8月の終わり、今年も黄色い小箱を届けて来ました。ほとんど10円玉ですが・・・
温泉街だいろの湯入口にはいつものお年寄りグループの笑顔です。素通りして湯に向かうには少し勇気と図々しさがいります。
この24時間チャリティーキャンペーンが今年で37回目と続いていることに驚きです。
なんでも「11PM 巨泉の考えるシリーズ・世界の福祉特集」から誕生したとあります。
毎年10億円以上の募金が集まるそうですが、去年写真週刊誌にマラソンランナーや総合司会など出演者のギャラが暴露されたせいか今年は募金額も半分程度のようです。
「えー!ギャラ出てたの?チャリティーでしょ?ボランティア出演じゃなかったの?」という人が多かったのでしょうか?
ネットには週刊誌的ニュース(論争?)が満載です。
「感動を押し売りしている」という批判も最近のネット中心に多く聞こえます。
なかでも乙武洋匡さんが番組に対して、24時間TVは否定しないが障害者の取り上げ方、頑張ってる姿だけという表現の仕方があまりに一面的すぎ。過去に総合司会のオファーを断ったことがある(要旨)と言ってます。
「五体不満足」の彼の存在、意見が今までの障害者に対する意識や視点に変化を与えつつあるように思います。
去年、視覚障害者団体から「ダルマに目を入れて選挙の勝利を祝う風習は、両目があって完全という偏見意識を育てることにつながりかねない」というクレームがあったことで、選挙事務所からダルマが姿を消しつつあるというニュース。
乙武さんは、記事を読んだ多くの方々の感想は「考えすぎ。そんな意図はないはず」。たしかに、ダルマに目を入れるという風習が差別や偏見に当たってしまうというのなら、世の中の多くのことがグレーゾーンになる。最近では、ブラインドタッチ、目が節穴という言葉さえ・・・・正直、言いだしたら、キリがない。としながらも私のように障害を負と思わない障害者ばかりではない。彼らはなぜ、それしきのことで差別や偏見だと感じてしまうようになったのか。幼少期にいじめに遭い、親にも受け入れられず、しんどい環境のなかで育ってきた彼らがなぜ「いやだ」と感じてしまうのか、そこに気持ちを寄り添わせる視点は忘れずにいたい。と代弁し理解を示しています。
ダルマを視覚障害者だけでなく手足のない障害者の中にも受け入れられない人がいるという事実。「それしきのこと」ではない人達がいるのです。
考えさせられた24時間TVのニュースでした。
地上にあふれる貧富の格差に何もせずに目を背けている自分がいます。
ユニセフやプラン。またチャリティーがある度たまにする寄附は免罪符をもらった気分にさせてくれます。
神仏への寄附、奉納、お供えでも「このお金をどうぞ人助けに・・」と感謝して出すのと「どうか商売繁盛、身体堅固、家庭円満、できれば宝クジに・・」と願い事で出すのではお金の価値がどうも違うようです。
「日本人はお願いは知っているが、お祈りを知らない」とよく外国から言われるそうですが、確かに思い当たります。「神頼み」って日本だけ?
心に染みます。
「長者の万灯より貧者の一灯」故事
「にんげんにかねをまわしてさばきする」浅見宗平
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