泰西古典絵画紀行

オランダ絵画・古地図・天文学史の記事,旅行記等を紹介します.
無断で記事を転載される方がありますが,必ずご一報下さい.

出エジプト記

2011-04-16 20:58:29 | 歴史学

 先日ディスカバリーチャンネルで,「出エジプト記」を科学的に解明する番組が放送されていた.これはすでにケンブリッジ大の自称アマチュアColin J. Humphreys著The Miracles of Exodus: A Scientist's Discovery of the Extraordinary Natural Causes of the Biblical Storiesとして'03年に出版されている仮説を中心に制作されている.番組の内容は基本的に推論であるが,かなりの部分はなるほどと思わせるものがあった.
 冒頭の燃える柴の話は見落としたのだが,神の与えた10の災厄は,9月頃にナイル川に溶出した赤土が増え有害な赤い藻が異常発生したため赤染して魚が死に,カエルが陸に上がって巷に溢れ,死んだカエルについたブヨが増え,サシバエが増え,それによるウィルス感染で家畜が死に,翌年に入る頃ヒトには皮膚炎が起こり,さらに加えて雹が降り,イナゴの大発生,砂嵐のため太陽が隠れ,貯蔵していた穀物の表面に菌が繁殖してマイコトキシンが生じ,長男から食事をするという習慣のため,長子が死んでいったということらしい.そういわれると,超自然現象とも言えないようだ.
 紅海渡渉も古くから考えられていたスエズ湾側ではないとのこと.当時のエジプトの都はRamesesラメセス(いまのQantir)だったらしく,当時シナイ半島もエジプトの支配下であったため,エジプト王の領地から逃れるのは最短距離でシナイ半島の北部を通ってSccoth,Ethamを通り,yam suph(葦の海:Aqabaアカバ湾)で紅海を渡ったと考えられるとのことである.このとき強風によってwater set-down現象で海が割れた(水位が下がって底の隆起した部分が現れた)ということらしいが,映像の説得力はなかった.風速30mほどの横殴りの強風の中を荷物を持って歩くことが出来たかどうかの説明が欲しい.
 十戒を授かった神の山はシナイ山ではなく,昼は煙が立ち夜は赤く光り民を導いたとあるので火山と考えられ,申命記に都から10日の距離と記述されていることから600km圏のアラビア半島の西部にあるMidianの火山しか考えられないとのことだった.

 同書にはモアブの岩など他の奇跡の記述もあるので,ぜひ一読してみたい.


紙の博物館at飛鳥山・王子

2011-04-10 18:17:00 | 行ってきました(美術展以外)

 都知事選の投票のついでに足を伸ばして花見の名所・飛鳥山に行きました.新都知事には有事にぶれない対応ができて,平時に不適当発言の少ない方になっていただきたいと思います.

 旧渋澤邸についてはまたの機会として,王子製紙の流れを汲む紙の博物館は,今日は満開の桜に囲まれていました.


紙の博物館          飛鳥山には一本しかないという御黄衣という桜が館の近くにあり,この花は淡緑色からピンクへと色が変わってゆくとのこと.


写真左・入り口のある2Fと3Fの展示は小学生にも分かりやすい「様々な紙の出来るまで」を中心とした展示 
写真右・4Fは「和洋の紙の歴史」百万塔の陀羅尼の実物や金唐(革)紙の制作工程見本,紙で出来ているとは思えない婦人服など様々な紙製品の展示もあります.また,隣には企画展の展示室があります.


写真左・紙の歴史の中では,パネルの展示でパピルスの作り方を初めて知りました.茎の中身を押し伸ばし水を含ませた帯状のものを縦に並べた上に横に並べて重ね乾燥させて作るそうです.
写真右・中国で蔡倫が発明(改良)した紙は12世紀の半ばに西洋に伝わりました.展示物の紙をすく簾には針金のマークがありますが,ここが透かしになります.書籍は1728年のケンペルによる英文「日本史」と,上海で出版された19世紀の聖書など.



