泰西古典絵画紀行

オランダ絵画・古地図・天文学史の記事,旅行記等を紹介します.
無断で記事を転載される方がありますが,必ずご一報下さい.

17世紀オランダの絵画と画家の理解を深めるために(1)モティーフと作風の多様性

2011-03-06 21:02:45 | オランダ絵画の解説

 政治的・宗教的変革が経済と文化に影響するので,ほぼ1580年代後半から1670年代までがオランダ絵画の黄金期であろう.その特徴を規定する要素として,
・ネーデルラントの伝統的細密描写と写実表現⇔イタリア古典への憧憬とカラヴァジズムの影響
・市民社会でのパトロンの変化・非注文制作の普及(小画面化と非宗教画の発展)とプロテスタント的嗜好(教訓の表現など)
が挙げられるが,これらの影響の下に,モティーフと作風の多様性が誕生したと考えられる.

 画題の分類に関しては,絵画のヒエラルキーが良く語られるが,以下のような分類が一般的であろう.
歴史画(宗教・神話・過去の歴史・物語・アレゴリー)
肖像画(個人・家族・集団)
風俗画(下・中・上流) 室内画・画中画
静物画(花・食卓・器物) 動物画・狩猟画
風景画(写実・親伊) 海景画・景観建築画

 ただし,以下の例に示すように,この分類で括り切れないような主題や複数の要素が存在する作品も当然ながら存在する.


左:「アトリエの画家」ピーテル・ファン・エフモント 1640年頃?(当館所蔵)
 この作品は恐らく画家自身の自画像であろうが,画面の右を占める小道具となる蒐集品に静物画の趣向を醸しながら,画中画などを含めて風俗画的な室内画に仕上げられていると見るべきであろう.エフモントはライデン精緻派で風俗画家として作品が残されているが,生涯については余り知られていない.

右:「羊飼いのいる風景」ヘリット・ベルクヘイデ 1670年頃?(当館所蔵)
 前景に牧歌的な羊飼いの少年達,左中景にはロバに乗ったり坐って糸を紡ぎながら語らう婦人が,遠景には北東からみた古都アーネムの聖ヤンス門と橋が樹木の繁みの中に描かれている.一般的には風景画の範疇に入るが,風俗画としての要素も包含する.ベルクヘイデは建築画に含まれる都市景観画で名を馳せ,教会や市庁舎を市井の人々とともに正確に描いたが,このような小画面の作品も少なからず製作している.屋外の景観に群像を描いた作品を風景画とするか風俗画とするかは群像のウェイト(主題の取上げ方,簡単には画面上の大きさ?)によるかもしれない.

 また,下記三点の「シャボン玉を吹く少年」の図像については,左のミーリス作品が典型的な風俗画でヴァニタスの教訓の判じ絵になっているが,それに20年先行する中央のフリンク作品は一見肖像画に見えて,消え行く運命のシャボン玉→左端の書物と髑髏→ヴァニタス,ではこれは子供の遺影として製作されたのだろうかという連想が働く構成になっている.これに対し,右の作品ではシャボン玉を吹いているのはキューピッドで典型的なヴァニタスのアレゴリーの設定と思われ,静物画の画題としての天球儀を美麗な蒐集品とみるか昇天のモティーフとみるかにもよるが,画家は古典に倣った絵画としての美しさを狙っているのは明らかである.

フランス・ファン・ミーリス工房 1663年      フリンク 1640年(ともに当館所蔵)         Vincent Casteleyn 1642年(現所蔵先不明)
 これらすべての作品で認めうる闇を背景に浮かび上がる構成には,カラヴァッジョの遺功が脈々と息づいている.また,ミーリスはライデン精緻派,フリンクはアムステルダムのレンブラント派(工房を独立した1640年の作),左はヤーコプ・ファン・カンペンに近いアムステルダムの古典主義的作風の好例である.向かって左に描かれている麦わらもシャボン玉に使うのでヴァニタスのシンボルの一つらしい.

 当時のオランダの主要都市では,各地で作風の独自性が生まれていたと考えられている.


