上・第三図「魚の口から陸に吐き出されるヨナ」(Holl.72)[2章10節]
ヨナは魚の腹の中で,神の御前から追放されたわけではないことに感謝の祈りを唱え続けた.三日三晩経った後,神は魚にヨナを陸に吐き出すことを命じた.
下・第四図「瓢箪の木陰で休むヨナ」(Holl.73)[4章1-11節]
ヨナはニネベに赴き,40日後にこの都は滅ぶと宣告した.人々は大いに驚き,信仰心から粗衣をまとい断食をしたので,神は思い直されニネベは救われた.狭量なヨナにはこれが不満で,怒りに任せて神に死を求め,都の東に座り込んだ.
神は日射しの苦痛を和らげてやるために瓢箪(とうごま:画中ヨナの背後に実がなっている)を伸ばしてヨナに日陰を作られた.ヨナはこれを喜んだが,翌日,神は虫を遣わして木を枯れさせ(ここからテニスンやハーディらは,はかない幸運を「ヨナのひょうたん」と呼んだ),吹きつける熱風にヨナは再び怒って死を望んだ.
神は言われた.「労すことなく休息を与えてくれた瓢箪がなくなったとて惜しみ怒るのは,[主が創られた]ニネベの民の命を惜しむことに比べられるだろうか」
[作者と作品の解説]
ハンス・ボル1534 Mechelen-1593 Amsterdamは1560年にフランドルのメーヒェレン(アントワープとブリュッセルのほぼ中間)で画家組合の親方画家となった.同地は水彩画が盛んで,不透明な水彩絵の具bodycolorを用いて比較的大画面の作品が制作されていた.同地がスペインに併合されたため,ボルは1572年アントウェルペンに移住し親方画家となる.彼の作品は,遠景にも多くの人物像を描き込んだ風景画に特徴があるが,パティニールらの空想的パノラマや,ピーテル・ブリューゲルⅠ世の自然主義的・写実的影響が強く認められる.ボルは,風景画の革新的な主導者の一人として名声を博し,カーレル・ファン・マンデルの「絵画の書」によれば,ボルは自身の作品が模倣されるようになると自身の地位を守るため,羊皮紙に水彩で複写の困難な細密画を描くようになり,その巧みさによって模倣を封じこの一連の細密風景画が彼の代表作とされるようになった.
彼の作品はヤン・ブリューゲルⅠ世やパウル・ブリルらフランドルの画家にも影響を及ぼしたが,ヒリス・ファン・コーニンクスローらに先んじて,1586年にいち早くアムステルダムに移住し,ピーテル・ブリューゲルらの流れを汲む,高い視点から見下ろし水平線を画面上半分に設定した世界風景画をオランダ(北部ネーデルラント)に紹介したことで,オランダ絵画,とくに風景画の発展に非常に重要な役割を果たしたとされる.彼はまた,素描にも秀で,多くが銅版画作品に仕上げられた.
コラールト家は16世紀から17世紀の初頭にかけてフランドルで活躍した画家の一族で,ハンスI世(HansともJanともJohannesとも呼ばれる c.1525/30-1580)は彫刻銅版画・素描画家として,彼の作品集は初めヒエロニムス・コックの手で出版されていたが,1570年頃までにはアントワープの出版活動が活発になったことで,銅版画家は複数の出版業者と取引するようになり,コックの死去もあって,ピーテル・ブリューゲルの銅版を担当したフィリップス・ハレの出版をよく手がけた.出版者ハンス・ファン・ライクとの契約では「ブリュッセル周辺の風景」かよく知られている.
ハンスI世はHとCの組み合わせ文字のほか,H.C.F. HC.Fなどを署名に用いている.彼の技法上の特徴は,明部から急に強い暗部に移行するために揺らめくように見えることで,明暗のバランスが良くないとも取れ,また,描線の太さがあまり変わらないので単調に黒く見えてしまう.暗部は密な平行線のハッチングかクロスハッチングを用い,中間調にはより間隔のあいた平行線のハッチングを用い,線の終わりには時々Flickと呼ばれる点々を用いて一応階調を高めている.彼の描く人体は,ハッチングの曲線が短めなこともあって立体感が弱く,輪郭が一様に強調されて深みを失っている.ただし,後期の作品にはこれらの欠点は改善されてくる.
