泰西古典絵画紀行

オランダ絵画・古地図・天文学史の記事,旅行記等を紹介します.
無断で記事を転載される方がありますが,必ずご一報下さい.

18世紀オランダ製望遠鏡

2010-09-26 00:06:18 | バロック以降の西洋工芸品


 反射鏡の精度の高さで18世紀オランダでは有名な望遠鏡製作者であったフリースラント州のJAN VAN DER BILDT (1709-1791)作の真鍮製望遠鏡で全長35cm,高さ約40cm.鏡筒の接眼部側にJ.van der BILDT.FRANEKER.No.543の銘あり.反射鏡は金属製でスペキュラム合金という青銅の一種らしく,これは銅Cu68.2%,錫Sn31.8%と錫の含有率が高く,それによって反射率の高さ(61%程度)と分光反射率の均一性(銅だけでは長波長の反射率が高くて赤みが残る)と耐蝕性が期待出来ますが,脆いので20世紀半ば以降はもう作られていないそうです.
 現物が届いていないのですが,グレゴリー型反射式望遠鏡で,長野市の真田宝物館に現存するオランダ製の金属製反射望遠鏡と写真で見る限りは瓜二つでした.


 望遠鏡を発明したのは一説にはダ・ヴィンチであるとか,1611年のケプラー書「屈折光学」にナポリのデラ・ポルタが20年前に望遠鏡を発明したといった記述などもあるらしいが,一般的には1608年にオランダ・ミッデルブルクの眼鏡職人ハンス・リッペルスハイHans Lippershey(1570-1619)がレンズ2枚を組合わせた望遠鏡を特許申請したことが起源とされ,その報を受けて,イタリアのガリレオも1609年に望遠鏡を自作して初めて天体を観測したため,この低倍率正立像を生む対物凸・接眼凹レンズの組合わせをオランダ式(ガリレオ式)と呼んでいます.日本への伝来は1613年とかなり早く,イギリスのジェームズ1世から徳川家康に献上され,諸大名は天球儀とともに望遠鏡「遠めがね」も実用を兼ねて競って長崎から入手したようです.

 望遠鏡の開発は,倍率と分解能を得るための大口径化と収差(色収差や球面の屈折によるザイデルSeidelの五収差[球面・コマ・非点・歪曲・像面湾曲収差])との戦いでした.グレゴリー式は1663年イギリスのジェームス・グレゴリーが記載した初めての反射式望遠鏡で(実際に製作されたのは1668年のニュートン式のほうが先んじた),反射式では色収差が生じず,反射鏡のほうがレンズより研磨面が少なく,かつ裏面を支えられるので大レンズのような自重によるたわみが無く製作しやすいため,より大口径の光学系の製作が可能であるという長所がありました.このシステムでは球面収差の対策として主鏡は放物凹面,副鏡は楕円凹面鏡で,主鏡から副鏡を経た光を主鏡中央の穴から後方に導く方式で,正立像となるため地上用としても用いることができ,焦点距離が長く倍率も稼げたようです.比較的小型のものでは,筒の横から覗くニュートン式よりも使い勝手に優れていたので18世紀の欧米では盛んに製作され,紳士のたしなみとして‘gentleman-scientist’,あるいは知識人のアマチュア天文学者がこぞって求めたといわれています.

