1397年(応永4年)4月 足利義満、北山第金閣を造営。
遺作なの金 全普請。
1397年 金閣寺 禅宗様 武家造 寝殿造
[ポイント]
1.鹿苑寺金閣は三層構造で、上から上層は禅宗様、中層は武家造(書院造)、初層が寝殿造である。下から上ではなく上から下へ並んでいるので注意してください。寝殿造りが3階にあるとは考えにくいので間違えないと思いますが(笑)。
[解説]
1.金閣は、1397年、3代足利義満が広大な北山山荘(北山第・北山殿)内に、作った三層の舎利殿のこと。二層目と三層目は、漆の上から純金の箔が貼られており、頂上には金の鳳凰が輝く。このきらびやかな外観から通称を金閣という。義満は征夷大将軍を子の義持に譲った後も実権を握り、この北山山荘で政務一切を行った。義満の死後、ことごとく父の政策を否定した義持は北山山荘を舎利殿を残して解体、臨済宗の禅寺として鹿苑寺と名付けた。
〈2016上智大・神外(英)総人(教・心)
問7 鹿苑寺金閣について、次の問いに答えなさい。
(1) 次のうち。鹿苑寺と金閣について説明した文章として不適切な(あきらかな誤りを含む)文章はどれか。1つ選びなさい。
1 足利義満は1394年、義持に将軍職を譲って太政大臣となり、翌年出家。その後。北山殿に移住した。
2 金閣は、北山殿に建立された楼閣建築で、池に臨む三層の舎利殿に切妻造の釣殿が付属する。
3 金閣は、初層を寝殿造風、第二層を観音堂。第三層は方三間の禅宗様の仏殿としている。
4 金閣は。初層から第三層までの木部の全てに金箔がはられていたので、建立当初から「金閣」と称されていた。
5 北山殿は、足利義満の死後、義満の院号「鹿苑院」にちなんで、鹿苑寺とされた。
(答:4 ※写真を見れば歴然だが一層に金はなく黒々としている
※2〇初層の西側には、池に張り出して、「漱清」という1間四方の切妻造、吹き放しの小亭が付属している)
〈2016早大・社会科学
室町時代の文化は後世に大きな足跡を残した。(中略)また、禅の精神を反映した(6)この時代の建築や庭園には、後世、日本文化の精髄と称される要素が数多く組み込まれている。
問8 下線部(6)に閔する記述として、不適切なものはどれか、2つ選べ。
イ 鹿苑寺金閣……現在の金閣は太平洋戦争後再建されたものである。
ロ 慈照寺銀閣……銀閣は三層の楼閣である。
ハ 慈照寺東求堂同仁斎……典型的な書院造として知られる。
ニ 天龍寺庭園……苔寺の異称をもつ回遊式庭園である。
ホ 大徳寺大仙院庭園……枯山水の代表的な庭園といわれる。
(答:問8ロ・ニ ※イ〇1950年(昭和25年)に放火により焼失、ニ.苔寺は西芳寺の異称)苔で裁縫。
〈2013明治大学・商
室町幕府の体制が確立されるにともなって、将軍家を中心とする武家文化が形成された。その前提には、足利尊氏による京都での開幕以来、多数の地方武土が上洛して集住し、公家の伝統文化にかかわったことがあげられる。3代将軍の足利義満はA[1)1391 2)1392 3)1397 4)1399 5)1401]年に京都の北山に壮麗な山荘を完成させた。そこに建てられた金閣の建築様式は伝統的な寝殿造風と禅宗寺院の禅宗様をあわせたものであり、この時代の文化は北山文化と称されている。
(答:3)〉