1457年5月 コシャマインの戦い
Battle of Koshamain; Ainu people led by Koshamain rebel against Wajin but are defeated.
一死御難だ コシャマイン。
1457年 武田信広 コシャマイン
渡島半島南部に館を構えた和人の館主らに対してアイヌの不満が高まった。1457年、アイヌの大首長コシャマインに率いられたアイヌがいっせいに蜂起したが、蝦夷地南岸に居住した小豪族蠣崎氏の客将武田信広がコシャマイン父子を射殺し、乱を鎮圧。蠣崎氏を継いで蝦夷地の支配者となった武田信広は松前氏の祖とされる。
[ポイント]
1.蝦夷ヶ島とよばれた北海道先住のアイヌは、漁労・狩猟や交易を生業として、和人と交易もおこなった。14世紀には畿内と津軽の十三湊(とさみなと)とを結ぶ日本海交易がさかんにおこなわれ、サケ・コンブなど北海の産物が京都にもたらされた。
2.本州から和人が、の道南部に進出し、各地の海岸に港や館(道南十二館)を中心にした居住地をつくった。その一つ、函館市にある志苔館(しのりだて)からは、14世紀末から15世紀初め頃に埋められた合計約37万枚の中国銭が出土しており、この地域の経済的繁栄を物語っている。
3.和人は、津軽の豪族安藤(安東)氏の支配下に属して勢力を拡大した。和人の進出はしだいにアイヌを圧迫し、たえかねたアイヌは1457(長禄元)年、大首長コシャマイン(?~1457)を中心に蜂起し、一時は和人居住地のほとんどを攻め落としたが、まもなく上之国(かみのくに)の領主蠣崎(武田)氏によって制圧された。
5.蠣崎氏の祖武田信広がコシャマインの戦いののちに築城した勝山館(北海道檜山郡上ノ国町)からは、武家屋敷跡や職人の工房跡、倭人・アイヌの墓地などの遺構のほか、日本・中国産の陶磁器やアイヌの骨角器など、多数の遺物が出土している。それ以後、蠣崎氏は道南地域の和人居住地の支配者に成長し、江戸時代には松前氏と名乗る大名となった。
6.松前氏は、1604(慶長9)年、徳川家康からアイヌとの交易独占権を保障され藩制をしいた。和人地以外の広大な蝦夷地の河川流域などに居住するアイヌ集団との交易対象地域は、商場あるいは場所とよばれ、そこでの交易収入が家臣にあたえられた。松前氏と家臣団との主従関係は、このアイヌとの交易権を知行としてあたえることで結ばれており、この制度を商場知行制とよぶ。
〈2016早大・社会科学
北方では、人びとは本州から北海道の南部に進出し、港や館を中心に新しい生活を作り上げていった。道南十二館の1つ、[ A ]から出土した14世紀末から15世紀初め頃の大量の中国銭が、この地域の繁栄を物語っている。
問6[ A ]に該当するものはどれか。1つ選べ。
イ花沢館 ロ比石館
ハ穏内館 ニ志苔館
ホ茂別館
(答:ニ)〉
〈2015早大・人間科学
問4 下線部d十三湊を含む本州から、蝦夷地の渡島半島に渡った和人たちにより築かれた館のうち、40万枚近くに及ぶ中国銭が出土した館はどれか、1つ選べ。
ア比石館 イ箱館
ウ茂別館 エ花沢館
オ志苔館
(答:オ)〉
〈2014明大・農(食料環境政策)
問7 下線部(エ)蝦夷地に関連して、古くから北海道で生活をしていたアイヌに関して記述した以下の文章のうち、適切でないものを一つ選べ。
A 和人の進出にたえかねたアイヌは、1457年、大首長コシャマインを中心に蜂起した。
B 上之国の領主蠣崎氏は、道南池域の和人居住地の支配者に成長し、江戸時代には松前氏と名乗って蝦夷地を支配する大名となった。
C アイヌの口承文学「ユーカラ」は、民族の神々(カムイ)や英雄の長編叙事詩である。
D 明治政府は、1899年にアイヌ文化振興法を制定したが、アイヌの生活や文化の破壊をくい止めるものにはならなかった。
(答:D×1898年に制定は北海道旧土人保護法、アイヌ文化振興法は1997に制定)〉
〈2013慶大・商
蝦夷地では,松前氏が幕府からアイヌとの交易独占権を認められていた。松前氏は( e )とよばれるアイヌとの交易地域の権利を家臣に[ ]として与えた。
(答:知行、e商場〔場所〕)〉