小型反射望遠鏡の回りに集う商人にして天文学者のJan De Munck?とその家族 1750年頃 アムステルダム国立美術館

 18世紀初頭,光学は英国がその中心だったようですが,オランダでは前世紀末にHuygensホイヘンス(ハイヘンス・ハイゲン)がレンズの製作において有名で,グレゴリー式反射鏡の製作は英国からアムステルダムを経てフリースラント州に広まり,18世紀後半には反射望遠鏡生産の中心地の一つとなりましたが,なかでもJan Pietersz van der Bildt I世はその第一人者でした.詳細はZUIDERVAARTの論文Reflecting‘Popular Culture’: The Introduction, Diffusion, and Construction of the Reflecting Telescope in the Netherlands(ANNALS OF SCIENCE, 61,2004 英文)に記述されていますが,彼は1745年から40年間のうちに少なくとも反射望遠鏡550台を製作したそうで,その大多数はグレゴリー式でした(同論文p.444-6).自分の子供がより質の劣る製品を作り始めたため,1768年頃から通し番号を入れ始めたとのこと,現存で知られているのはNo.316からLouwman collectionの536と同論文には記載されていますが,当館所蔵品No.543はそれを上回り,晩年の1770/80年代の製作でしょう.ユトレヒト大学博物館やライデンのBoerhaave博物館などにも彼の望遠鏡が所蔵されて残っているそうです.

望遠鏡を持つJan van der Bildtの肖像(フラネケル市所蔵)

 江戸時代には国友藤兵衛(一貫斎)が1834年に日本で初めて同形式の望遠鏡を製作しました.口径60mm・合成焦点距離3500mm,焦点距離50数mmの接眼レンズでは倍率70倍弱で,この中には現在でも使用に耐える反射能を残すものがあるそうです.

 私も20世紀天文少年で,反射望遠鏡を自作したり,天文ガイドという雑誌に投稿写真が掲載されたこともありました.遠い昔の話です....事の始まりは小学生低学年の頃,模型店で買ってきてくれたのでしょうか,父親がプリンス光学(いまでも営業されているのですね)の口径8cmの天体望遠鏡自作キットを,架台も木工で作ってくれたのです.鏡筒がボール紙製だっので夜露にぬれないようにと父の塗ってくれたニスの匂いが,思い起こすと鮮明に蘇ります.その説明書小冊子にザイデル収差のこと,「色消し」アクロマート・アポクロマートレンズのことが書かれていました.それから5年ほどして,高橋製作所の10cmニュートン式反射赤道儀を誕生祝に買ってもらったのを手始めに,自作・既製品を含めて社会人になるまで望遠鏡は増えて行き,よく天体写真の撮影に出かけたものでした.


損保ジャパン東郷青児美術館 ウフィツィ美術館自画像コレクション-巨匠たちの「秘めた素顔」1664-2010

2010-09-19 10:53:53 | 古典絵画関連の美術展メモ
 損保ジャパン東郷青児美術館では,プラート展,ペルジーノ展,ジョット展に続く4番目のイタリア美術展と位置づけている.金曜の夕べギャラリートークを拝聴した.
 主任学芸員の中島 啓子先生によるギャラリートークは,イタリアとフィレンツェの歴史から.以下は個人的復習.
 イタリアは古代はローマ帝国の中心であったが,4-5世紀のゲルマン民族の大移動(375年フン族の外圧でゲルマン人のゴート族が南下,帝国領への侵入に端を発す)で395年ローマ帝国が東西に分割相続され,476年西の帝位は消滅し西方領土は失なわれたが(ヨーロッパは古代から中世に移行),同地に勃興していたフランク王国のカール大帝が800年ローマ教皇より西ローマ帝国皇帝の称号を得,コンスタンチノープルに首都をおいた東ローマ帝国から自立した.843年フランク王国は東(神聖ローマ帝国:いまのドイツ)・中(オランダからライン川流域を経てイタリアに至る帯状の地域だったが北部領土ロタリンギア[ロートリンゲン(ロレーヌ)]が東西フランク王国により吸収され,集約していまのイタリア)・西(いまのフランス)の3つに分割され,963年イタリア半島の中フランク王国は神聖ローマ帝国の支配下となる(イタリア王位として皇帝が兼任).
 その後,フィレンツェなどの都市では貴族や商人による支配体制が進み12世紀には自治都市となり,13世紀半ば皇帝不在の大空位時代に神聖ローマの支配権が弱体化し,毛織物と金融業で富を蓄積したフィレンツェはトスカーナの大部分を支配するフィレンツェ共和国の首都になった.15世紀前半コジモ・デ・メディチは下層階級と通じて共和国の支配者となり,その孫のロレンツォの時代にはルネサンスの中心地として黄金期を迎える.1494年フランスへの屈辱的譲歩によりメディチ家は一時追放されたこともあったが,1569年コジモ1世が教皇からトスカーナ大公の称号を授与され,フィレンツェはトスカーナ大公国の首都となり最盛期を迎えた.この時期にヴァザーリが迎えられている.17世紀にはいると地中海貿易の低迷などでイタリアの衰退が始まり,1737年にメディチ家の継承者は途絶え,オーストリアのハプスブルク=ロートリンゲン家に継承された.

