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万葉集は不思議と謎の宝庫。万葉集を片手に、時空を超えて古代へ旅しよう。歴史の迷路に迷いながら、希代のミステリー解こう。

41大津皇子の賜死

2017-03-13 00:58:51 | 41大津皇子の賜死

 


  41・大津皇子流涕して作らす御歌

大津皇子は若く賢く父の帝の期待を背負っていました。妻は蘇我赤兄の娘(常陸)と天智天皇の間に生まれた山邊皇女でした。草壁・大津・高市の三人は、すべて正妃は天智天皇の娘です。それも蘇我氏系の皇女でした。この事実は三人が選ばれた特別の存在だということを示します。しかし、大津皇子は死なねばならなかった…

 天武天皇崩御の前後の記述から分かるのは

 

朱鳥元年(686)5月、天皇(天武)の病を占うと、草薙劔(くさなