泰西古典絵画紀行

オランダ絵画・古地図・天文学史の記事,旅行記等を紹介します.
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ヨルダン・シリアの旅(3)

2009-10-06 21:19:28 | 旅行記
ボスラBostra
 ボスラはシリア南端,紀元前2世紀にはナバテア人の北の都で,トラヤヌス帝の106年にローマ帝国に征服され,アラビア属州の州都としてローマ街道・トラヤヌス街道など多くの交易路の交差点として繁栄し,帝国分裂後もビザンティン帝国に属したが,634年に初期のイスラム帝国の支配下に入り,12世紀頃には十字軍の攻撃に備え要塞化されるが,その後は主要交通路から外れたため衰退した.

 この周辺には,黒褐色の玄武岩が多く,それを用いて2世紀末に造られたローマの円形劇場も,それを取り囲む後に造られた城塞(シタデル)も黒っぽい.建築に石灰岩を使用したアンマンが「白い都」といわれたのに対しボスラが「黒い都」と呼ばれる所以である.
 5-6000人を収容したといわれる円形劇場は中東でも最大規模,城塞で囲まれて保存されたため,最上階の列柱廊を含めてほぼ完全な形で残っている.スケナエ・フロンス(舞台正面の背景の壁面:スクリーンの語源らしい)の舞台を飾るコリント式の列柱は外地より運ばれてきた大理石で出来ており,白と黒の対比が見事である.ついでながら,ジェラッシュなどの円形劇場と色の比較をしてみるのもよいだろう.

 この北側にローマ時代の都市廃墟があるが,残念ながら滞在は数分で一見しただけであった.


 城塞の外観 隙間から円形劇場の最上階の列柱廊が手摺のように覗いている


 左・地下回廊の奥は自然採光のみで暗い         右・回廊の階段を上がると城塞と円形劇場の狭間


 最上階から見た円形劇場 三段の構造で37段あることがわかるが,さらに3000人分の立ち席があったという


 背もたれの高い石の椅子が残っているのも面白い


 舞台を飾るコリント式の列柱 白と黒の対比


 舞台の正面口から観客席を見る


 都市の廃墟 優美なイオニア式の円柱に囲まれたローマ浴場の右奥に見える円柱と壁の門はカリベKalybe,2世紀の王が娘の命の願掛けをしたところ


ヨルダン・シリアの旅(2)

2009-10-05 21:31:45 | 旅行記
ジェラシュJerash
 ジェラシュは現在はシリアの南方でヨルダン北部に位置しているが,古代ローマではシリア属州にあって東部辺境のデカポリス(十都市連合 今回巡ったボスラ・ダマスカスも含まれる)のうちの一つだった.ヨルダンではペトラに次ぐ見所だそうで,ウィキペディアによると「中東のポンペイ」と異名をとるらしいが,それは中東のローマ都市遺跡の中でもとくに保存状態が良いためだそうだ.
 この辺りの歴史遺産を系統的に把握するにはローマ・ペルシアとイスラム帝国の歴史を概観しておく必要がある.
 この地には青銅器時代から集落があり,古代にはゲラサ(Gerasa 語源・音韻的にはジェラシュに通じるだろう)と称され,セレウコス朝(ヘレニズム期,アケメネス朝ペルシアを破ったアレキサンダー大王の,後継者の一人がシリアに興した王朝)の時代はギリシャ風の都市が築かれていたが,前64年にローマの属州となり交易で栄え,最大版図を得たトラヤヌス帝の時代にはローマ街道が通じ,併合されたペトラなどとの交易も始まり,都市の人口は2.5万人に達したと推定され,ハドリアヌス帝が130年頃に行幸した際にハドリアヌスの凱旋門が建てられた.現存する遺跡の多くはこの時代2世紀の建築らしい.繁栄の頂点は3世紀初めで海上輸送の発達やパルミラの滅亡が衰退の始まりをもたらした.大帝コンスタンティヌス1世による313年のミラノ勅令でキリスト教が公認され,380年頃に大帝テオドシウス1世によって国教となると,神殿の少なからずが改築され教会として利用された.636年にササーン朝ペルシアに征服されその後衰退,イスラム帝国ウマイア朝まで存続するも,746年の地震で壊滅した.
 凱旋門を入ると,左手に戦車競技場(復元/ヒッポドローム),その奥に南門があり,入ってすぐにゼウス神殿と南劇場(南の大劇場/アリーナ:もともと小石の意味で血が速やかに吸い取られるために敷かれていたことによる)が左手に広がり,列柱で囲まれた楕円形の広場(フォロ/フォルム・フォーラム)に戻って,街を貫く列柱道路(カルド)を進むと,左手に集会所アゴラ,さらに進んで南の四面門跡を過ぎ列柱道路の中央付近に来ると,左にナバテア人の建築から4世紀に改築された大聖堂とその隣にニンファエウム(ニンフに捧げられた泉の神殿)が並び,さらに左の奥の高台にアルテミス神殿がある.
 列柱はコリント式で,柱頭には環状帯の上にアカンサス(Acanthusハアザミ)の装飾がある(通常は葉を上下8枚ずつ互い違いに彫ってあるらしいがヴァリエーションも多く,その上方にはイオニア式の特徴である渦巻も小さく添えられる).この様式は紀元前5世紀の頃,コリント人の女性の墓に祀るのに婦人の好きだった子供時代のものをメイドが籠に入れ石板で蓋をしてアカンサスの上に置いたところを見た建築彫刻家カリマコスが霊感を得て創始したといわれているらしい.

