泰西古典絵画紀行

オランダ絵画・古地図・天文学史の記事,旅行記等を紹介します.
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東西のvolvelle(1)-古・星座早見盤(i) the New Astronomical Instrument, by James Ferguson, 1757

2011-12-31 15:33:01 | 天球儀と西洋古星図


45 x 31.5cm (17¾ x 12 3/8in.)

 現存する中では大変珍しい*18世紀半ばに製作された星座早見盤で,planisphere平面天球図にvolvelle回転盤の仕掛けを付けたものです.これに先行して盛んに用いられたのはastrolabeアストロラーベ(ギリシア語でstar finderの意)ですがそちらは星図ではなく,この金属製の複合円盤の使用方法は様々であったようですが,航海時の位置測定用の読み取り尺として,主に垂直に吊り下げて星々に照準を合わせて回転盤を回しその高度を読み取るのが一般的でした.
 volvelleも,天の動きを読んだり,時刻や潮時を知るために作られたいわばアナログコンピュータですが,これが発明されたのも,やはり古代ギリシアまで遡り,その後アラブの学者に伝わりましたが,ヨーロッパの古文書に現るのは13世紀頃です.そして,紙製のものが広く活用されるようになったのは印刷術の発達を待たねばならず,15~16世紀になってでした.後日アピアヌスの「宇宙誌」をご紹介したいと思いますが,これには多数のvolvelleが付いており,de Sacroboscoや, J.Schoener, S. Muensterらもvolvelleを製作しています.ただし,これらは星図ではありません.

 星図ないし天球図は17~18世紀のオランダやドイツで盛んに出版されました**が,携帯用の星座早見盤として利用できるvolvelle付きの星図の嚆矢はN. Voogdioが1680年頃にアムステルダムで製作した星座盤のようです***.

 これは星座の図像を伴って六等星までが描かれた,天球を外から見た鏡像の星図の外周に十二宮と月日が刻まれ,その直径は32cm,その中を水平線を示す細身の楕円環が回転するようになっています.
 その後,英国のJohn Flamsteedが1725年に初めて望遠鏡を用いた北天の星の位置と光度の有名な星表をまとめ,17世紀後半から18世紀は英国が天文学の中心になりました.

 ここで提示するのはスコットランド人のJames Ferguson(1710-1776)によって1757年にロンドンで製作されたもので,やはり銅版で印刷された紙を使用しており,地上から見たままの星図・星座図が描かれ,回転盤は二枚用意され,日付と時間に併せて,上の回転盤に開けられた楕円の窓から,下の回転盤の星図を見るようになっています.星図の直径は18cmで,南緯40°までの三等星以上の星々が描かれていますが,これは星の数としてはアストロラーベよりは多く一般的な天球図よりは少ないですね.

 タイトルの下には,日付,月齢,日月の黄道上の位置,日・月・三等星までの星々の出・南中・没の時間が1756~1805年まで示されるとあります.


 台紙の暦日の目盛環の上に二つの回転盤が付けられ,上の円盤に
は外周に24等分された午前・午後12時間の5分刻みの時刻の目盛りがあり,その内周には月齢を新月・半月・満月で表し,内部には偏心した楕円の窓があり,下の円盤の北天の星図が見えるようになっています.窓の周囲には略語で方位が示され,窓を縦断する0-90-0°の高度目盛の物指があります.他には1756~1780年と1781~1805年に左右振り分けられてその年の1月の新月の平均時刻 の表と,中央に日付の万年暦がDominical letters (年による曜日の規定の表現で日曜日がA~Gで表される)で割り当てられて書かれています. 下の円盤には中央に星図が描かれ,その周囲,上の円盤の外側に,日付と十二宮の日付が刻まれ,最外周に月齢がイラストで1年分描かれています.
 下段には使用方法の説明の終わりにJ. Ferguson delin. の署名,その枠外の下方にPublished Aug. 29.th 1757 according to Act of Parliamentとあります.説明をよく読んでいないので,現時点では台紙の日付環の意味がいまひとつ理解できていません.