 続いて,ウフィツィ美術館の自画像コレクションの歴史と展示内容について.
 1581年フランチェスコ1世が宮の最上階に収集品を陳列して近代西欧最古のウフィツィ美術館が誕生し,1765年には一般公開された.戻って1664年に大公の弟にして枢機卿のレオポルド・デ・メディチは,「自画像が芸術家のスタイル・芸術館・世界観・自意識などのすべてを内包している」と考え,各国の目をフィレンツェに向けさせる文化戦略の象徴として「自画像コレクション」を創始し,現在に至るまでコレクションは1,700点以上に成長している.ルネサンス以後の自画像は,ピッティ宮(メディチ家の住居・現パラティーナ絵画館)と16世紀に造られたウフィツィ宮(office庁舎)(さらにヴェッキオ宮)とを結ぶ約1kmの「ヴァザーリの回廊」に展示されているが,ここからの十数点(約1/4)に収蔵庫の作品を加えた約60点が今回展示されているとのこと.大阪のみで展示される作品が少なからずある.

 展示は年代順に五部構成で,解説は数点をピックアップして回られた.

1.レオポルド枢機卿とメディチ家の自画像コレクション 1664-1736 14点
 フィレンツェ派・ローマ派・ロンバルディア派・エミリア派・ヴェネツィア派・イタリア以外の派に分類した展示
 当時は絵画は外交上の贈答品・画家が外交官を兼任する場合もあった
・プリマティッチョ 1525/32年 ハプスブルク家のカールⅤ世と,イタリア諸都市に進出していたフランソワⅠ世との確執からイタリア戦争が起こり,神聖ローマ帝国のローマ侵攻後,プリマティッチョはフィレンツェからフォンテンブローに移りフランス美術・同派の基礎を築いた.自画像はその時期の制作
・フォンターナ 1570/75年 銅版にミニチュアール風・ティントレッタ(ヤコポ・ティントレットの娘) 1580年頃:ともに女流画家 自らの芸術の才能を画中に示す 自画像コレクションでは圧倒的に男性が多いが,展示のバランスを考えて女流画家を増やしたとのこと
・アンニーバレ・カラッチ 1603/4年 ルネサンス(古典主義として静かなる偉大さ〔モニュメンタル〕を表現.新プラトン主義の解釈では芸術家がイデアの具現者として誇りと地位を高めた)からバロックへ移行期の代表的画家(バロックの柱から天井・天蓋を騙し絵で壮大に見せる様式を確立)であるが,当時もう一人のバロックを代表するリアリズムの画家カラヴァッジォに契約をとられ苦悩していた晩年の作品
・ベルニーニ 1635年頃 ボルゲーゼの大理石彫刻などに代表されるバロック芸術の巨匠であるが,光と影がバロック風であること以外は,普通人として描かれている
・レンブラント 1655年頃 自画像が自己探求の表現手段となる (とくに真筆性については触れられず)

2.ハプスブルク=ロートリンゲン家の時代 1737-1860 12点 フランス革命で欧州が近代化の波にのまれていった動乱期,ロココから新古典主義への移行期
 有名画家も自分の絵が展示される際には,男性はその才能を自慢し女性は美しさを誇るらしい
・レノルズ 1775年 ミケランジェロの模写素描を持っているのは,自らが英国に広めたことを誇っている 
・マリー=ルイーズ=エリザベート・ヴィジェ=ル・ブラン 《マリー・アントワネットの肖像を描くヴィジェ=ル・ブラン》1790年 女流画家は35才頃とは思えない輝くばかりの若さと美しさ.この作品が画架に乗せられた図があるのは当時から人気が高かったことの裏づけ. ル・ブランはフランス革命後,アントワネットの兄がトスカナ大公だったためフィレンツェに身を寄せた.