The Ephemeral Museum

2010-08-01 23:30:13 | オランダ絵画の解説
 たまたま学習院大学大学院の美術史学のWeb Libraryに行き着いたところ,高橋裕子先生が2001年に執筆された「束の間の美術館-フランシス・ハスケルの研究を顧みて-」という論文が改訂掲載されていました.
 Francis Haskellは元オックスフォード大学美術史学教授で,高橋先生によると「文化史ないし社会史全般の中で美術を捉えようとしたところに」研究の特色があり,英国の美術史学会の重鎮だったそうですが,その遺作ととなった"The Ephemeral Museum: Old Master Paintings and the Rise of the Art Exhibition"(Yale University Press, 2000)他数冊に亘る彼の著書の書評を基に,19世紀初頭の公立「美術館」の成立過程と,現代の回顧展などの「美術展」は長くても数ヶ月に限定された「束の間の美術館」であるがその功罪について論じられています.要約すると:

 展覧会というものは,17世紀のローマやフィレンツェの教会ではその教会ゆかりの聖人の祝日の装飾として催され,期間も1~2日と短く作品は上流階級の蒐集家から借用されたもので,それ以外では,オークションの際に下見会としての展示は期間も長く多様な作品が出品されていた.当時は注文制作が原則であったので,作品発表の場としての展覧会は18世紀のアカデミーの公募展(いわゆる「サロン」)以降.
 1789年のフランス革命により,戦禍のないロンドンに作品が流入してオークション市場が活性化し,例えば1793年4~6月にオルレアン公フィリップが資金調達のため売却した259点の北方作品の転売で,展示は入場料を取って公開された.この時代,ジョットやファン・エイク,デューラーなど,primitive(原初の単純素朴な)とされていた画家たちや,さらにフェルメールも含めて,忘却された画家が「再発見」されるが,ここにもフランス革命後の政治的・社会的変動から生じた美術市場の動きが関与していたらしい.
 一方のフランスでは,王室の蒐集や教会の美術品が国有化され,ナポレオンの略奪品も合わせてルーヴル宮殿内で公開され,「束の間」略奪品はその後返還されたが,ルーヴル美術館は公立美術館の草分けになった.対して英国では,王室蒐集品は公開されず,コレクターと画商が「英国美術振興協会」を設立して1805年から古典絵画の展覧会を開き10年後一般公開され1867年まで存続し,1857年マンチェスターで開かれた「連合王国美術至宝展」は,規模の点でも,また,従来の壁の美的レイアウトより,当時成立した美術史学的観点で年代順・作風別に配列され,ルーヴル美術館をもしのぐ内容として注目された(ちなみに,ロンドン・ナショナル・ギャラリーはこれとは別に1824年に誕生した).
 その後の19世紀後半,美術展は自国の文化的栄光を体現するものと見なされるようになって,自国派の展覧会が各国で盛んに開催され,第一次世界大戦後には,ナショナリズムの台頭から欧米の公立美術館は禁止してきた所蔵品の国外貸出しを容認するようになり,大展覧会が船で外国に輸出されるといった現象も生まれ,このなかでジョルジュ・ド・ラ・トゥールも再発見された.
 今日では美術館自体が戦略的・経済的理由でますます多くの展覧会を開くようになったが,スポンサーが美術館の成功を計る指標は世間の注目度で,そのために材質的に移動のリスクが大きい「門外不出」とされた板絵なども貸し出され損傷のリスクは増している.展覧会場を作るため常設展示を縮小したり,学芸員が展覧会の準備に忙殺されれば常設コレクション自体の展示や研究が疎かになろう.借用した作品についてはアトリビューションは貸主の主張を受け入れなければならず疑義があっても必ずしもカタログにそれを表明することはできないし,それによって画家研究に悪影響が出るかもしれない.
 「一人の画家であれ、ある時代のある地域の画派であれ、作品を並べて比較することによって、真筆性の度合いや画派に共通の特色など、美術史上の重要な問題が明らかにされたことも多く、19世紀以来のオールド・マスター展の学問的意義は疑い得ない。」

 ....これは先だってのヤーコプ・バッケル展で確かに私も体感したことです.
 「しかし、展覧会の組織者が特定のテーマによって作品を選択し並べるとき、それは恣意的なものになりかねないし、展覧会が成功すれば、もしかすると一面的なその見方が、長く支配力を持つことになる」
 ....企画者の博識と卓見に期待する次第です.
 美術鑑賞は個々人の感性で何者にも縛られない自由なものでしょうが,商業主義に扇動された定見のない喧伝者に迎合したくは無いものです.それには,自分の目を養いつつオランダ・バロックしか関心がありませんというような狭量はもたないこと,と自戒しています.かくいう私,昔は仏像も大好きでした....
 

