和納中37年入学

同級生と和納と旅行をアップ。誰だか分かる?

観音講にて

2012-02-20 16:48:19 | 日記

一人づつ大般若経を繰る曹洞宗の「転読」。 「降伏一切大魔最勝成就」と一喝!
七区(旧裏町)では毎年2月に「観音講」の集まりを続けている。今年は上組が当番だ。
楞嚴寺の住職にお祓いを受け、お札をいただいた後に懇親会が始まる。
上和納村で毎年五月に開かれた江戸時代「馬市」の記録(和納区有文書)もあり、その昔ほとんどが稲作農家だった和納には農耕馬(牛もいた)と共に暮らす生活から馬の無病息災を馬頭観音に祈る民間信仰「観音講」があった。


→文政二年(1819)の岩室村明細帳に「當村は山寄りに御座候て市場には御座無候、近郷市場は長岡藩御領巻村へ貳里、同御領吉田村へ貳里、三根山藩御知行所和納村へ壱里御座候」とある。現在の岩室村行政区域の中では和納がただ一つの市場開設の場所になっていたことがわかる。和納村は三根山藩領内全町村の中で最も人口の多い一二八三名を数える村で(嘉永三年、(1850)、御領内人別都合帳)、三根山藩領内一のにぎわいある町なみであった。また、西川ぞいに位置しているが、西川は三根山藩領をはじめとする西蒲原地域と港町新潟を結ぶ重要な河川交通路として利用され、領主の年貢米の集散や納屋物(*)と呼ばれた商人たちの商い物の運送などに利用されていた。和納は三根山藩領としては最も交通の要地にある村でもあった。:岩室村史
(*)納屋物=江戸時代、各藩の蔵屋敷などを 経て販売された蔵物に対して、民間の商人によって直接売買された米その他の商品。 生産者から、荷積問屋・荷受問屋・仲買・小売を経て消費者に渡った。:Wikipedia
:「岩室村史」
→・・明治五年まで馬の売買が行われていた。馬の売上頭数は明治元年に四十一頭ほどであったが、年一回の馬市には、馬市案内状送付の広がりから見て、越後一国と遠く信州からも馬の売買のために人が集まり、馬市の日和納をにぎわせていたものと思われる。こうした馬市も領主の支配監督下に行われたから和納村民にとってはむしろ迷惑な点も多かった。享保十六年(1731)三月に和納村惣百姓、組頭、名主連名で代官所に訴えた訴状によれば、「上和納村で毎年五月十五日から二十一日まで行われる馬市は、水不足の西川から水を引かねばならない時期に昼夜馬市のために夜番などさせられ難儀をしている。また、近在の人はもちろん、遠国からも大勢の人が来て時には口論するなどの事件もおき、また火の用心にも悪いのでぜひ馬市はやめさせてほしい。」(和納区有文書)と訴えている。一年に一度の馬市のにぎわいも、当時の和納村民にとっては必ずしも歓迎されてはいなかったのである。:岩室村史

昭和30年代まで馬はずいぶんと身近にいました。
一つ屋根の下に馬もいっしょに住んでいた農家もあります。
和納駅前にあった倉庫には、米俵を満載した馬車が列をなしていました。
西川を渡る夕栄橋の坂(今いもじろんの前)は今ほどなだらかでなく急だったので、重い荷を積んだ馬車は八幡神社の脇の坂を上ってきたそうだ。
坂を上った馬が気が緩んで、そこ(六四郎ろんの前)で脱糞したものを塵取りで片付けるのが子供の頃の自分の仕事だったと爺さんが茶飲み話をする。料亭「六四楼」だったので家の前はきれいでなければいけなかったのだ。
砂利道のいたるところに黄色い馬糞の山があり、草の繊維が乾いて風に舞っていたのは遠い記憶だ。
馬糞は丸くて団子を積み上げたようで綺麗。牛のはスランプが大きく軟らかなビチ糞状で汚い印象を持ったものです。
その馬も機械化でいなくなり、馬の信仰もいまは家族の無病息災、車の交通安全を祈る会に変わって続いている。
真宗の福成寺、願善寺で行われる開祖親鸞聖人の法要「報恩講」とともに「講」は年寄りにしか通じない。
若いうちは信仰や宗教に遠いところにいる。

新聞の連載が終わり本になった「親鸞」を、書店で若い男性が「オヤドリ」ってなんだ?と連れの女性に尋ねていたと五木寛之が新潟日報に書いていました。
今年90になる爺さんの楽しみは、檀家が集まり住職とともに各地の寺社仏閣、温泉観光地をめぐる旅行に行くことだ。
宗門人別改など幕府の宗教政策として機能した檀家制度だが、寺と民衆のつながりの面でも機能してきた。
去年は下北恐山と親鸞聖人750回大遠忌法要の京都。この四月は念願の山陰出雲方面の案内が来て楽しみにしている。

住職のお祓いは両肩に2回ズシン ズシンときます。
:楞嚴寺の馬頭観音。
目尻を吊り上げ、怒髪天を衝き、忿怒(ふんぬ)相をしている。
馬は魔を蹴散らし、柔和な顔の観音様の中でただ1人怒りの表情は煩悩を打ち砕くとされる。
親指人差し指小指を立てて合わせ、他の指は甲を合わす馬頭印は、強力な結界で魔の進入を防ぐとされます。
蓮の花や水瓶を持たず斧や錫杖、宝珠(丸いのや、他は何だろう?)を持っている。
:平安時代 ボストン美術館所蔵
馬頭観音(ばとうかんのん / めづかんのん)、梵名ハヤグリーヴァ (हयग्रीव [hayagriiva])は、仏教における信仰対象である菩薩の一尊。観音菩薩の変化身(へんげしん)の1つであり、六観音の一尊にも数えられている。観音としては珍しい忿怒の姿をとる。
「馬頭」という名称から、民間信仰では馬の守護仏としても祀られる。さらに、馬のみならずあらゆる畜生類を救う観音ともされ、六観音としては畜生道を化益する観音とされる。
近世以降は国内の流通が活発化し、馬が移動や荷運びの手段として使われることが多くなった。これに伴い馬が急死した路傍や芝先(馬捨場)などに馬頭観音が多く祀られ、動物供養塔としての意味合いが強くなっていった。:Wikipedia

村はづれの歌

咲いてゐるのは みやこぐさ と
指に摘んで 光にすかして教へてくれた――
右は越後へ行く北の道
左は木曾へ行く中仙道
私たちはきれいな雨あがりの夕方に ぼんやり空を眺めて佇んでゐた
さうして 夕やけを背にしてまつすぐと行けば 私のみすぼらしい故里の町
馬頭観世音の叢に 私たちは生れてはじめて言葉をなくして立つてゐた   :立原道造

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