3.イタリア王国の時代 ベックリン(代表作「死の島」はフィレンツェで制作.この自画像は老齢のため息子が制作した)・象徴主義のシュトックやラファエル前派のレイトン卿,ドニなど13点
 イタリアでも独立戦争が起こり,トスカーナ大公国はイタリア王国に合併され,1865年にはフィレンツェが一時その首都となり(その後ローマに遷都),当時の新興住宅地が「イタリアのモンパルナス」と呼ばれた.
 自画像の収集はフィレンツェ在住の画家ないし各国の公的機関を通していたため,在野にあった当時の印象派はその対象から外れ,その後は作品高騰により入手できなかったという.

4.20世紀の巨匠たち シャガール(自ら寄贈)・キリコ・ブルネレスキ・フジタなど15点
 前衛芸術家は権威に対する反骨精神のためか金銭感覚のためか,ピカソらは寄贈に応じなかったという.

5.現代作家たち 世界的な自画像寄贈キャンペーンの一環として,会期直前に日本から草間弥生・横尾忠則・杉本博司画伯の作品の寄贈式があったそうだ.計11点
 横尾画伯の作品は自らのデスマスクならぬ眠り顔のライフマスクを日本地図の中央に配し「眠ってる私、静かにして」(低迷している日本に)「早く目覚めよ、という逆説的な意味を込めた」と解説されており,アンビバレントな状態を表現したらしい.杉本画伯の作品は,牛乳瓶の底のような眼鏡をかけた自画像を描いたカンヴァスの周囲に,のみの市で集めた多数の古い検眼鏡と地図を配し,ゆがんで見える眼鏡は「どれだけ常識と違う見方ができるかがアーティストの基準になる」ため用い,周囲の個々の眼鏡は別々の目的で使用されることを示しているとのこと.1mのサイズの制限があるのだが,額が鉛で重くて壁掛けだけでは不安だったため支持台を用意した由.


 以下は個人的感想.
・第1・2章にまたがって16世紀絵画5点,17世紀絵画6点,18世紀絵画10点
・収穫はJ・ベルクヘイデ,F・ミーリス父,それにアングル,そしてなによりル・ブラン

・ヨプ・ベルクヘイデ(1630-1693) 1675年 

 以前紹介した書籍"Die Selbstbildnisse der Hollaendischen und Flaemischen Kuenstler in den Uffizien"の表紙を飾っている作品 ヨプは17世紀後半のハーレムで活動し都市景観や教会内部を描くほか風俗画家として知られている.この作品ではアトリエで絵を描くポーズをとってこちらを凝視しているが,この絵を観る者はあたかもモデルになっているような錯覚にとらわれよう.この様な絵を描いている画家の自画像というモティーフはとくに17世紀半ば以降よく描かれており,多くの場合,画家が自分の才能・技量を誇る手段として手元において,作品を求めてきた未来の購買者にアピールする目的があったのかもしれない.
 目に付くのはテーブルに置かれた彫像・楽器と楽譜・コンパス・パイプにワイングラスだが,これらは五感の寓意でそれぞれ視・聴・触・嗅・味覚を表している.また,コンパスは幾何学を連想させるが,例えばデューラーの銅版画「メランコリア I」の図像解釈では幾何学・占星術のシンボルと神話との結びつきから,サトゥルヌスは幾何学を統べる者であるといわれる.パノフスキーによれば*「(かの神の)もとで生まれた人間はメランコリーにならざるを得」ず,新プラトン主義では「サトゥルヌス的な憂鬱と天才とを同一視」する.その「子供たち」の一部(=芸術家)はメランコリーな気質により瞑想から芸術の霊感を得て美を創造する.同様に楽器もメランコリーを表していると言う.
 室内画の設定では光取りの窓は必ず画面の右に存在するが,この作品のように自画像になると利き手が右だと画面に影が出来てしまうので虚構の設定かもしれない.壁にかけられた画中画は,現在,フランスハルス美術館に伝わっているが,実物とは左右反転して描かれているので,画面全体が鏡像として描かれていると考えるのが妥当であろうが,その場合ヨプの利き手は左手になるのだろうか.ちなみに,この画中画では実物の自画像には描かれていない金のメダイヨンを首に下げているが,それはハイデルベルクで活動した際に同地のプファルツ選帝侯から贈られたものらしい.
Saturn and Melancholy 土星とメランコリー 自然哲学、宗教、芸術の歴史における研究 レイモンド・クリバンスキー アーウィン・パノフスキー フリッツ・ザクスル 邦訳1991年,晶文社
*エルヴィン・パノフスキー「イコノロジー研究」p.71.邦訳1987年,美術出版社


・フランス・ファン・ミーリス父(1635-1681) 1676年

 前に並んだ女子大生風のお二人が「うまいよねー,でも有名じゃないよねー」と語らっていたので,「ミーリスはレンブラントのライデン時代の一番弟子のダウの一番弟子だから結構有名で,海外では回顧展も開催されている」と教えてあげたくなってしまった.ライデン精緻派の代表格の一人である.ただ,ミーリスとしては晩年の作品で影付けが強くなっており,この絵の顔は美しいとは言いかねるが.
 たかだか22x16cmの画面に緻密に描かれたサテンなどの輝くような質感,筆の跡が殆ど見えないことに注目していただきたい.弾いているのはTheorboという楽器らしい.
 O.Naumannによれば,1672年コジモ大公からミーリスへの自画像の注文にアーチトップ型の他の作品に合わせるようにという指示があり,これに合致することから本作がこの注文制作をうけた自画像であると仮定されている.ミーリスの自画像は他にも注文制作があったようで,美術史上,商品として自画像を描く様になっていたことは興味深い.ちなみに没後300年の1981年に出版されたNaumannのレゾネの時点でミーリスは少なくとも自画像を7点,自画像と推定されている作品7点(本作も含む),自身が描きこまれている風俗画を17点描いていることがわかっている.ちなみに自画像をダウは14点ほど,レンブラントは50点以上描いている.
 
・レンブラント(?) 1655年頃

 もともとこの時期の作品は荒い筆致が個人的にはあまり好きではないのだが,この作品はレンブラントの追随者によることで見解は一致しているようだ.Bredius/Gerson45番で「Sliveがcopyであるとしている.厚い変色したニスの下では判断が難しいがSliveは確かに正しい.X線像では淡く下書きがある」とのこと.Tumpelは未記載.CorpusⅣに掲載され12番[要確認].暗部のコンディションはまあまあで結構補彩がある.顔のハイライト部分のモデリングも厚塗りのインペストがやや単調のようだ.確かに印象は弱い.義弟のプファルツ選帝侯からメディチの大公に贈られ1773年コレクションに加わったそうだ.
 ウフィツィはレンブラントの自画像を他に2点持っているが,1634年の自画像は帰属作品でBredius/Gerson20番.Tumpelは未記載で,CorpusⅢB11.これは作品としては好感が持てる.もう一点は1669年最晩年の自画像.Bredius/Gerson60番でCorpusⅣ28番.真筆であると見解が一致しているウフィツィ唯一の作品.
 
 Bredius/Gerson20                      Bredius/Gerson60

・以前から思うのだが,ル・ブランの自画像では上の前歯に隙間があるように見えるのが気になる.ご愛嬌か.


 展示の解説ボードには参考図版も掲載され理解を助けていた.前述の書籍を持っているので今回は図録を購入しなかった.記述に誤りがあればご教示ください.