17世紀オランダ・フランドルにおける建築画の歴史

2009-10-18 18:44:01 | オランダ絵画の解説
Liedtkeの論文(The Dictionary of Art vol.2 pp.340-34)を改変

 1550年から1700年頃の低地地方においては建築画も発達したが,この時代の建築画とは,線遠近法によって宮廷の景観や教会の内部を描かれたものをさすことが多い.その端緒はまずアントワープに興り,フランドル及びオランダ全体に広がって行き,とくに,アントワープ派のほか,オランダではハールレム派やデルフト派が存在した.
  17世紀の「遠近法」という呼び方をしたときフランドル様式の建築画がこれに該当するのに対し,オランダ絵画においての創作はといえば,邸宅の優美な人々(elegant company)を描いた作品群と大教会の内部(教会内部画church interior)を描いた作品群に明瞭に区別されたことである.教会内部画については,とくに1600年以降のフランドルにおいては慈善や礼拝や洗礼といった人々の信仰の行いを明示する作品が主流となるが,オランダでは,時に空想上の場合もあるが多くは,購入者たる信心深い市民の国民感情に訴える有名教会の内部であることが重要であった.

1.フランドル
 16世紀初頭のアントワープにおいては,イタリア・ルネサンス絵画,たとえばラファエロのヴァチカン装飾から着想を得た建築絵画が発展し始めた.ヤン・ホッサールトJan Gssartの描いた宗教画作品などに見られる背景の建物やその内部の華美で折衷的な表現と魅惑的な形態は,彼に続く16世紀中葉のフレデマン・デ・フリースHans Vredeman de Vriesの遠近法に基づく絵画や版画の着想の源になった.

・ヤン・ホッサールト 「ダナエ」1527年 ミュンヘン・アルテ・ピナコテーク

 デ・フリースの建築画は,精緻でカラフルで装飾的で,ゴシック様式とルネサンス様式が混ざっており,描かれた多くの群衆は流行の服装で道徳的な題材に縛られておらず,これらは比較的大きな画布に描かれ,個人では建てられない羨望の的として愛国者の家に飾られていたに違いないという.彼はまた,セルリオSebastiano Serlioの古典的寺院建築に関する書物を参考にして,師のファン・アールストPieter Coecke van Aelstと同様,建築とその装飾の総合設計にあたり,その集大成として1604年に出版された"Perspective"は,教会の中央を見下ろす超広角図法とアーチを通してみた王宮といった図式の図案集として,その後の建築画家に利用された.

・フレデマン・デ・フリース 建物のある風景 板 82x100cm エルミタージュ美術館

 フランドルにおいては伝統的に師弟伝授の縛りが強かったようだが,ヘンドリック・ファン・ステーンウェイク(父)Hendrick van Steenwijk the elderもデ・フリースの弟子で, 1580年代の初めに西から見たアントワープ大聖堂の内部を描いているが,デ・フリースの版画Scenographiaeに拠って,絵の平面に平行に浮き上がる効果repoussoirによってかなり中心寄りに後退して描かれており,ここで確立された様式が追随者に引き継がれた.ファン・ステーンウェイク(父)の作品の多くは,実在の教会を描き,微妙な光と影の雰囲気の点で写実的効果を醸し出し,アーチが両脇に引き伸ばされ水平線が低く置かれた前景の広角効果は,より遠方から見るよりも見るものに臨場感を与えているが,その限られた色遣いと柔らかい描画が続く40年の建築画の多くとは異なっている.