彼の長男のアドリアーンも優れた銅版画家で出版業も営み,次男のハンスII世もしばしばマールテン・デ・フォス,ハンス・ボル,ヨッス・デ・モンペルらの作品の複製版画を手がけアントワープの画家組合に属し1610年から13年まで組合長の任についている.この二人ともハレの娘と結婚している.
[New Hollstein Dutch & Flemish etchings, engravings and woodcuts, 1450-1700, Vol.I, 2005, pp.xliii-liv & pp.86-90より改変]
この「ヨナの物語」"The Story of Jonah"は4点の連作であるが,当館で入手したのは前半の2点のみである.詳細は定かではないが, Antwerp,Brussels,Coburg,Rotterdam,Vienna,Wolfeggに所蔵が知られるものの過去に市場で見かけたことは無く,版画単品としての現存数はかなり少ないのではないかと思われる.この作品群はHCの署名から銅版製作者はヒエロニムス・コックであると考えられてていた時期があり,当初はホルスタインのカタログ旧版第Ⅲ巻でもafter Hans Bol(ハンス・ボルに基づく)の項の番号3-6として挙げられていたが,新版になって,コラールトの項に番号を与えられて追加されるようになった.旧版によると,後刷りはJonas de Straf-Prediker... door Theod.Petrejum. Amsterdam 1623年刊(Nagler, Mon. IV,951)にコック作として使用されていたらしい.
いずれの作品もピーテル・ブリューゲルの「世界風景」の流れを汲んで高い視点から近景より遠景までをパノラマ風に描写している.起承転結宜しく,神は一枚目と四枚目に登場する.丸い画面tondoはルネサンスからの流行の一端でもあったが,構図構成はなかなか難しいところをボルはうまくまとめており,一から三枚目までは左手に建物や山,樹木を配し安定感を得ているが,最後の作品では広く遠景へと抜けた開放感が心憎く,この構図により頭上に位置する神の栄光が自然と強調されている.
ところで,第一作の「神の手から逃れようとするヨナ」で気がついたことだが,ヨナ以外の人々は9組が必ず二人ずつ描かれているのは何か意味があるのだろうか.個人的には,怪魚・帆船・かわいそうなヨナ・都市風景などいろいろ楽しめる第二作「海に投げ込まれるヨナ」が好みで,今回のセールカタログにおいても数ある作品の中から本作が裏表紙に利用されていた.この怪魚は,聖書では「巨大な魚」としか記載が無いらしいがしばしば鯨として伝承される.大航海時代の地図・海図にも,ここに描かれているような水を頭の後ろの二つの筒から吐き出している怪魚がしばしば描かれている.この図像の源がどこにあるのかを調べてみるのも面白いだろう.帆船の描写はヨナの時代のものではなく大航海時代のものだ.一作では髭を蓄えた賢者風に描かれていたヨナは哀れにもここでは髭の無い若者風になってしまっている.これは続く3・4作でも逆に描かれているが,これも何か意図があってのことなのだろうか? 一説には,魚から吐き出されたときのヨナについては裸で禿頭として描かれることが多いという.
ヨナの物語は冒険譚風な説話で神の慈悲や寛大さを示した上で,賢者には信仰と「他者に対する寛容」の道を歩むことを説いているのだろう.自分の権利ばかりを主張するようになった今の時代において,傾聴すべきことですね.
・版画の参考文献:上記及びRiggs 1977, p. 384, a-2
・来歴:Jiles Boonコレクション
聖書の記述に関しては「旧約聖書 新共同訳」,日本聖書教会,2001年刊 と「聖書百科全書」ジョン・ボウカー編,三省堂,2000年刊を参考にした.