 ファーガソンは1757年にそれまで製作販売していたSenexの地球儀・天球儀の原版をBenjamin Martinに売却し, この天文分野で暖めていた新製品を世に問うたようです.これは実際には1742年に製作した星図と一体のAstronomical Rotulaの改良版でした.サイズはまだ大きいですが,都会の自宅から夜空が観望できた時代この程度でも紙なら十分携帯できたのでしょう.


 ファーガソンの後に,1780年に製作されたSimeon de Witt (1756–1834)のものは米国最古の星座盤で,Simeon De Witt's Star Mapのリンク先は2010年5月からワシントンのスミソニアン国立博物館で特別展示された"The Cosmos in Miniture:The remarkable Star Map of Simeon de Witt"のサイトで,下の方には日付で早見盤が回転する様子が再現されています.基本はファーガソンのものに似ていますが,ニュージャージーの緯度から見た星空をより小型ながら暗い星々を描き,回転盤の上に1781~1826年までの万年暦を加えています.

*the British LibraryのMap Collection(K.190)とスミソニアン国立博物館にそれぞれ一点保管されています. もちろんこれしか存在しないわけではなく,2003年11月にクリスティーズ・ロンドン(SK)で"extremely rare"として出品され図録の表紙にもなっていたのですが,残念ながらシミやヤケで状態が良くはなく,控えめな評価額£2-3,000に対し£1,800足らずで取引されていました.
 本品は,日本の先達の蒐集家から出たものとのことで日本の書店で購入できたのですが,円盤の窓の物指に修復の後がある以外,紙の状態は大変良く,良く集められたものだと感心しました.以下の星表が一緒になったおまけ付きで,これは"TABLE of the RIGHT ASCENSIONS in TIME and DECLINATIONS(with their ANNUAL VARIATIONS) of Forty-Four PRINCIPAL FIXED STARS, Computed for the 30th of June, 1772, with the Times of their TRANSITS over the MERIDIAN the last Day of each Month, according to Mwan and Civil Time. Also, a TABLE of the ACCELERATION of the FIXED STARS, from One Hour to Thirty-Two Days."と付表から成り,ファーガソンの星座盤の倍ほどの大きさで,1772年とあり,主要な44の恒星の出と入りの時刻とその歳差,1772年の毎月末の子午線通過時刻を,例えば一行目はペガサス座γ星(翼 2等星)について,秒までの単位で記載しています.詳細についてはまだ調査不足ですが,彼の存命中のものなので,当時もともと添付されたのかもしれません.


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星図の歴史についてはLinda Hall Libraryの企画展"Out of This World"のサイトや下記Kanasの著書が入門書として一般的です.Warnerの著書は古いですが詳しく網羅的です.

***MILLBURNの著書を読んでいないので,不確実です.

[文献]
・N.Kanas,Star Maps:History, Artistry, and Cartography, 2007/9, p.234.
・D.J.Warner,The Sky Explored:Celestial Cartgraphy 1500-1800,1979. p.79
・J.R.MILLBURN, Wheelwright of the Heavens, 1988. pp. 90-1


Communication:Visualizing the Human Connection in the Age of Vermeer at Bunkamura Museum of Art

2011-12-22 23:33:19 | 古典絵画関連の美術展メモ
    Last night, we were invited to a diner party at the Dutch Embassy in Tokyo in honor of the visit of Vermeer's "Woman in blue reading a letter" from the Rijksmuseum collection.

    It was so intimate that we sat and spoke with the ambassador, Mr. Pijbes(the general director of Rijks) and many Rijksmuseum stuffs for a long time. They were so kind and warm that we enjoyed with all our heart, with delicious foods and a quartet accompanied playing Mozart and Puccini. 
    It was a great pleasure for us indeed, and I dare say, I spent one of the most splendid and exciting time in my life.

    Also, today there held an opening ceremony of the exhibition. I skimmed the paintings at previous location in Kyoto, it was too crowded to look at. So, this time, I had enough time to enjoy the beauty of the genre paintings.
    The blue of the restored Vermeer's "Woman(Girl) Reading a Letter" is so vivid!  I was surprised to hear that the lower part of the canvas was rather heavily worn.
    Most of my favorite good genre paintings are calm, like as "A Lady writing".
    Besides three Vermeer in a room(!), and many masterpieces from Rijks, for example, de Bray's family portrait and de Hooch's "Coutyard", one of my best on this exhibition is Metsu's "A Woman with a Book at a Window". Her face in profile and red costume are striking, which shows a strong influence from Salomon de Bray.