・ヘンドリック・ファン・ステーンウェイク(父) ゴシック教会の内部 1578年 銅版 35x46cm

 ヘンドリック・ファン・ステーンウェイク(子) the youngerは,フランクフルトやロンドンに住んだこともあるが,父の試みたキャビネット画(飾り棚にはめ込まれた小画面の精緻画)において,微妙な光と影というよりも色彩と精緻さで卓越した作品を描いた.
これは17世紀フランドルにおける建築画家の主導者ピーテル・ネーフス(父)Pieter Neeffs the elderにおいても同様であるが,その画面は大きく,主にアントワープ大聖堂か同様に設計された空想のゴシック式教会を描いた.その子のピーテル・ネーフス(子)は父の下で制作したが,父の繊細な線や精妙な影付けなどにおいて遠く及ばなかった.両者は,画中の人物像の画家としてそれぞれフランス・フランケンⅡ世とⅢ世と共同製作した.

2.オランダ
 空想上の宮殿眺望図や教会内部画はともにオランダで流布したが,ミッデルブルグのディルク・ファン・デーレンDirk van Delen,ハーグとデルフトでのバーソロメウス・ファン・バッセンBartholomeus van Bassenとその弟子ヘリット・ハウクヘーストGerrit Houckgeest(及びロッテルダムのアンソニー・デ・ロルメAnthonie de Lorme)らは1640年までにこぞって,ファン・ステーンウェイク(父)の作品を連想させるあたかも入ってゆけるかのような空間配置と控えめな色彩,洗練された彩飾の"realistic imaginary church(現実にある構造物を想像上で配置した教会)"を描いてゆく.

・バーソロメウス・ファン・バッセン レーネンの聖Cunera教会の内部 1638年 板 61x81cm ロンドンNG


・ヘリット・ハウクヘースト 「沈黙公ヴィレムの墓のあるデルフト新教会」
左 1650年 板 126x89cm ハンブルグ美術館  右 1651年頃 板 66x78cm マウリッツハイス美術館

 ハールレムのピーテル・サーンレダムは実在する教会を取り上げた初めてのオランダ画家で,彼は建築物を間近で記録する際の知覚的な問題を洗練された解釈でこなし,いくつかのオランダの大教会を忠実にスケッチで記録した.教会の建物の一部を取り上げた彼の淡い色調の様式化された絵画は他の画家には採用されず,もっと因習的な仕事の方がハールレムの同世代及び後輩となる画家ヨプとヘリット・ベルクヘイデ兄弟やイサーク・ファン・ニッケレ(ン)Isaac van Nickeleに影響を与えた.

・ピーテル・サーンレダム 「ユトレヒトのBuur教会の内部」1644年 板 60x50cmロンドンNG

 オランダ建築画の最後の時代はデルフトで始まる.1650年から51年にかけてハウクヘーストが彼の地の旧教会と新教会の実際の内部を,円柱をすぐ目の前の前景として配しつつその遠近の複雑な接合部を驚くべき忠実さで描くのに二点遠近法を採用した.
 これには,すぐにヘンドリック・ファン・フリートHendrick van Vlietが倣ったが,とくにファン・フリートは画業の後半をこれに費やし,建物のプロポーションやいくつかの細部を自由に描き換えたり,他の都市の多くの教会を取り上げたりもした.

・ヘンドリック・ファン・フリート 「沈黙公ヴィレムの墓のあるデルフト新教会」1665年 画布 80x65cm 個人蔵

 デ・ロルメのロッテルダム近郊のLaurens教会の眺望や,デルフトのコルネリス・デ・マンCornelis de Man(1621-1706)の少数の教会内部画では,ハウクヘーストやファン・フリートの発案による構図が取り入れられている.

・コルネリス・デ・マン「デルフトの旧教会の内部」 板 73x59cm

 エマヌエル・デ・ウィッテEmanuel de Witteは初期は野暮ったい塗り方であったが,1650年頃からはハウクヘーストの二点遠近法など他の画家から図案を借用しつつ,1652年頃にアムステルダムに移り,建物の構造やその質感ではなくて,光と影,雰囲気や広大な空間の流れといったものの印象を描くために,建築画においては先例のない流麗な洗練された筆遣いを取り入れたことによって,オランダの建築画の絶頂を具現した.彼の作品に見られる現実ないし,円熟期のrealistic imaginary church仮想の教会は,壮大でありながら同時に親密さを兼ね備えている.17世紀オランダの建築画は因習的な面が強いが,その中で,サーンレダムとデ・ウィッテの二人が傑出していた.