東京富士美術館 「ポーランドの至宝 レンブラントと珠玉の王室コレクション」complete

2010-09-12 20:19:16 | 古典絵画関連の美術展メモ
東京富士美術館 「ポーランドの至宝 レンブラントと珠玉の王室コレクション」

 割と混んでいると聞いたので,午後3時に時間をずらして来訪したつもりが,ひどい混み様.上野なら日を改めるところだが1時間半かけて出てきたので,図録を購入しお茶を飲んでやり過ごす.結局,比較的ゆったり鑑賞できるようになったのは,最終の4時半になってから.後で知ったのだが,今朝の新日曜美術館で放映されたためか.子供さん連れも多く学会の方も結構いらっしゃっていたようだ.


 展示は三部構成で,ここでは第一部の珠玉の王室コレクションの絵画についてだけまとめてみた.ちなみに,第二部は国立美術館所蔵の19世紀のポーランド絵画.第三部はコペルニクス,生誕200年のショパン,キュリー夫人に関連する作品・資料の展示だか,これはご愛嬌.館の展覧会サイトの下の方に展示リストが追加されていました.

 ポーランドの歴史的コレクションは以下の運命を辿ったが,今回,再建されたワルシャワ王宮と旧都クラクフの王宮ヴァヴェル城に現存する作品が公開されている.これらにはベロット作品のように同地に残されていたものもわずかながら存在するが,殆どはソ連から返還されり,寄贈された作品である.とくに重要なのはウィーンのランツコロンスキ伯爵旧蔵品で,一部はウィーン美術史美術館の所蔵になったが(多分略奪品返還の機運で[要確認])2000年に遺族に返還され,これらも含めて遺族からポーランドに寄贈された.ワルシャワ王宮現蔵のレンブラント2点もこれに含まれ,また同家はそれ以前にもイタリア絵画80点以上をヴァヴェル城に寄贈している.
 気になったこととして,ヴァヴェル城に所蔵される国立のコレクションとしてドラクロアやバルビゾン派3点も展示されているのだが,これも寄贈品だろうか.図録にはとくに何の記載もないし,解説の文献をみても,本来掲載されるべき文献リストが落ちているので詳細がわからない.解説者のイニシャルの凡例もない.

・16世紀後半,ポーランド=リトアニア共和国国王ジグムント・アウグストのブリュッセル・タペストリーのコレクション
 ポーランド分割時ロシアに略奪された後,1920年代にソ連から返却されるが,第二次大戦はカナダに疎開し1960年ごろ帰還した.ノアの物語に主題を取った作品群が有名.今回はヴァヴェル城から小ぶりの図案作品が数点のみで,物語の場面は来ていない.

・18世紀後半,同国王スタニスワフ・アウグストの絵画コレクション
 1795年に王個人で油彩画2289点(多くは教育用の模写)を収集し,レンブラント・ルーベンス・ヴァン・ダイクに傾倒するが,フランス革命後のロンドンで画商デセンファンを通じイタリア・フランス絵画も加えて,さらに購入が進められた.しかしながら,同年のポーランド分割,98年の王逝去で,追加される予定だった作品群は売却され,F・ブルジョア卿の手を経て,ロンドン郊外にあるダリッチ絵画館の核となる.
 すでにワルシャワにあった作品も略奪などにより失われたが,ベルナルド・ベロット(カナレットと通称とあるが,カナレット〔=ジョバンニ・アントニオ・カナール〕の甥.ベロットの方が影が濃くてコントラストが強い印象.カメラオブスキュラを使っていた筈.絵画的写実の極み)がワルシャワの都市風景を描いた景観画(ヴェドゥーダ)は居室の内装として残った.ここから5点が展示されていて,なかなか壮観.


 17世紀オランダ・フランドル絵画は8点.以下,展示順に気付いたことに触れる.

5.「王太子ヴワディスワフ・ジグムント・ヴァーサの美術蒐集室」1626年

 72.2×104cmとそこそこのサイズがあるので,小ぶりの写真では大変細密に書いてあるように見える.上部中央のヤン・ブリューゲルの風景画など実際細密には書いてあるのだが,超絶技巧ではない.ただし,右端の黄金の彫像の質感は実物も素晴らしく,写真では驚異的である.ルーベンスの時代のアントワープには細密画で傑出した才能の画家がいたのは確かで,オークションでも時々出品されているが,年記もあって製作依頼者もはっきりしているのに,逸名画家となってしまっているのは残念である[要調査].王太子は先年にルーベンスの工房で画中画に描かれている「シレノスの酩酊」を購入しているが,この作品が唯一その証となっているそうだ.