 興味深かったのは,江戸期以降の主要な和紙の産地から,伝統の和紙が集められていました.最近紹介したレンブラント展での銅版画における和紙の使用について,繊維を分析すれば,調べ方によっては原産地をかなり特定できるのではないかと期待してしまいました.

 4Fの休憩コーナーの窓からは,満開の桜がそれはもう素晴らしい眺めでした.日本人なら,この花からきっと元気をもらえるだろうと確信しました.早く桜前線が北上しますように.




シュテーデル美術館所蔵フェルメール《地理学者》とオランダ・フランドル絵画展 総括/鑑賞のために

2011-04-06 20:16:03 | 古典絵画関連の美術展メモ

 「フェルメール展とは呼ばないで」に始まり,シュテーデル美術館展として六回にわたって見どころに図版を交えながら,一つ一つの作品を解説してきました.

 19世紀初めに開館したシュテーデル美術研究所は今回の展覧会で和名を同美術館として紹介されるようになり,欧米全体では中堅~準大手,中央集権化が進んでいないドイツ国内としては五本の指に入る美術館で,王侯コレクションほどの歴史はありませんがオランダ・フランドル絵画に良品が多いこと,そしてそのうちから多くの珠玉作が出品されていることから,この展覧会が(少なくともシュテーデル側は)単に「地理学者」だけを意図した展覧会ではないことを説明してきました.
 よく17世紀のオランダ絵画はイタリア・フランス絵画と比べて,画面が暗くて色味が乏しくちまちましていると言われますが,美は細部に宿るとも言われ,実に巧みで繊細な表現がなされているかに見入ると驚異的ですし,キアロスクーロと呼ばれる明暗のコントラストは感動的でもあります.フランドル絵画のほうが色彩は明るく,家具に嵌め込まれた精緻な小画面のものから壁を彩る大画面にやや荒削りながらダイナミックに描かれたものまで様々です(今回は後者の好例となる作品は展示されていません.しいていえばルーベンス共同制作作品で,これがもっとワイドになったものを想像してください).
 オランダだけをみても当時,画家が4000人いたという推計がありますが,フェルメールのように誰でも知っている超一級の画家はごくわずかで,生没年も分からないような画家も多く,結局その中で歴史が評価したいわゆる有名画家はといえば,例えばクリストファー・ライトと言う美術史家は130人余りを挙げています.多くの作品を見慣れてくれば,このくらいの画家についてなら画風の違いは分かるようになるでしょう.

 絵の楽しみ方は一人一人異なると思いますが,例えば,惹かれた絵があれば,そこに込めるられた秘密について,図録の解説を読み進めるのも面白いでしょう.気に入った画家がいれば,どういうバックグラウンドの人か,活躍した土地がどこで恩師やライバルは誰であって,そこで画風がどのような影響を受けたのか,それが時代でどう変化していったのかを調べてゆくと,さらにいろいろな作品を見ていく楽しみが増します.

 絵の横にある解説の小パネルは大変重宝でしたがやや言葉足らず,図録は持ち歩くのには重いし,音声ガイドで語ってもらえる作品は多くの展覧会で二十数点ほどでしょうから,今回の解説が皆様のお役に立てることを祈ります.展示作品は95点の全てが傑作というわけには行かないので,下記のような基準を作って,参考程度に記号付けしました.
 傑作(これは独断です)または目玉作品 定評がある又はおすすめの作品 それ以外の標準的な作品 無印:それ以下の作品

 また,解説として書いた内容は,図録をそのまま写したのではなくて(要約したり一部引用した部分はありますが),基本的には私の受けた印象と,特定の画家についての定評のある画業研究書(モノグラフと呼びます)やGrove's Dictionary of Artの解説からの要約を出来るだけ簡潔に記したつもりです.もし記述に誤りがあればご教示いただけると幸甚です.18世紀後半に制作された風景画2点については解説を割愛しました.