・エマヌエル・デ・ウィッテ 「デルフトの旧教会の内部」1651年 板 61x44cm ウォーレス・コレクション

レンブラントの製作技法(1)

2009-08-29 19:58:57 | オランダ絵画の解説
(1)レンブラント工房~アカデミー

 当時親方画家の工房には徒弟が4-6人程度修業するのが一般的で,これは聖ルカ画家組合によって規制されており,勿論レンブラント自身もそれに加入していないと絵を描いて売ることは出来なかったわけだが,この統制はアムステルダムにおいては他の都市よりも比較的寛容だったようで,レンブラント工房においては,その徒定数は遙に多かったらしい.その中には長期の見習い者(ホーホストラーテンは13歳から7年間修行した)もいれば,他の親方のところで数年修行をしてから入ってきた者(たとえばフリンク)もいたが,残りの多くはアマチュアで,イタリアの画家工房の「アカデミー」のように,授業料を払って指導レッスンを受けていたと思われる.これは組合の徒弟教育のような因習にとらわれずに,例えば人物モデルを囲んで弟子たちがスケッチするといった自由なものであったらしく,1630代のアムステルダムにおいてはこのような指導方法は目新しいものであった.
 ハウブラーケンの記述によれば,レンブラントは借りた倉庫で,弟子たちに布などで仕切った小さなブースを与えて,それぞれが煩わされずに描ける場を提供していたらしい.授業料を取る生徒から徒弟,若い画家に至るまでの才能のある者が彼の指導の下でレンブラント様式で描いた(時には各自に任せたりしたかもしれないが)同じ画材と技法の作品に,レンブラントは署名を入れたので,現代に至るレンブラント作品の真筆同定には困難が付きまとう.
 残念ながら,レンブラント工房にどの位の人数が関わっていたかは,アムステルダムの画家組合の記録が消失してしまっているため定かではないが,文献からは少なくとも20人位の名前は挙がっている.

(2)制作過程と画材
 一般に画家は東西に走る道路に面した家に住み,北窓からの空の光で一日変わらないアトリエの採光を好むが,レンブラントの場合も同様であっただろう.完成した肖像画では向かって左(描かれた人物の右手側)から光が当たっていることからも,彼は右利きであったと考えられており,東側に対象を置いて,左手の北から採光し,右手の影が邪魔をしないようにイーゼルを置いたと考えられる.

 ボストン美術館所蔵の「画家のアトリエ」25x32cm 1629年頃では,右利きの画家は作品から距離を置いて立ち全体のバランスを見ているようで,一般の画家がアトリエの自画像を描くときには椅子に腰をかけた姿が多いことを踏まえて,Broosはこのポーズに注目しているが,光の方向を考えればイーゼルの向きも描くときとは逆斜めでもあり,私見ではこれはすでに完成した作品を見ているか,構図上の虚構であって,この時代の精緻な筆遣いを考え合わせればレンブラントが立って描いていたわけではないだろう.
 支持材は標準的なサイズのオーク板や画布で,当時額の方が決まったサイズで制作されていたと考えられていて,これに合わせていたらしい.板は年輪年代推定法によって,特定の画板制作業者からまとめ買いをしていたようだ.パネルは大きいと2-3枚を継ぎ合わせたもので,裏は四辺を斜めに削って額に固定しやすく加工してある.使用されている板がカットされている場合,裏の削られ方をみれば元の板のサイズがある程度推定できる.板に塗る下地材は制作業者が塗った上に画家が塗り重ねることもあり,元が荒かったりすると真ん中の部分の下地材を削り落としている例(Br566)もあった.画布も下地の塗られたものを購入していたかもしれないが,アトリエで張ってから下地を塗りなおしており,ときにはカットして再利用したりしている.
 顔料については秘技秘伝の類はなく17世紀オランダ絵画の正統的なもので,広く購入可能で品質や欠点の良く知られた様々なものを使用している.よく使用されたものを挙げれば,イタリア・フランス・英国などから輸入された天然の土類からオーカー(黄土色)ochre・シエナ(黄褐色・焼けば赤茶色)sienna・アンバー(茶色・焼けば焦茶色 よく乾く 高級品はキプロスやトルコ産?)umberなどで,柔らかく暖かい赤・橙・黄・褐色が表現でき,溶剤との安定性もよく他の化学的に弱い顔料との混和にも問題がない上に,油での乾燥も早いメリットがあった.唯一の弱点は色の強さだったが,色調の幅の広さと下層の透過性はレンブラントの表現に適していた.人工的な顔料としては,厚く盛り上げて襞襟などを描くのに鉛白lead white,黒い衣装には獣骨を焼いた墨の黒bone blackを用いている.
 彼はこれらの顔料を透過性や不透明性を考慮しながら何層にも塗り重ねており,とくに塗り目(テクスチャー:質感を与える塗りの模様的な特徴)は,不透明で強固な鉛白やときに亜鉛華黄lead-tin yellowによる厚塗りimpastoで表現している.透光性のある大量の顔料を組合わせることで厚塗りで暗色調ながら透過性(色が濁らずに下層が透けて見える)のある部分passageも認められ,この技法はレンブラント独自の創作であろう.このような複雑な顔料の混ぜ合わせと多層塗りによって,レンブラントは色彩と透過性と塗り目から強い印象を与える表現を完成し,彼の選んだ顔料の安定性と組み合わせの良さによって,今日まで多くの作品が良い状態を保っていると考えられる.