 遺跡はフランス軍の駐留時に一部復元されたが,その際コンクリートを使用したため,世界遺産には登録されていないという.これには大いに異論があろう.ちなみにここ以外,今回回ったヨルダンのペトラ,シリアのボスラ・パルミラ・クラック・デ・シュバリエ,ダマスカスのすべてが世界遺産である.

 添乗員の方は博識で大変勉強になったのだが,古代ローマの遺跡巡りでは,より高い列柱の残っているところに重要な建築物があったので参考にするとよいとのこと,納得である.また,劇場の収容人数は町の人口の1/10が目安らしい.


 ハドリアヌスの凱旋門の写真は故をもって良いものが無い


 南の大劇場 三人の楽士が演奏中 3000人を収容したという


 南劇場の上から,連なった列柱の曲線が印象的なフォルム,その左上に列柱道路と遺跡群(中央左はアゴラ)を臨む 左上隅(↓)がアルテミス神殿
 右手の住宅地域にも手付かずながら同規模の遺跡が眠るそうだ


 ニンファエウム 前方に水盤が置かれている 左の奥に見えるのは大聖堂の入り口の遺構,小さく見えるがニンファエウムと同規模


 アルテミス神殿 近景 十字軍により一部破壊されたというが12本の円柱は圧巻.この町はアルテミス信仰が篤かったのだろう


 アルテミス神殿から振り返って,左からフォルム,ゼウス神殿(⇒)と南劇場(↓)


 華麗なコリント式オーダー 左のアルテミス神殿の円柱は風で揺らいでいるという


 地面に置かれたままの石材 ニンファエウムのファザードの装飾か 地震で崩壊したことで風化を免れたため状態がよいという.確かに彫りの深い装飾は美しく残っている


 帰路,フォルムを通して見たゼウス神殿と南劇場 フォルム中央の柱は遺跡ではなく後付けとのこと

ヨルダン・シリアの旅(1)

2009-10-04 19:52:52 | 旅行記
 9/20からC社主催の「シリア・ヨルダン歴史紀行8日間」に参加した.J社と比べると格安であるが,現在直行便が無く乗り継ぎの関係でどこのプランでも実質観光は正味4日と半日.集合時間が羽田に19時半で関空発は日付の変わった深夜.カタール航空利用でサービスはよく,機内食はまずまず,行きのドーハでの乗換え待ちの間に航空会社の後援で市内観光(ドーハの悲劇の舞台・国立競技場・都心高層ビル群・港など)も付いていた.帰りも7日目にダマスカスを夕方経って,ドーハで4時間待ち,空港レストランでカレーなど夕食のサービスがあり,日付変わった深夜の便で帰国.関空でも4時間待ちの予定だったが,空席待ちがとれて21時ごろ羽田に着いた.
 ヨルダンから入って1日目はアンマン空港からペトラまでデザート・ハイウェイをバスで移動,ワディ(=valley)・ムーサの町でモーゼが岩を打って水を出したところといわれているところの一つアイン(泉)・ムーサ(Moses)に寄る.岩を囲んで小屋が建っており,横に水路がある.ペトラ・バイ・ナイトのキャンドル・イベントは月水金だけで到着日に当たっていて,ホテル着が20時ごろだったため見送られた.
 2日目は終日ペトラ遺跡の観光.同地泊後,3日目はマダバで聖ジョージ教会に寄り,床に残る6世紀パレスチナのモザイク地図を見る.同地で昼食後,モーゼ終焉の地ネボ山にバスで登り,そこに建設された教会の遺構と展示品を見学.ここから死海とエルサレム・ジェリコーの町が遠目に見える.下る途中に(学芸員によるとヨルダン王妃プロデュスのリヴァージュ・ブランドの高級)死海の塩製品・化粧品販売店に寄り,死海東岸のプライベートビーチ付ホテルに一泊.死海の浮遊体験は楽しめた.ペトラで猛烈に日焼けした肌に死海の塩は優しかった?が,目や鼻には辛かった.食中りに警戒して,サラダ関係は食べず,終始下痢止めを服用していたが(同行で発症した方はあまりいなかったらしい),ここのホテルの食事と部屋はホッとできた.砂漠のオアシスのようなものだ.
 4日目の午前中はデカポリス(ローマ帝国東部辺境の十都市連合)のひとつジェラシュを観光後ヨルダンを後にしシリアに入国,午後やはりデカポリスのボスラに寄り,21時を回ってようやくパルミラに到着した.

 じつは初日からジェラシュ到着まで1000枚以上の写真を撮りためていたのだが,サブ機のものを除いて,16GBのSDカードが帰国後読み書き不能になってしまっていた....傷心の中,まずはパルミラの夜景から.ホテルの遅い夕食後,徒歩(真っ暗な道を地元のお兄さんにハローハローと声をかけられながら早足で20分)独りで遺跡まで行って撮った労作です.おもにAPS-C11mmF2.8レンズ開放での手持ち撮影でした.先入観と違って,後で聞いた話ではシリアは治安は良く安全らしいのですが.


記念門 正面


列柱道路を望む 中程の星は木星です.他の写真にもあと2回出てきます.


左手奥にベル神殿が見えます


ベル神殿


聳え立つ列柱と木星


記念門と列柱道路


記念門右手のアーチの奥にアラブ城が遠目に見えます