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「時は今あめが下なる五月哉」

2014-07-28 08:29:34 | 旅行

6月に鷲さんと行った城巡り。
一筆啓上重文丸岡城、譜代筆頭井伊家国宝彦根城、信長独創的天主安土城跡、天下分け目関ヶ原古戦場、天下布武岐阜城、現存最古天守国宝犬山城、高遠小彼岸桜高遠城址と巡りました。
岐阜城の天主の資料展示にあった「天下布武」の朱印。
吉法師の頃からの指導者、禅僧澤彦(たくげん)の進言から武家による天下武力統一事業CIロゴマークとして花押の代わりに朱印状に押したのです。
「尾張国小真木山より濃州稲葉山へ御越しなり。井口と申すを今度改めて、岐阜と名付けさせられ」信長公記
永禄10年(1567)信長34歳で本拠地を小牧山城から稲葉山に移転し、中国周王朝の文王が岐山の地からの中国統一に因み城と町の名を「岐阜」と改めたのです。
    
金華山(329m.当時は稲葉山)の山頂に長良川畔からイッキに300mも登る城は他にありません。
Wikipediaには「難攻不落の名城として知られているが、実際には歴史上7回の落城にあっている。山頂部の平坦面は少なく、井戸も雨水を蓄えるもので、戦国時代末期の大人数による長期籠城戦には本質的に不向きであった。」とあるように食料、武器の荷揚げなど実用性はなかったようです。信長も山頂に住まず山麓槻谷(発掘中?)の巨大な石組造成地に12年近く住んだのです。
我々はロープウェイでイッキに上がりましたが、天主はまだずっと先です。
天主の住居表示は「岐阜市天主閣18番地」だそうです。
 
地球儀と望遠鏡がありましたが信長ご用達とはありませんでした。
NHK軍師官兵衛で、高山右近とイタリア人宣教師バレンチノが信長、濃姫、光秀に地球儀を献上、世界を説明しているのは天正7年(1579)1月にできた安土城です。信長45歳。光秀51歳。右近27歳。
バレンチノは元亀元年(1570)37歳でイエズス会から派遣され天正6年(1578)の村重謀反の時、高山右近に助言したと伝えられています。村重はこれで窮地に陥ったのです。
イエズス会は時の最高権力を見極めて布教活動していたのでしょう。2年後バレンチノは信長に願い安土にセミナリオを建てています。
濃姫「丸ければ人が落ちてしまうではないか?」「海の水が流れ落ちてしまうではないか?」はNHKの脚色でしょうが信長に「日の本はどこじゃ?かように小さいのか?」「光秀、わしとともに世界を見に行かぬか?」振られて小朝光秀はびっくり当惑顔です。
信長の「唐入り構想」がここから芽生え、光秀の遠国移封懸念が3年後の本能寺へと結びついていくというのは考えすぎでしょうか?
それにしても生田斗真演じる高山右近が画面に出始めた5月は視聴率が跳ね上がったというジャニーズJrのイケメン俳優です。視聴率は「ウコンの力!」って言われたそうです。
ひきかえ小朝師匠の光秀は最初違和感ありました。享禄元年(1528年)生まれは信長の6歳年上ですがちと老けすぎてません?
今回の軍師官兵衛は、山崎の合戦で坂本城に敗走中の光秀の脇腹に竹槍が刺さったのです。
鎧つけてたのに?と思ったのは私だけでしょうか?
日本の戦で実用NO1の防具は近藤勇の着けていた脇、首など弱点を守る鎖帷子だと思います。
     
のろし玉、宝録とあるが焙烙(ほうろく)でしょう、撒菱、吹き矢など忍者の道具たち。
戦国時代の戦の手柄は敵将の首ですが、永禄3年(1560)27歳の信長は田楽狭間で義元の休息情報を伝えた者に一番手柄を与えたとされます。
甲賀衆を所領安堵して配下としその情報収集力を武器とした信長はスゴイです。

安土城大手道。
幅6mの石段が180mも続きます。
普通、城に続く道は迷路のように曲がりくねりますが信長の美学?なのでしょうか。
大手道正面の守りを固めるように両脇に秀吉と前田利家の屋敷跡があります。二人は毎日天主まで200mの高さを信長に会いに石段を登ったのでしょう。
標高198mの安土山に建てたこだわりの天主ドームに天正10年(1582)6月の本能寺まで信長は3年余りしか住めませんでした。
  
信長は「山ひとつ、まるごと城にせよ」といったとか。
いやはやこの石段くたびれます。
高すぎて上がれないところには踏み台用にブロックが置いてあります。
前日の8日は毎年恒例の「あづち信長まつり」の最中でごった返してました。。
クルマ停める場所がなく警備員に「行って行って」て言われて入らずに通過。翌朝5時起きしてリベンジ。朝早すぎて入山料(700円)の受付いませんでした(帰りも)。早起きは得。
。途中東海道本線に列車が見えます。
  
二の丸脇に秀吉が建てた信長廟と正面小山が天主跡。
:信長の館
1992年セビリア万博に出展された原型の安土城の復元天主(5・6階部分)が城跡から見える東海道本線向こうの信長の館にあります。
城跡見て7時の朝食にホテルに帰っため素通りでした。絢爛のドーム見に訪れるのはまたの機会です。
:「本能寺の変 431年目の真実」明智憲三郎
名前のとおり明智残党刈りを逃れた光秀の子・於寉丸(おづまる)の子孫が書いた「歴史捜査」書。
本の帯キャッチコピーにはこう書いてあります。
「天正10年6月2日未明、信長の策謀、光秀の焦燥、家康の苦悩、秀吉の野心、すべての点がこの日ひとつに重なる。」
衝撃の真実を読んでみました。
高3の日本史の授業で江口先生に教わった本能寺3日前の光秀が詠んだ発句。「時は今・・・」
「時は今あめが下しる五月哉という句は光秀の天下取りの野望を喧伝するために、秀吉が意図的に言葉と日付を改竄した虚偽の証拠だったのだ。」p33
著者は「信長が堺見物から京に戻る家康を6月2日に本能寺の茶会に呼び寄せ、光秀の手勢で家康と重臣を殺害そのまま家康領を占領しようとした家康討ちを、信長の長期政権構想から近江・丹波の領地没収と遠国移封を懸念した光秀が土岐氏再興から信長討ちにすり替え実行したもの(要約)」
なんと6月2日本能寺は信長の家康殺害計画だったと言うのです。
映画になって欲しいなこの本、と思ってます・・・

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