 レンブラントの描画技法はレイデン細密派に通じる精緻様式から出発して晩年の粗塗り様式で終わるが,とくに最晩年の作品の念入りで精妙に仕上げられた表面の構造は,筆やパレットナイフの痕跡を見取ることが出来ず,どのように制作されたのかは謎のままである.Broosは,このような自発的で極めて独自の画業の進化はultima manieraに到達しているという.van de Weteringは,この変化は17世紀の工房における意図的な決定に導かれたものであろうといっているらしい.


 この記事は尾崎先生の「レンブラント工房」やvan de Weteringの著書などを読み進めながら改訂してゆく予定です.

レンブラントの宗教画(3)

2009-08-27 21:49:36 | オランダ絵画の解説
(3)中期(42サスキアの死去~56破産)
 1642(1)43(1)44(1)45(3)46(4)47(2)48(2)49(0)50(1)51(1)52-53(0)54(1)55(3)56(1)57(1)

 1640年代前半の聖家族の一連の創作にはサスキアを無くしたことがかかわっているのかもしれない.この時代のその他の歴史画のモチーフとしては,それまでの焼き直しも多い.作風もルーベンス風の力強さを離れて,中規模の画面に,レイデン時代ほどの精緻さへのこだわりからも距離を置いて,静かな精神性を醸し出していくかのようだ.1630年代を支配した強いキアロスクーロは落ち着きを見せ,周辺の重要性の低い部分は略し,劇的ではないが親密さや静謐な瞬間というものを感じさせる.
 Broosによれば,1645年頃制作された作品は,温かみのある深い赤色調の絵の具をたっぷりのせた筆遣いで描かれており,16世紀のヴェネチア派の画家への回帰を思わせるという.1646年の「羊飼いの礼拝」で,フレデリック・ヘンドリックの注文による「キリストの生涯」の連作は完成したが,ハイス・テン・ボッシュのオラニエ・ホールの装飾画の注文はレンブラントではなく他のよりフランドル風の画家に依頼されている.残念ながら,レンブラントが選ばれなかった理由は定かではない.
 1647年以降,「エマオの晩餐」を除けば彼の制作数は激減した.当時レンブラントは新たな家政婦ヘンドリッキェに心を奪われ,ヘルーチェを追い出しにかかっており,その家庭問題が創作に影響していたようで,その後のトローニーや肖像画作品では,以前よりも色遣いは褐色~暗赤色で筆遣いも太く粗くなってきている.
 1652年になると,彼は問題に打ち勝って肖像画の制作を再開し,1653年にはシシリア貴族のRuffoからの重要な注文による「ホメロスの胸像を見つめるアリストテレス」を制作し,その過程で古典学者としての意見を聞いたのであろう友人のヤン・シックスの肖像を1654年に描いているが,この野太い筆遣いの手の仕上げと微妙な筆致による顔の表情の機微の描き分けは,近い時代で比肩できたのはハルスだけであろう.同じ年に描かれた「沐浴するバテシバ」については,Broos曰く「フランドル様式以来の最も偉大な歴史画」とされている.1650年当時のオランダ画壇では洗練された明るい色合いが流行っていたにもかかわらず,レンブラントの太く自在な粗い筆遣いと光と影の強いコントラストは,時代遅れながらも,まだ多くの肖像画の注文を得ていた.このような独自の画境は何処からインスピレーションを得たのだろうか?
 「聖家族」1645 「羊飼いの礼拝」1646
 「エマオの晩餐」1648  「沐浴するバテシバ」1654
この作品は美術史の大家がこぞって傑作と述べているが,憂いのある顔が美しくはないためか,小生は不肖にしてその偉大さをまだ感得できていない.あらためてルーブルで見てみたいと思っている.
 「ヨゼフを祝福するヤコブ」1656
 Broosはこの作品をレンブラントの芸術家としての頂点とし,レンブラントが破産したこの1656年以降を晩期としている.

