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文武天皇が天子になった日の決意

2018-02-16 12:24:25 | 72文武天皇は元号を建てた

(持統天皇と文武天皇が暮らした藤原宮の址)

持統天皇は太上天皇として孫の軽皇子を支え続けました。

それは、文武天皇が15歳という若さで即位したからです。政務について知らないことが多いので、持統天皇の援助は不可欠だったのです。その文武天皇の歌は、万葉集には一首あるのみです。それも「或は御製歌」とされています。

万葉集巻一「大行天皇、吉野にいでます時の歌」

74 み吉野の山のあらしの寒けくに はたや今夜(こよひ)も我が独り寝む

文武五年(701)二月の吉野行幸時の歌です。

臣下が献上したとしても、天皇御製歌としても、非常にさみしい歌ですね。この時、文武天皇は二十歳くらいで血気盛んな若者だったでしょうに、吉野宮に遊びに来ても、家族や夫人たちはついてこなかったのでしょうか。

二月は春です。鳥は鳴き、花は咲き始めていたでしょう。しかし、風は寒い。そこに愛する家族がいて行幸の宴を楽しんだ…感じがしませんね。持統太上天皇も一緒ではありますが、御付きの華やかな女性もいなかったのでしょうか。

藤原不比等の娘の宮子が文武天皇の夫人でしたが、文武天皇の傍にはいなかったのでしょう。宮子が首皇子(聖武天皇)を生むのは、この年の十二月です。宮子も後宮に上がって五年も子どもを産めなかったのです。さぞや父や兄たちから責められたことでしょうね。

さて、文武五年の吉野行幸ですが、吉野にどんな目的があったのでしょうか。遊びというより、翌月の三月に建元するので、その準備だったのではないでしょうか。身を浄めていよいよ建元するのだという、儀式を成功させるために心の準備をしていたのではないでしょうか。

75 宇治間山 朝風寒し 旅にして衣かすべき妹もあらなくに

    右一首 長屋王(高市皇子の長子)

この行幸には、長屋王も同行していました。この時二十六歳で無位でしたが、歌は文武天皇と並んでいます。高貴な長屋王より先に歌が載せられているので、やはり、74番歌は天皇御製でしょうね。

文武天皇の吉野行幸は、二度の記録があります。文武5年=大宝元年と、大宝二年です。持統天皇が足しげく通った吉野に、文武天皇が出かけたのは、「天子」になる準備だった、それは持統天皇の願いだった、と思うのです。持統天皇も「朱鳥」の元号を試みますが続きませんでした。孝徳天皇も「大化・白雉」と元号を持ったようですが途切れました。今度こそ、文武天皇に天子の道を進んで欲しい、持統天皇は願った筈です。

 

文武天皇が天子になったのはそれは即位年ではなく、大宝元年です

そうです。当たり前のことですが、持統天皇が譲位して、確かに文武元年(697)に軽皇子が即位しました。しかし、元号を建てたのは、文武五年(701)三月で、大宝元年になります。はじめて元号を持ったのですから、ここで「天子」となったのでした。私年号と言われる「九州年号」は700年で終わっていますから、ここで、年号を建てる権利が移譲されたのかも知れませんね。

元号を持ってはじめて、文武天皇は天子となった

文武天皇は藤原宮で政務を取りました。しかし、持統太上天皇が崩御すると、藤原宮からの遷都が計画されるのです。大極殿もあり、朝堂院もあるのに何がいけなかったのでしょうね。天子の宮殿は北にあるべきという思想に合致していなかった、律令にふさわしい都ではなかったからでしょうか。

藤原宮は都の中心にありました。北に天子の宮殿がある中国の都城とは違っていたのです。

文武天皇は在位中忙しかったことでしょう。新しいことの連続でしたから。

律令を持ち、元号を持ち、銅銭を鋳造し、遣唐使を任命し、諸国を巡察させる、後は史書を持つこと。

文武天皇は天子として邁進しつづけました。そのために、病に倒れたのかも知れません。夫人となった藤原宮子は首(おびと)皇子を生むとマタニティブルーになったのか、閉じこもりました。吾子も抱けないほどの状況で、文武天皇には心配だったでしょう。

そんな文武天皇は難波宮にも行幸しています。

それも、何らかの儀式だったのでしょうか。過去の難波天皇への報告の儀礼だったのでしょうか。文武天皇の難波宮行幸は、律令に取り組む前と、律令を発布行使した後です。そこには大きな意味があったはずです。

行幸に同行した人たちには、その行幸の真の意味は伝わらなかったようですが。

わたしは、持統天皇が難波宮天皇の話を十分にしていたと思います。ですから、文武三年に難波宮を訪れたと思います。そこには、長く役所が置かれていましたから、学ぶべき事が沢山ありました。そこで、律令についても学んだことでしょう。

文武天皇は懐風藻に残された漢詩の如く、天子として自分を律しながら生きた人でした。

余りに理想を求めて、体を壊したのだと思えてなりません。胸のそこで、父と母の言葉をかみしめながら、祖母の言葉を指針にしていたことでしょう。しかし、二十五歳の若さでの崩御でした。

この文武天皇を失ったとき、母の阿閇皇女はどう思ったでしょうね。やはり、その意思を継ぐべきだと考えたのではないでしょうか。

だから、涙をのんで阿閇皇女は即位したのでした。

また、次回に。