泰西古典絵画紀行

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損保ジャパン東郷青児美術館 ウフィツィ美術館自画像コレクション-巨匠たちの「秘めた素顔」1664-2010

2010-09-19 10:53:53 | 古典絵画関連の美術展メモ
 損保ジャパン東郷青児美術館では,プラート展,ペルジーノ展,ジョット展に続く4番目のイタリア美術展と位置づけている.金曜の夕べギャラリートークを拝聴した.
 主任学芸員の中島 啓子先生によるギャラリートークは,イタリアとフィレンツェの歴史から.以下は個人的復習.
 イタリアは古代はローマ帝国の中心であったが,4-5世紀のゲルマン民族の大移動(375年フン族の外圧でゲルマン人のゴート族が南下,帝国領への侵入に端を発す)で395年ローマ帝国が東西に分割相続され,476年西の帝位は消滅し西方領土は失なわれたが(ヨーロッパは古代から中世に移行),同地に勃興していたフランク王国のカール大帝が800年ローマ教皇より西ローマ帝国皇帝の称号を得,コンスタンチノープルに首都をおいた東ローマ帝国から自立した.843年フランク王国は東(神聖ローマ帝国:いまのドイツ)・中(オランダからライン川流域を経てイタリアに至る帯状の地域だったが北部領土ロタリンギア[ロートリンゲン(ロレーヌ)]が東西フランク王国により吸収され,集約していまのイタリア)・西(いまのフランス)の3つに分割され,963年イタリア半島の中フランク王国は神聖ローマ帝国の支配下となる(イタリア王位として皇帝が兼任).
 その後,フィレンツェなどの都市では貴族や商人による支配体制が進み12世紀には自治都市となり,13世紀半ば皇帝不在の大空位時代に神聖ローマの支配権が弱体化し,毛織物と金融業で富を蓄積したフィレンツェはトスカーナの大部分を支配するフィレンツェ共和国の首都になった.15世紀前半コジモ・デ・メディチは下層階級と通じて共和国の支配者となり,その孫のロレンツォの時代にはルネサンスの中心地として黄金期を迎える.1494年フランスへの屈辱的譲歩によりメディチ家は一時追放されたこともあったが,1569年コジモ1世が教皇からトスカーナ大公の称号を授与され,フィレンツェはトスカーナ大公国の首都となり最盛期を迎えた.この時期にヴァザーリが迎えられている.17世紀にはいると地中海貿易の低迷などでイタリアの衰退が始まり,1737年にメディチ家の継承者は途絶え,オーストリアのハプスブルク=ロートリンゲン家に継承された.

 続いて,ウフィツィ美術館の自画像コレクションの歴史と展示内容について.
 1581年フランチェスコ1世が宮の最上階に収集品を陳列して近代西欧最古のウフィツィ美術館が誕生し,1765年には一般公開された.戻って1664年に大公の弟にして枢機卿のレオポルド・デ・メディチは,「自画像が芸術家のスタイル・芸術館・世界観・自意識などのすべてを内包している」と考え,各国の目をフィレンツェに向けさせる文化戦略の象徴として「自画像コレクション」を創始し,現在に至るまでコレクションは1,700点以上に成長している.ルネサンス以後の自画像は,ピッティ宮(メディチ家の住居・現パラティーナ絵画館)と16世紀に造られたウフィツィ宮(office庁舎)(さらにヴェッキオ宮)とを結ぶ約1kmの「ヴァザーリの回廊」に展示されているが,ここからの十数点(約1/4)に収蔵庫の作品を加えた約60点が今回展示されているとのこと.大阪のみで展示される作品が少なからずある.

 展示は年代順に五部構成で,解説は数点をピックアップして回られた.

1.レオポルド枢機卿とメディチ家の自画像コレクション 1664-1736 14点
 フィレンツェ派・ローマ派・ロンバルディア派・エミリア派・ヴェネツィア派・イタリア以外の派に分類した展示
 当時は絵画は外交上の贈答品・画家が外交官を兼任する場合もあった
・プリマティッチョ 1525/32年 ハプスブルク家のカールⅤ世と,イタリア諸都市に進出していたフランソワⅠ世との確執からイタリア戦争が起こり,神聖ローマ帝国のローマ侵攻後,プリマティッチョはフィレンツェからフォンテンブローに移りフランス美術・同派の基礎を築いた.自画像はその時期の制作
・フォンターナ 1570/75年 銅版にミニチュアール風・ティントレッタ(ヤコポ・ティントレットの娘) 1580年頃:ともに女流画家 自らの芸術の才能を画中に示す 自画像コレクションでは圧倒的に男性が多いが,展示のバランスを考えて女流画家を増やしたとのこと
・アンニーバレ・カラッチ 1603/4年 ルネサンス(古典主義として静かなる偉大さ〔モニュメンタル〕を表現.新プラトン主義の解釈では芸術家がイデアの具現者として誇りと地位を高めた)からバロックへ移行期の代表的画家(バロックの柱から天井・天蓋を騙し絵で壮大に見せる様式を確立)であるが,当時もう一人のバロックを代表するリアリズムの画家カラヴァッジォに契約をとられ苦悩していた晩年の作品
・ベルニーニ 1635年頃 ボルゲーゼの大理石彫刻などに代表されるバロック芸術の巨匠であるが,光と影がバロック風であること以外は,普通人として描かれている
・レンブラント 1655年頃 自画像が自己探求の表現手段となる (とくに真筆性については触れられず)