 使用した図版は,輝度は見やすいように,コントラストは強め気味に画像処理してあるかも知れません.色味は必ずしも正確ではありませんが,二回の観覧で少し修正をしたものもあります.
 Bunkamuraのサイトに「スペシャル・ビジュアルツアー」と銘打って,動画が配信されているので,絵のサイズや色を知るのには良いかもしれません.

 最後に,この展覧会では10点の作品を除くと,一般の展覧会と比べてその絵の「〇〇」が随分違った感じになっています.何か分かりますか?
 これをオランダ「〇〇」というのですが.それにもまた様々な様式があります.


シュテーデル美術館展(6)

2011-04-04 23:00:01 | 古典絵画関連の美術展メモ
地誌と風景画(2)  展示順ではカテゴリーや時代順が不揃いなので,ここでは変更して提示する. 
  アラールト・ファン・エーフェルディンゲン「滝のある風景」1650/60年頃

 彼は初めルーラント・サーフェリーに学びその後ハーレムでデ・モレインに学んだ.40年代初めには単色調の海景画を描いたが,1644-45年にスカンディナヴィアを旅行し,そのスケッチを元にした山岳風景を絵画で低地地方に紹介し,初めは横長の画面に対角線構図でサーフェリーのチロル風景に影響を受けたフランドル風の色彩で描き始めたが,次第に山々,岩や滝,水車や針葉樹を組み合わせて,単色の灰褐色調に支配された薄い絵の具できめ細かく描くようになる.針葉樹が空にシルエットとして聳えるモチーフはハールレムのコルネリス・フロームにインスピレーションを得たのではないかと考えられている.48年頃から縦長の構図を好んで描き始め,とくに縦構図の滝のモティーフは1657年頃移住したアムステルダムにおいて,ヤーコプ・ファン・ライスダールの構図に大きな影響を与えた.その少し前からエーフェルディンゲンの画風はより装飾的になり色彩はやや明るく流れるような筆致を見せている.1660年以降のモティーフは殆ど滝となって過去のスケッチを反復し,多くは褐色調で幅の広い筆致となった.
 本作も特徴的な褐色調で線はやや粗め,印象としては1650年代の終わり頃に描かれた可能性が高そうである. 




ヤーコプ・ファン・ライスダール「滝のある森の風景」1655年頃

 ヤーコプは17世紀オランダにおける最高の風景画家とされ,Stechowは彼を最も偉大な「森の画家」と呼んでいる.鬱蒼とした森の風景は,ヤン・ブリューゲルI世やそれに続くヒリス・ファン・コーニンクスローらフランドル派の流れを汲む画家たちが得意としたが,それらは装飾的で大袈裟にも見える.ハールレムの画家コルネリス・フロームは森をテーマにした作品を制作したが,1630年頃からの作品における木々の構図的配置がヤーコプ・ファン・ライスダールの着想に影響を及ぼしたとされる.
 ヤーコプの森の風景は1640年代から制作されているが,深い森の中というよりは木々の群生を対角線様式で描く構図が主流で,1650年頃のドイツ国境付近ベントハイム城近郊への旅行後,その様式は壮大で劇的なモニュメンタリズムを呈するようになり,ことに50年代前半(ハーレム時代の後期)の森の風景では,画面の広い範囲を占める樫の巨木とそれに調和し従属するような木々を描いている.
 彼も1656年頃アムステルダムに移り,60年代にもこのテーマを再び取り上げているが,より静謐で崇高な自然を無理なく描き出している.70年代以降は小画面に開けた構図を用いて精緻な筆致で木々もこじんまりと描くようになった.
 この作品は森が主体ではなくて,より手前の,日本では滝といわない程度の落差の流れから,左に小屋を見ながらその奥の源流へと自然に視点を移動させられる.これらの配置から,この作品もこれらのパーツを意図的に組み合わせながらアトリエで作り上げられた虚構であることが分かる.自然の壮麗で堂々とした印象を強く感じさせるのはその構成力からで,40年代のやや荒削りな写実的画風から,完成度が高まった50年代の成果であろう.明るく描かれた小さな小屋を置くことだけで,右の暗い丘の木々と共生しつつ対峙する人間と自然との関わりを巧みに具現している点が心憎い.