10.メツーの「窓辺で洗濯をする女」(17c半ば)

 ダウ以来の風俗画として一般的な主題で「仕事に精を出す働き者のオランダ女性の美徳」を表し,メツーらしい質感豊かな細かい描写ではあるが,人物の繊細さは今ひとつ.多分肌には修復がそこそこ入っていると思う.
 スタニスワフ・アウグストが購入した作品でロシアに売却したが,ソ連から返還.第二次大戦で所在不明となったが,93年サザビーズのオークションで再発見され,寄贈された.

11.ヤン・フェルコリエの「ヴィオラ・ダ・ガンバを持つ若者」(1670年代)

 図録の写真などではわからないが,現物を間近で見ると画布で結構擦れていて,顔の補彩も目立つ.とくに切れ長の目の上下の瞼があまりに直線的で,これも補彩なのかと疑ってしまった.
 ヴァージナルに刻まれているのは「この世の栄光は過ぎ去る」とのことで,若さと芸術の儚さ(ヴァニタス)を示している.
・・・この2点と下記ド・リヨンなどの小品は,カバーで覆っているだけなので間近で見られるが,それ以外の比較的大きい作品は,レンブラントを含めてガラスの向こう1m以上のところにあるので,細部が良く見えない.単眼鏡などが必須必要で,肉眼派は他の巡回先で見たほうがいいかもしれない.

9.ヘイスブレヒツの「ヴァイオリン,画材,自画像のだまし絵」(1675年)
 騙し絵の大家の作品で佳作.これも画布なので,擦れの目立つところはあるが.

8.《机の前の学者 油彩・板 105.7×76.4cm 1641年》

7.《額縁の中の少女 油彩・板 105.5×76.3cm 1641年》「レンブラントのモナリザ」と呼ばれるらしい.

 これら2点はスタニスワフ・アウグストが1777年に入手した最重要の名画で,当時は同じサイズであることからも「ユダヤの花嫁」とその「持参金を見積もる父親」を描いた対作品であると考えられていた.王の死後人手に渡ったものをランツコロンスキ伯爵が買取り,1994年にその遺族がワルシャワ王宮に寄贈したとのこと.これらはBredius/Gersonの359・219番で1969年版のレゾネには,対作品としては人物のプロポーションが異なっていること,両作品とも第二次大戦後所在不明で写真で見る限りはレンブラントとは考えにくいと記載されていた.Tumpelはこれらについて記載さえしていない.これらの作品が脚光を浴びたのは,E・ファン・デ・ヴェーテリングが2006年"Rembrandt:Quest of a Genius"を刊行してからであろう.そして,おそらくその中で,対作品ではないが同時期の作品で真筆と考えられていると述べられているのであろう[要確認]

"Rembrandt:Quest of a Genius"表紙 レンブラント「1640年の自画像」ロンドンNG
 これら2点がヘイスブレヒツに続いて展示されているのは,その騙し絵的な効果をアピールするもののようだ.「机の前の学者」では鮮烈なコントラストの効果によって左下に置かれた書類の端が飛び出しているかのように見え,「額縁の中の少女」のほうはもっと直接的に周囲にオランダ様式の黒縁額が描かれ(右上や左下の白い光の反射線は描き込み),少女の手は確かに額縁から手前に出ている.レンブラントの自画像には,ラファェルロに触発されティツィアーノの肘を突いたポーズに模したロンドンナショナルギャラリーの作品Br.34があるがこれも1640年の作である.
私見では,「学者」の方は肌の仕上げがこの自画像に近く蝋のような透明感がある(髭は筆軸でのスクラッチ)が,「少女」のエンヂ色の衣装の仕上げは荒く,こちらはもう少しあとの作風に近い気がする.好みからいえば「学者」に軍配を上げたいが,ともにレンブラントの真筆であろう.この2点だけを見に行くとしても,八王子に行く価値は大いにある.ウェブの画像では気づかなかったが,図録の写真の「少女」の頭部の右上方や顔の左の背景には,構図を変更した塗りつぶしが見て取れるが,多分こちらが修復後で,帽子の角度の変更が明らかとなったようだ[要確認].