2.ハプスブルク=ロートリンゲン家の時代 1737-1860 12点 フランス革命で欧州が近代化の波にのまれていった動乱期,ロココから新古典主義への移行期
 有名画家も自分の絵が展示される際には,男性はその才能を自慢し女性は美しさを誇るらしい
・レノルズ 1775年 ミケランジェロの模写素描を持っているのは,自らが英国に広めたことを誇っている 
・マリー=ルイーズ=エリザベート・ヴィジェ=ル・ブラン 《マリー・アントワネットの肖像を描くヴィジェ=ル・ブラン》1790年 女流画家は35才頃とは思えない輝くばかりの若さと美しさ.この作品が画架に乗せられた図があるのは当時から人気が高かったことの裏づけ. ル・ブランはフランス革命後,アントワネットの兄がトスカナ大公だったためフィレンツェに身を寄せた.

3.イタリア王国の時代 ベックリン(代表作「死の島」はフィレンツェで制作.この自画像は老齢のため息子が制作した)・象徴主義のシュトックやラファエル前派のレイトン卿,ドニなど13点
 イタリアでも独立戦争が起こり,トスカーナ大公国はイタリア王国に合併され,1865年にはフィレンツェが一時その首都となり(その後ローマに遷都),当時の新興住宅地が「イタリアのモンパルナス」と呼ばれた.
 自画像の収集はフィレンツェ在住の画家ないし各国の公的機関を通していたため,在野にあった当時の印象派はその対象から外れ,その後は作品高騰により入手できなかったという.

4.20世紀の巨匠たち シャガール(自ら寄贈)・キリコ・ブルネレスキ・フジタなど15点
 前衛芸術家は権威に対する反骨精神のためか金銭感覚のためか,ピカソらは寄贈に応じなかったという.

5.現代作家たち 世界的な自画像寄贈キャンペーンの一環として,会期直前に日本から草間弥生・横尾忠則・杉本博司画伯の作品の寄贈式があったそうだ.計11点
 横尾画伯の作品は自らのデスマスクならぬ眠り顔のライフマスクを日本地図の中央に配し「眠ってる私、静かにして」(低迷している日本に)「早く目覚めよ、という逆説的な意味を込めた」と解説されており,アンビバレントな状態を表現したらしい.杉本画伯の作品は,牛乳瓶の底のような眼鏡をかけた自画像を描いたカンヴァスの周囲に,のみの市で集めた多数の古い検眼鏡と地図を配し,ゆがんで見える眼鏡は「どれだけ常識と違う見方ができるかがアーティストの基準になる」ため用い,周囲の個々の眼鏡は別々の目的で使用されることを示しているとのこと.1mのサイズの制限があるのだが,額が鉛で重くて壁掛けだけでは不安だったため支持台を用意した由.


 以下は個人的感想.
・第1・2章にまたがって16世紀絵画5点,17世紀絵画6点,18世紀絵画10点
・収穫はJ・ベルクヘイデ,F・ミーリス父,それにアングル,そしてなによりル・ブラン