・同「白鳥のいる湖と森の風景」1660/5年頃 静謐というかこじんまりした点で後期と読めるが,この作品は実はコンディションがあまり良くないらしい.図録によれば「穏やかな湖沼」に「木々がある平坦な風景」で,「木の頂きの繊細な描き方」「水面に映る反射」などから1660年代前半としている.

同「滝のあるスカンディナヴィア風景(ノルウェーの滝)」1670年頃(Sliveは1660年代前半と推定している)

 1965年の修復で上端10cmの追加された部分が取除かれ,本来の正方形の構図が明らかになったが,これはヤーコプにしては異例の形だし,画面の下1/3を占めるほどの渦巻きの図も珍しい.バランスからするとあるいは右端の一部が切断されているのかも知れない.背景の木々が精緻に描かれているので1670年代の推定はもっともらしいが,この渦巻きのダイナミズムは水飛沫の中の流木の配置で強調され,自然の営みが力強く表現されており,より早い年代推定も妥当性を持っているかもしれない.

ヤーコプ・ファン・ライスダール「街灯のあるハールレムの冬景色」1670/80年頃

 これは彼の冬景色の最高傑作の一つであろう.街灯の先を歩く後ろ向きの二人の人物に深い叙情性を感じる.黒雲の支配した闇で,白く浮かび上がる地面には日差しが射しているのだろうか.しかし,それは日の傾いた時間とすれば現実的ではなく虚構であろう.低いところにある明るい雲に橙白色を用いているのも目新しい.
 ガラスのランタンに入れられたオイルランプの街灯は1668年に画家兼発明家のヤン・ファン・デル・ヘイデンの発案で欧州で初めてアムステルダム市に設置されていった.地平線の左寄りにハールレムの聖バーフォ教会が見えるが,この街灯のある村は想像上のもので,街灯の発明者であるヘイデンへのオマージュであるとされる.

 この様な冬景色の小品をライスダールは1670年代に30点ほど描いている.これらは水平線がやや低く位置した構図で黒雲と前景の褐色が支配する色調が共通しているものが多い.隣にある「木立のある冬景色」(1678/80年頃 Sliveは60年代としている)もその一点で,灰黒色の重い雲の下,黒褐色の前景の奥に日の射した雪の道と枝にかかった雪の白が浮かび上がり,犬を連れた人の先に建物があることが,自然と人の関わりを示してくれているかのようだ.ここにもモティーフの(壮麗とはいえないまでも堂々とした)monumentalityが描かれている.

海景画(ホイエンは既出)  ・ユリウス・ポルセリス帰属作品は父ヤンや,フランドル派のヤン・ペーテルスを含めてイニシャルも同じで,荒れた海のモチーフも共通しているため,特定が難しい.

・デ・フリーヘルの作品は,一言で言うと単色調の「静寂な大気」が特徴で描画は繊細であるが,この作品では構成要素が少ないこともあって弱い感じを否めない.ヤン・ポルセリスに由来する遠・中・近景の船の配置に,船の角度や海面の反射などを用いて,奥行きを表現しようとしている.モティーフは曇天の凪いだ海や荒れた海が多いかと思う. 
ウィレム・ファン・デ・フェルデII世とその工房「穏やかな海」1660年頃

