おほきみの遠の朝廷とあり通う嶋門を見れば神代しおもほゆ
人麻呂が筑紫國に下る時に詠んだ歌ですが、あまりにも有名ですね。この歌を読みながら、人麻呂は筑紫に何をしに行くのだろうか、神代とは何時だろうか、「朝廷」とあるから伊弉冉や伊弉諾の神代ではなく、祖先の大王の神代であれば誰の王朝だろうか、とか様々に考えます。
それも、人麻呂個人が「大王の遠のみかど」と通っているのではなく、「通い続けている人々」が、「遥かに遠い大王の朝廷」と、そう思っているというのです。では、「遠のみかど=筑紫」に我が大王の朝廷があったということでしょうか。
「遠の」とは、距離の隔たりが大きい、時間の隔たりが大きい、心理的な隔たりが大きい、複合した思いでしょうね。
「大王の遠の朝廷」が人麻呂の旅の目的地で、そこは筑紫国。なかなか意味深な表現ですね。どんな歴史があったのでしょう。では、
古事記・日本書紀に筑紫はどのように書かれているか、です。
筑紫国*律令制での筑後国や筑前国の前、大化改新が行われる前にあった古代の国で、筑紫国造が治めていた。
日本書紀では、『筑紫国造』と書かれ、先代旧事本記「国造本紀」では、『筑志国造』と書かれる。
筑紫君の祖先は大彦命(8代孝元天皇の皇子)*安倍氏・膳氏・筑紫国造ら、7氏の祖。不思議ですね、安倍氏は関東で勢力を伸ばしています。しかし、筑紫ともつながっていた…何かありそうですね。この事について、わたしはもう一つのブログで追及していますが、ここでは煩雑になるので割愛します。
残念なことに、筑紫国の何処に行ったのか、何もわかりません。ただ、人麻呂の羇旅歌八首が万葉集に残されています。読んでみましょうか。行きと帰りの歌が八首並んでいます。
とても狭い範囲が詠まれていますね。明石海峡を通り稲日野を見ながら、下って行ったのですね。
249番歌の「舟公宣奴嶋尓」には決まった読みがありません。①ふねこぐきみはのるかぬしまに ➁ふねこぐきみはかよふぬしまに ③ふねなるきみはうべなぬしまに ④ふなひとさわくみぬめのしまに などなど10例ほどあります。
上の八首のうちの四首に「一本に云うと紹介された歌」があります。こちらの方が後の人に読み継がれてようです。
天平八年、後の世の人・遣新羅使が誦詠したのでしょう、巻十五に「柿本朝臣人麻呂の歌に曰」と上の四首とほぼ同じ歌(3606~3609)が掲載されています。
伊藤博氏は「人麻呂内海行路の歌として一本歌四首がのちのちまで伝えられており、それが人麻呂原案系統に属することを保証しよう。」といいます。後の人にも人麻呂の歌として伝わったのは、この四首だというのです。
人麻呂は天平の時代も歌のヒジリとして、名を遺していたのでしょうね。
3609 武庫の海の にはよくあらし いざりするあまのつり船 なみのうへゆみゆ
武庫の海の漁場は風も潮の具合もいいらしい。漁をしている海人の釣舟が波の上に見えている。
人麻呂が当時の人々の憧れの歌人だったとしたら、暗誦されて誰もが知っている歌を書き換えるのは難しかったでしょう。と云うことは、人麻呂の歌は書き直されずにかなり残されたかも知れません。万葉集の「人麻呂歌集」は、「人麻呂作歌である」という研究成果が出されています。では、人麻呂の体験や考え、出くわした事件、当時の世相などかなり残された可能性もありますね。
天平八年(736)は、人麻呂の死からかなり立っているのですが、人麻呂の名も歌も伝説のように残されていたのですから。人麻呂歌集に、期待が高まります。そこに何が書かれているのか。
人麻呂は魅力的な人だったのですね。でも、その死は刑死だった…当時の人は、その事も承知していたのでしょう。それを承知で、人麻呂の歌を誦詠したのです。
では、人麻呂歌集も読みましょうね。