6.ホーファールト・フリンクの「若い男性の肖像」(1637年)

 濃密なレンブラントを見せられた後では大いに技量の低さを見せ付けられてしまう.顔面はややゆがんでいるが,エルミタージュにあるレンブラントの「フローラに扮したサスキア」も同じ輪郭だったと記憶している.顔の色表現はやや暗くかつ硬いことも初期の特徴であり,富士美の「犬を抱く少女」とも共通点を感じる.フリンク22歳の年記があるそうだが,もっと若描きではないだろうか.工房に所属した時期(1633年から40年頃)に自分の名前を署名できるかどうかは疑問もある.モルトケのレゾネをレビューすると,本作品は掲載されていないらしいが,エルミタージュにフリンクの同名作品があり,本作品とはモデルも似ているが,エルミタージュ作品のほうが質は高く,これにも1637年の年記が入っていることがわかった.結局,署名が後から追加されたものなのかどうか,間近で見ないとなんともいえないのだが.口元のわずかな微笑みがその後のフリンクの特性となっており,稚拙ながら真筆であることは多分間違いないであろう.

フリンク「若い男性の肖像」(1637年)  レンブラント「フローラに扮したサスキア」部分(1634年)共にエルミタージュ美術館蔵

12.ルドルフ・バックハイセンの「海の嵐」(1702年)
 著名な海景画家晩年の平均的な大作作品.これもスタニスワフ・アウグストが購入し,ランツコロンスキ伯爵の手に渡っていた.

 それ以外の18世紀までの絵画としては,
・ドッシの歴史画(1524年頃)
・コルネイユ・ド・リヨンの王太子肖像(1548年)・・・携行できる小品の肖像画の大家の作品.コンディションはお顔はまあまあ.
・グェルチーノ派のアレゴリー(17c前半)
・ロレーヌ派の音楽の集い(1600-30頃)・・・顔の表現で数人の目が寄っていて解剖学的に破綻しているが,右から二人目のきつい目をした男性の横顔は,トゥールズ・ロートレック美術館にあるラ・トゥールの聖ダダイを想起させる.
・ヴィジェ=ルブランの公妃肖像(1794年)・・・ウェブの画像では顔がのっぺりに見えたのだが,実物はルブランらしい(結構修復が入っているので画像にすると頬の紅さが目立つのだろう).ヴェスビオ山を背景に大気を意識した構図とみたが,解説ではバッカンテとして女神に模して踊るポーズとのこと.肖像画としては珍しいのではないか?
・ほか,例のベロットと,風景や肖像6点ほど

エッチング作品集 by 館長

2010-09-05 09:42:03 | その他の記事

 小生も油彩や木版画を学生の頃,少し学びました.エッチング腐食銅版画は大学時代,別冊アトリエの特集号などで独学で勉強しました.当時,年賀状のために版を起こし,1回に20数枚程度刷っていました.寒冷紗でのインクのふき取り作業がなかなか均等に出来ず,苦労した思い出があります.手元にストックが残っていたので,恥を忍んで,製作順に掲載してみます.横はハガキサイズのままです.


未 上からこすって刷り上げているので,腕は痛くなるし,うまく仕上がりませんでした.


寅 はじめてプレス機を買って刷った作品.首の影の部分などはいわゆるウォッシュですね.


卯 雪上のウサギです.毛並みはうまく表現できました.


酉 羽の質感は良いのですが,枝回りに残ったインクが残念です.


戌 顔はうまく表現できました.体は単調で硬いですね.