 彼はオランダ海景~帆船画の頂点に立った画家で,父I世やおそらくフリーヘルにも学び,アムステルダムに工房を構えて制作した一連の凪いだ海の風景が芸術的には最も優れているとされるらしい.本作もその一つであろうが工房共作とされる小品で,大航海時代末期のオランダ商船の接岸を描いている.黄変したニスが残るのが鑑賞の妨げになる.その後,英国宮廷でも活躍したが,その頃の荒れた海や海戦シーンは同一モチーフの工房作も非常に多い. 
都市景観画と親イタリア派風景画
 前者は後者の範疇に重なる
ヨハネス・リンゲルバッハ「ナヴォーナ広場の市場」1657/8年頃 標準的な大作

・フレデリック・デ(ド)・ムシュロン「フランシュヴィル城のある風景」1669年頃 親イタリア派風景画家として,ヤン・アッセレインに学び,滞在したフランス風景を良く描いた.コントラストが低いので好みではない.人物はアドリアーン・ファン・デ・フェルデによる.

ヘリット・ベルクヘイデ(ハイデ)「アムステルダムの二つのシナゴーグ」1680/5年頃 ベルクヘイデは地誌的に正確な都市景観画で名を馳せた.写真では単調で様式的に見えるかもしれないが,コントラストは高く,しっとりした色調で,かつ精緻に描かれている.
ヤン・ファン・デル・ヘイデン(ハイデン)「ルーネルスロート城」1665/70年頃
 次作とともに20x30cmほどのヘイデンとしても比較的小品.地誌的な絵画というのは,例えば16世紀末のホーヘンベルフのヨーロッパ都市地図(G. Braun and F. Hogersberg, Civitates orbis terrarum1572-1619)などに集大成された銅版画からの流れを汲むが,17世紀後半になるとこのような都市景観の油彩画が盛んに描かれていた.ヘイデンの特徴は,有名な建築物を想像上の設定で細部にこだわって緻密に描いていることだ.写真では分からないほど細かいレンガや葉の一枚一枚を描く技法について,従来は虫眼鏡を使用したと推定されていたが,図録によると押型を利用しているという.これは新説かと思ったら,自伝の中で述べられているとのことだった.
・同「田舎道の風景」1666/8年頃 親イタリア的な柔らかい色調だが,都市景観でないと家のレンガや木の葉以外あまりヘイデンらしさと感じなかった.右下の人物はリンゲルバッハの共作.
ヨプ・ベルクヘイデ(ハイデ)「アムステルダムの株式取引所」1675/80年

 これは都市景観というより建築画であるが,これだけ日常的な群集を大勢描いた作品も珍しいのではないか.画面全体にクローズアップされた日陰の暗い画面が却って中央のアムステルダム市の紋章の下奥の強い日の当たる場所を強調し極端なキアロスクーロをもたらしている.ヨプはヘリットの兄で教会内部画なども比較的よく描いていてハールレムで活動していたが,しっとりとした色調はアムステルダムのエマヌエル・デ・ウィッテの流れを汲んでいるようだ.この作品の上端の帯状の空の部分は本来もっと明るいはずで,写真でみる限りは修復が必要かもしれない.
ヘンドリック・ファン・フリート「デルフト旧教会の内部」1660/3年

 教会内部画は,広い意味では建築画である(室内画の一種としては,小屋の内部などは既出) .このような作品のポイントは視点の位置と遠近法の表現だろう.フリートはデルフトで活動しハウクヘーストに倣って1650年以降この分野の仕事のみをこなしているが,1660年代以後はマンネリの早描きで質が落ちたという.この作品もシャンデリアなどの荒い仕上げは水準以下のような気もするが.彼の作品の子供や犬の点景は共同制作を採らず自分で描いているのが特徴で,その流れはコルネリス・デ・マンらに受け継がれる.
 新教会の内部同様,新教国の旧教会は宗教絵画や彫刻をかけることは出来ず寄進者などの紋章に変わり,内陣の祭壇から,信者の集まる身廊に設けられた説教壇へと重心は移っていった.画面では内陣側から振り返って身廊を見ているので,正面に見ているのは入り口側でその上にあるのはパイプオルガン,説教壇は画面左に小高く造られている.