泰西古典絵画紀行

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ヨルダン・シリアの旅(7)

2009-10-10 15:06:46 | 旅行記
ダマスカス Damascus

 4000年以上の歴史ある大都ダマスカス.ノアの次男ハム(→アフリカ,長男セム→アジア,三男ヤペテ→ギリシアなど)の国に由来するシャームという通称もあるらしく,1万年程前から人類が定住したと推定され,世界で最も古い都市であるといわれる.古来より地中海とメソポタミアの交易の中継地で,紀元前11世紀にアラム人の王国の首都としてシリア地方の中心都市になったが,新バビロニア王国の支配を経て,紀元前539年ペルシア帝国によってシリア州の州都となった.続くアレキサンダーによる征服,セレウコス朝とプトレマイオス朝による争奪戦の後,紀元前64年ローマ帝国によるシリア西部の併合によってデカポリス(十都市連合)の一つとなりギリシャ・ローマ文化が開花したが,この時代までの遺構は地下に埋まっているという.
 その後636年にイスラム帝国によって征服され,続くウマイヤ朝の首都として繁栄の頂点を迎える.750年アッバース朝が興ると首都はバグダードに遷り,その後970年にファーティマ朝による支配下で,ローマ風の格子状の大路は狭い街路のイスラム風の都市に変貌して行く.1079年のセルジューク朝において再び独立国家の首都になり,その後,1169年からのサラーフッディーン(「宗教・信仰の救い」の意)」,英サラディン)の統治下で城砦は再建され学問の都となったが,彼の死後内紛で徐々に衰退し,続くマムルーク朝,オスマン帝国においては州都に甘んじた.
 現在はシリア共和国の200万人が暮らす首都ですが,今回は半日で国立博物館と旧市街の一部を観光しただけでした.

 なお,ダマスカスの北西には旧約聖書創世記に記述のある「カインがアベルを殺した場所」とされるジャバル・カシオン(カシオン山)が旧市街を見下ろし,南にはグータという大きなオアシスがあり「エデンの園」のモデルではないかと云われているそうです.


左上・看板上方にOld Damascusとあるように旧市街の城壁,右にスーク(市場)の入り口が続く
左下・入口付近から見たスーク・ハミディーエというオスマン帝国時代に建設された市場 アーケードの中は少し薄暗く
日の光が差し込んでいる
右二列・光物を扱う店が多いが,入口近くの右手に楽器店があった(右端).リュートは下の貝象嵌のものが売値US$550,
上の銘木の象嵌のほうが高価とのこと.その前にあったズゥーメラzoumeraというダブルリードの貝象嵌の幾何学模様の
入った縦笛を土産に購入した(US$55.5→45でそれ以上は無理とのことだが).狭い店内ながらチターやヤマハの電子
楽器も扱っていた.

 この突当りがウマイヤド・モスクの北門だが,先にすぐ左手のサラディン廟に向かった.十字軍からイスラム帝国を救い1193年この地で病死したアイユーブ朝の始祖にして英雄のスルタン,サラディーンの墓である.


左・サラディン廟の外観 神聖な場所であるため靴を脱ぎ,女性が拝観するにはアバヤというフード付きコートのようなもの
をかぶらなければならない.ある人曰く「ネズミ男」のようだと
右・同内部 外壁上部は後付けである.壁にはビザンチン時代のイスラム風の細かな植物のモティーフの装飾
手前の白い石棺は1889年ドイツのヴィルヘルム二世から送られたもので空,右手(奥)の緑布が被せてある木製が本物.

 ウマイヤド・モスク(ダマスカスの大モスク)は,2000年以上前から神聖な場所で古代ローマ時代にジュピター神殿があり,ビザンチン帝国時代はキリスト教の聖ヨハネ教会だったものを,ウマイヤ朝が715年に10年以上の年月を要してモスクに改造したもので,創建時の姿を留めるものとしては世界最古,世界で最も大きいモスクの一つであり,イスラム教で第4番目の聖地(カアバ・預言者のモスク・岩のドームに次ぐ).通常のモスクとは違いローマ建築・ビザンチン建築の様式が色濃く出ている.内部には絨毯が敷き詰められており,入場時の服装に制限があるのもサラディン廟と同様.


北口からみたウマイヤド・モスクの中庭 左の建物は宝物庫,表面の装飾はモザイク


左上・北口外から見たウマイヤド・モスクと尖塔 右上・北口の天井装飾 赤地に幾何学模様はペルシャ絨毯を連想させる
 モスクの尖塔(ミナレット)は,北アフリカでは四角,イラクでは螺旋,オスマン・トルコでは鉛筆型とのこと
左下・中庭に面すローマ・ビザンティン建築様式の装飾 右下・回廊の角の壁には創建時のモザイク装飾が随所に残る


モスクの内部 左手の壁に緑ガラスの窓のある寺院にはヘロデ王によって斬首されたイスラム教で預言者とされる洗礼者
ヨハネの首が納められているといわれている


左上・モスク内部を見返る    右上・洗礼台
下段(左から)不遜ながら寺院の内部を見てしまった・祈る信者の方々・ミフラーブ(キブラ[メッカの方角]に向いた壁の
窪み)・入口のステンドグラス


上段・アゼム宮殿 1749年に建設された同市の統治者アゼムの館だったが,現在は民族学博物館
中庭が美しく,右のように等身大の人形を配して宮殿内の様子や,アラブの寺子屋,アラビア語の細密文字,工芸品やその製作過程,伝統衣装・象嵌細工の楽器などが展示されている.
下段・国立博物館 中央は 右端の写真の右の上はカシオン山
 シリア各地の遺跡からの重要な遺物が保管されている.建物内部は写真撮影禁止で英文のガイドブックを購入US$28 前14世紀のウガリット語の粘土板は,人類史上初めてのアルファベットの原型.ダマスカスの迎賓室は1737年築の豪邸の応接ホールを修復したものだが圧巻だった.253年に造られたドゥラDura・エウロポス都市のシナゴーグの壁画には旧約聖書の物語が描かれ24点が残っている.
 


上段(左から)小瓶に造られた怪しげな青い香水・午睡中失礼しました・屋台のザクロジュース売り
下段・アンティークショップ?・まっすぐな道にある旧邸宅の廃屋・ファーティマの手のドアノッカーの例4つ ファーティマは
ムハンマドの四女で理想の女性とされた.神への奉仕にかかわる教えは手の形に象徴されるといい,その手はスンニー
派には護符となったそうだ.


右上・まっすぐな道(正面にはローマ記念門と教会)     左上・まっすぐな道の終点 東門(バーブ・シャルキー)
右下・東門を出て右に曲がるとBab Kisan門へ 現在は聖パウロを記念した教会がある 左下・東門にあった案内地図

 この城壁は、1世紀頃、ローマが最初に建設したと言われているが,現在残っているのは13世紀から14世紀に,十字軍やモンゴル帝国の侵略を防ぐためアラブ人が建築したもので,7つの門が残っている.
 まっすぐな道は(直線街路Via Recta),1500メートル以上あった東西に走るローマ時代のダマスカスのメインストリートの一つであり,使徒行伝第9章第11節にある「聖パウロの改宗」に登場する.キリスト教徒捕縛のためダマスカスに赴くが途中光に目をくらまされたサウロは見えないまま道がまっすぐだったので過たずアナニアの家に辿り着き,そこで洗礼を受けたところ開眼したという.回心したサウロはパウロと改名したが,キリスト教徒によりバーブ・キーサンから籠に入り塁壁から吊り下げられてダマスカスから脱出したという伝説が残っている.


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