プッチーニは、『トゥーランドット』を書き終えることなく、
この世を去りました。
初演の日、指揮者トスカニーニは
第3幕のリューの死の場面が終わると指揮棒を置き、
観客に向かって、こう言いました。
「ここで・・・この部分で、ジャコモ・プッチーニは
彼の仕事を終えました。
彼にとって、死は芸術よりも強かったのです。」
補筆された幕切れまでのシーンまでを“完全に初演”されたのは
翌日のこと。
リューの死までを作曲したところで、
プッチーニは力尽きたのです。
~~~~~~~
リューには、モデルとなった実在の人物がいたと言われます。
彼女の名前はドーリア。
プッチーニ家で働く若い小間使いでした。
自動車事故で足を骨折し、動けなくなっていたプッチーニの
身の回りの世話をするために雇われたドーリア。
当時、まだ16歳でした。
よく気がつき、よく働くドーリアは、プッチーニの足が完治した後も、
小間使いとして彼の家で働いていました。
・・・が、プッチーニの妻エルヴィーラが、二人の関係を疑い始めたのです。
お陰で、ドーリアは仕事を辞めざるを得なくなりました・・・。
しかし、エルヴィーラの追求は収まらず、
精神的に追い詰められたドーリアは、服毒自殺をします。
~~~~~~~
ドーリアとリューの関係については、
プッチーニは一言も語っていないようです。
彼の書簡などにも、書かれていないと思います。
付け加えるならば、
幕切れのトゥーランドットとカラフの2重唱の部分の台本を受け取ったのは
1924年の10月・・・死の1ヶ月前です。
癌が進行して、気力も体力も衰弱していく中、
最後まで妥協を許さずに書き直させ続けた・・・ラスト・シーン。
愛を知らぬ冷たい女性の心が、愛によって目覚め、
優しい女性として生まれ変わる、大切なラスト・シーン。
・・・プッチーニには、そのシーンを作曲する時間が
残されていませんでした。
トゥーランドットへの熱い思いが、
作曲家から作曲する時間を奪ったのです。
「リューの自殺」までを書き終えて、
プッチーニは入院をし、手術をします。
「リューの自殺」を書き終えるまでは、頑なに入院を拒否していたそうです。
死を予感していたかもしれない彼は、
リューのシーンだけは、自分の手で書きたかったのでしょうか。
手術は成功・・・しかし、遅すぎました。
手術から5日目の朝、プッチーニは息を引き取りました。
~~~~~~~
台本が仕上がるのが遅すぎた。
彼の体力が限界に達してしまったのが、
偶然にも、リューのシーンを書き終えた時だった。
・・・それが真実かもしれません。
しかし、偉大な作曲家の最期に、
特別な想いを持ってしまうのは、当然のことでしょう。
進行する前に、癌細胞が取り除かれていたら・・・
もしプッチーニが、もっと早くに手術を受けていたら・・・
もしプッチーニが、リューのシーンまでは
絶対に自分の手で書くのだと意地を張らなかったら・・・。
真実は分かりませんが、
今回は、補筆された部分を演奏しない“純プッチーニ版”での上演。
偉大な作曲家が息を引き取ったのと同じ瞬間に、
息を引き取ってしまう女性を歌えるという経験が出来ることを
楽しみたいと思います。