1642 (III)David's parting from Jonathan
1643 (?)The toilet of Bathsheba
1644 Christ and the adulterous woman
1645 S. Joseph's dream
1645 The Holy Family with angels
1645 Tobit and Anna with a goat
1646 (?)Abraham and the three angels
1646 The adoration of the sheperds
1646 (?)The Holy Family with painted frame and curtains: Kassel
1646 (?)The adoration of the sheperds
1647 Susanna and the elders
1647 The rest on the flight into Egypt
1648 Head of Christ
1648 The supper at Emmaus
1650 (?)Hannah and Samuel in the temple
1651 (?)Noli me tangere
1654 Bathsheba bathing
1655 Joseph accused by Potifar's wife
1655 (?)Christ and the woman of Samaria
1655 (?)David playing the harp before Saul
1656 Jacob blessing the sons of Joseph
1657 (?)The apostle Paul

(4)後期(58転居~69死去)
 1658(0)59(4)60(2)61(9)65(1)66(1)1669(1)

 この頃から1665年の「ジュノー」に至るまで歴史画において一人(ないし二人)の半身像を配した構図で,赤褐色調が支配した作品を制作していく.このほか,同時期に小画面の群像で粗い筆致の作品群もあるが,アムステルダムの新市庁舎の装飾として1662年に描かれた彼の最後の歴史画大作「クラウディウス・シウィリスの謀議」は品位に欠けるとしてまもなく返却されてしまう.1665年頃の「ユダヤの花嫁」の人物の特定は出来ておらず,「イサクとリベカ」などの主題とする歴史画との解釈はportrait historieか否かも含めて明らかではないが,光の魔術や厚塗りの効果がすばらしく,続く1668/9年の「家族の肖像」ではカンヴァスの上でパレットナイフで造形している.
 「石板を叩き割るモーゼ」1659 「ペテロの否認」1660
 「クラウディウス・シウィリスの謀議」1662  「放蕩息子の寄託」1668年頃 
 
 「ユダヤの花嫁」1665年頃
 拡大しないと判りづらいが,女性の肩の透けた生地の部分は,ぼやけたような下層に出鱈目に筆を当てて絵の具を滴らせているように見えるが,それによって金糸を織り込んだ高価な質感を巧みに表現しており,赤いスカートの部分には透明感のある赤の下層に置かれた明るいレリーフの絵の具の塊を見出せる.


1659 Jacob and the angel
1659 Moses with the Tables of the Law
1659 Tobit and Anna
1659 Christ and the woman of Samaria
1660 Assuerus, Haman, and Esther
1660 The denial of Peter
1661 Self-portrait as the apostle Paul
1661 Christ resurrected
1661 The Virgin of Sorrow
1661 S. Matthew and the angel
1661 The apostle Bartholomew
1661 The apostle James the Major
1661 The apostle Simon
1661 (?)Christ with a pilgrim's staff
1661 (?)The circumcision in the stable
1665 (?)Haman recognizes his fate
1666/9 The return of the prodigal son
1669 Simeon in the temple (unfinished)