1467年5月(応仁元年)応仁の乱(~77年):細川勝元ら、山名持豊と対立。
一死虚しき 京に乱。
1467年 京都 応仁の乱
[ポイント]
1.応仁の乱は、1467年にはじまった、足利義政の弟義視と子義尚その母日野富子が、および有力守護大名細川勝元(東軍)と山名持豊(西軍)がそれぞれ争った戦乱である。
[解説]
1.嘉吉の変後、将軍権力の弱体化にともなって有力守護家や将軍家にあいついで内紛がおこった。まず畠山・斯波の両管領家に家督争いがおこり、ついで将軍家でも8代将軍足利義政の弟義視と義政の妻で子の足利義尚をおす日野富子のあいだに家督争いがおこった。単独相続がはじまり、嫡子の立場が庶子にくらべて絶対的優位となったため、その地位をめぐる争いが多くなった。とくにこのころになると、大名などの家督決定が、父親の意志だけでなく、将軍や家臣の意向に大きく影響されるようになり、家督争いはますます複雑化した。
2.そして当時、幕府の実権をにぎろうとして争っていた細川勝元と山名持豊(宗全)が、これらの家督争いに介入したために対立が激化し、1467(応仁元)年、ついに戦国時代の幕開けとなる応仁の乱がはじまった。
3.守護大名はそれぞれ細川方(東軍)と山名方(西軍)の両軍に分かれて戦い、主戦場となった京都は戦火に焼かれて荒廃した。1467(応仁元)年5月、東軍は将軍邸を占拠して、いったん義政・義尚・義視を手中にしたが、翌68(応仁2)年11月、義視が西軍に走り、東西二つの幕府が成立した。応仁の乱は、1477(文明9)年、戦いにつかれた両軍のあいだに和議が結ばれて終戦をむかえ、守護大名の多くも領国に下ったが、争乱はその後も地域的争いとして続けられ、全国に広がっていった。この争乱により、有力守護が在京して幕政に参加する幕府の体制は崩壊し、同時に荘園制の解体も進んだ。
〈2016関西学院大学・全学部
6 次の文章について、a・bの正誤を答えなさい。
a.応仁の乱では、足利義政の子義視を後継に推す東軍に細川勝元、義政の弟義尚を推す西軍に山名持豊がそれぞれ属した。
b.後期倭寇の中には中国人の密貿易者も多数おり、日本に鉄砲がもたらされたのもそのような船からであった。
(答:ウa×、b〇 ※義視は弟で義尚は子)〉