の旧河口のダムラックは19世紀に埋め立てられてしまうので,川向こうから描いた作品は珍しいとのこと.
 私見ながら,ケッセルはライスダールの弟子で森や田園の風景などの作品が多いが,アムステルダムの都市景観画をいくつか残しており,本作品はケッセルに関するA・ディビスのモノグラフ(レゾネ)"Jan van Kessel(1641-1680)",1992には掲載されていなかった.これだけの作品が載っていないのはおかしいと調べてみたところ,下図①のダブリン・アイルランド国立美術館所蔵作品の項で,「これよりやや大きく(39x50")1668年に描かれた作品が1794年にアムステルダムで競売にかけられており,1882年の競売以後姿を消した」p.107と記載されていた.まさにこれが当該作品である.①は本作の右寄り,新教会と手前の建物(1808年に取り壊された計量所だろう)の間から市庁舎に寄って描いている.
 本作品自体のコンディションは比較的良いものの,左下の運河に浮かぶ人の乗った船は倒してあるマストを残して消えかけているが,これは過去の洗浄によるものだろうか.
 描かれている人物像はあまりうまくないと思うがアブラハム・ストックという説もあるがJ・リンゲルバッハ風かもしれない.

以下の二点は参考図版です.展示されてはいません

①ケッセル「アムステルダムのダム広場・新市庁舎と新教会」1669年 68x83cm ダブリン・アイルランド国立美術館蔵

②ケッセル「冬のアムステルダム・ハイリゲウェグス市門」77x122cm アムステルダム国立美術館蔵
 ケッセルはこの題材が売れ筋だったようで,4点以上細部を修正しつつ製作している.

ニッケレン「ハールレムの聖バーフ教会の内部」177X136cm 画布 INGコレクション
 この大作は展示に最も苦労されたそうで,消失点のある下から1/5程度が目線の高さにくるのがもともと理想的だが十分な高さまで高く展示することが出来なかった由.ただ,フェルメールの作品でよく話題になるように,消失点から放射状に線を引くために,押しピンをとめた後があるのではないかと調べていたら,本当にピンホールが奥の黒服の男性の頭部より1cmほど右上に確認できたのが収穫だったとのことでした.近づいてみると確かに穴が開いています.
 ニッケレン自身は建築画家としてこのような教会内部を描いていますが,よく名の知れた画家ではありません.

レンブラント派「聖家族」アムステルダム国立美術館
 この作品は2003年の国立西洋美術館「レンブラントとレンブラント派」展で工房作品として展示されており,同展の図録にアムス国立美術館のディビッツ部長の論文に帰属の変遷が詳述されています.要約すると,すでに17世紀半ばから,その明暗の対比の見事さと素朴な家族の親密さを写実的に描いていることから,レンブラントらしい作品として高く評価されていたが,1950年代以降疑義が提起され,ゲルソンもおもにレンブラントの年代的特徴(1630年代の構成上のキアロスクーロと1640年代の乾いた雰囲気)が混在していることから工房作品と推定し,最近のRRPによる検討では,使われている板がオークではなくスペイン産の杉でこれは1630-40年代のレンブラント作品では良く見られること,人物の位置取りの跡と小さな描き直しは模写ではないこと,は確認されたものの,光と影の配置の乱れ(輝度を表す厚塗りインペストを遠い燭台にも使っている・聖アンナの影が大きすぎるなど)や構図の空間的曖昧さ(遠近の二平面的配置・階段の構造の不自然さなど),重要でない対象物も細部にわたって描写していてメリハリのないこと,からレンブラントの真筆ではないが,1640年代に製作されたレンブラントおよびその工房での一連の「聖家族」のグループの一つとして考えられると結論付けられている.
追記  Gersonの1640年代の様式についての記述は赤褐色に支配されたやや生気に乏しい画面という意味かもしれないと思ったが,原文を確認したところ,「描き方は1640年代様式だが1645年の『聖家族』などと比較すると"much dryer"」と述べているだけで,いずれにしてもこれに1630年代の構図が共存しているという主張であった.

S・ライスダール「エマオへの道」1668年 画布 INGコレクション
 私見ながら,サロモンの晩年の作品で筆致は彼のものですが,色遣いは小ヤコブとして知られる息子のヤコブ・サロモンスゾーン・ロイスダールをも連想させ,構図は決まっているが様式的.前景の土手の褐色の部分などのコンディションもあまりいいとはいえません.中央に立っている三人は復活したイエスとまだそれとは気づいていない弟子たちです.