    The ambassador told me that he greatly enjoyed Dou's "A Scholar Sharpening a Quill pen", meticulously painted, and the theme is so intimate.
    Both are from American private collection. I admire his so great collection with good Lievens, Bol(but restored), de Man, and so on.

Blaeu's Nova Totius Asiae Tabula ブラウのアジア壁地図1686年

2011-12-07 00:13:22 | 西洋の古地図


Auctore Joannes Blaeu Amstelaedami./ Jo. Jacobus de Rubeis/ Formis Romae.
83x110cm


 Willem Blaeuの壁地図には世界地図と四大陸図などがあり,これらの豪華版は中央の大きな地図の周りを人物像や都市景観図などで縁取った(マージナルと呼ばれる)もので,世界図にはメルカトル図法で描かれた初版と東西半球図で描かれた版がある.前者はマージナルに「泰西王侯騎馬図屏風」の基絵となった図像がくだんのカエリウスの1609年模倣版に求められており,その原版としてW・ブラウが1606/7年に刊行した図が知られているが写真が残されるのみですでにこの世には存在していないらしく,半球版のほうは息子のJ・ブラウによる1646年版がロッテルダム海事博物館に所蔵されており,こちらのマージナルにも王侯騎馬図が上段に描かれている.

また,徳川幕府献上品から国立博物館に伝わる1648年フィッセル改訂版も良品である.
 大陸図は1608年に刊行され,第二版は1612年に製作されたが,原版はHendrik Hondiusの手に渡って1624年頃に再版された後,さらにClaes Janzoon  Visscherのもとで1655-7年に再度刊行された.これらは極めて稀にしか残っておらず,最近では初版の三枚だけが1979年スイスで発見されているのみである.
 ブラウのこれらの壁地図は西欧の貴族や商人の館で大いに需要があったが,非常に高価なことと運搬に適しなかったようで,次第にイタリアにおいても出版されるようになった.恐らく1646年頃にStefano Scolari がヴェニスで新たに版を起こして出版した後,第二イタリア版は1667年にローマでGiovanni Giacomo de Rossi(ラテン語名Johannes Jacobus de Rubeis)によりやはり新版で刊行された.第三版も新版でTodeschiにより1673年頃ボローニャで刊行され,この版はブラウのオリジナルに非常に正確と評価された.これらのいずれも現存は稀少である.
 さてロッシ家はローマの著名な地図製作業者であったが,しばしばブラウらがオランダで製作した地図から地理情報を借用して再版していた.Giovanni Giacomoの兄Giovanni Domenico de Rossi (1619-1653)は1652年にブラウの四大陸の壁地図を銅版製作者Daniel Vidmanに二枚版の画面に縮小して版を作るように命じ,Giacomoが1670年の刊記の入った67x95cmの版Totius Asiae nova et exacta tabula ex optimus tum geographorum tum aliorum accomodata per Gulielmum Blaeu. Amsterdam [but Rome] を得て刊行した.これが上記の第二イタリア版である(1679年再版).なおロッシ家は1665年に教皇Alexander VII世から夏の宮殿を地図で装飾する注文も得ており,後に四枚版の画面でブラウに倣った新版を製作した.
 ここに提示したのはこの版で1686年の刊記があり,Joan(=Johannes) Blaeuの図に基づく中心の大地図のみで周辺の装飾図は伴っていない.すでにこの時代にはアジアの地の新発見が進んでいたので,その時代の約80年前の「古地図」として装飾的な要素が大きかったのかもしれない. これは15世紀の地図に見られるような伝説legend,異国の人種の営みや動物,果ては怪獣や魔物などを描く慣習の名残からも読み取れる.









タイトルと小アジア部分


Ierusalem, Damascus, M.Sinaiなどの地名が見える.シナイ山に向かう人が見える.



日本と中国付近






















Schilder, Monumenta Cartographica Neerlandica V 1996 p.199-202