・ヨプ・ベルクヘイデ(1630-1693) 1675年 

 以前紹介した書籍"Die Selbstbildnisse der Hollaendischen und Flaemischen Kuenstler in den Uffizien"の表紙を飾っている作品 ヨプは17世紀後半のハーレムで活動し都市景観や教会内部を描くほか風俗画家として知られている.この作品ではアトリエで絵を描くポーズをとってこちらを凝視しているが,この絵を観る者はあたかもモデルになっているような錯覚にとらわれよう.この様な絵を描いている画家の自画像というモティーフはとくに17世紀半ば以降よく描かれており,多くの場合,画家が自分の才能・技量を誇る手段として手元において,作品を求めてきた未来の購買者にアピールする目的があったのかもしれない.
 目に付くのはテーブルに置かれた彫像・楽器と楽譜・コンパス・パイプにワイングラスだが,これらは五感の寓意でそれぞれ視・聴・触・嗅・味覚を表している.また,コンパスは幾何学を連想させるが,例えばデューラーの銅版画「メランコリア I」の図像解釈では幾何学・占星術のシンボルと神話との結びつきから,サトゥルヌスは幾何学を統べる者であるといわれる.パノフスキーによれば*「(かの神の)もとで生まれた人間はメランコリーにならざるを得」ず,新プラトン主義では「サトゥルヌス的な憂鬱と天才とを同一視」する.その「子供たち」の一部(=芸術家)はメランコリーな気質により瞑想から芸術の霊感を得て美を創造する.同様に楽器もメランコリーを表していると言う.
 室内画の設定では光取りの窓は必ず画面の右に存在するが,この作品のように自画像になると利き手が右だと画面に影が出来てしまうので虚構の設定かもしれない.壁にかけられた画中画は,現在,フランスハルス美術館に伝わっているが,実物とは左右反転して描かれているので,画面全体が鏡像として描かれていると考えるのが妥当であろうが,その場合ヨプの利き手は左手になるのだろうか.ちなみに,この画中画では実物の自画像には描かれていない金のメダイヨンを首に下げているが,それはハイデルベルクで活動した際に同地のプファルツ選帝侯から贈られたものらしい.
Saturn and Melancholy 土星とメランコリー 自然哲学、宗教、芸術の歴史における研究 レイモンド・クリバンスキー アーウィン・パノフスキー フリッツ・ザクスル 邦訳1991年,晶文社
*エルヴィン・パノフスキー「イコノロジー研究」p.71.邦訳1987年,美術出版社


・フランス・ファン・ミーリス父(1635-1681) 1676年

 前に並んだ女子大生風のお二人が「うまいよねー,でも有名じゃないよねー」と語らっていたので,「ミーリスはレンブラントのライデン時代の一番弟子のダウの一番弟子だから結構有名で,海外では回顧展も開催されている」と教えてあげたくなってしまった.ライデン精緻派の代表格の一人である.ただ,ミーリスとしては晩年の作品で影付けが強くなっており,この絵の顔は美しいとは言いかねるが.
 たかだか22x16cmの画面に緻密に描かれたサテンなどの輝くような質感,筆の跡が殆ど見えないことに注目していただきたい.弾いているのはTheorboという楽器らしい.
 O.Naumannによれば,1672年コジモ大公からミーリスへの自画像の注文にアーチトップ型の他の作品に合わせるようにという指示があり,これに合致することから本作がこの注文制作をうけた自画像であると仮定されている.ミーリスの自画像は他にも注文制作があったようで,美術史上,商品として自画像を描く様になっていたことは興味深い.ちなみに没後300年の1981年に出版されたNaumannのレゾネの時点でミーリスは少なくとも自画像を7点,自画像と推定されている作品7点(本作も含む),自身が描きこまれている風俗画を17点描いていることがわかっている.ちなみに自画像をダウは14点ほど,レンブラントは50点以上描いている.
 
・レンブラント(?) 1655年頃

 もともとこの時期の作品は荒い筆致が個人的にはあまり好きではないのだが,この作品はレンブラントの追随者によることで見解は一致しているようだ.Bredius/Gerson45番で「Sliveがcopyであるとしている.厚い変色したニスの下では判断が難しいがSliveは確かに正しい.X線像では淡く下書きがある」とのこと.Tumpelは未記載.CorpusⅣに掲載され12番[要確認].暗部のコンディションはまあまあで結構補彩がある.顔のハイライト部分のモデリングも厚塗りのインペストがやや単調のようだ.確かに印象は弱い.義弟のプファルツ選帝侯からメディチの大公に贈られ1773年コレクションに加わったそうだ.
 ウフィツィはレンブラントの自画像を他に2点持っているが,1634年の自画像は帰属作品でBredius/Gerson20番.Tumpelは未記載で,CorpusⅢB11.これは作品としては好感が持てる.もう一点は1669年最晩年の自画像.Bredius/Gerson60番でCorpusⅣ28番.真筆であると見解が一致しているウフィツィ唯一の作品.
 
 Bredius/Gerson20                      Bredius/Gerson60

・以前から思うのだが,ル・ブランの自画像では上の前歯に隙間があるように見えるのが気になる.ご愛嬌か.


 展示の解説ボードには参考図版も掲載され理解を助けていた.前述の書籍を持っているので今回は図録を購入しなかった.記述に誤りがあればご教示ください.


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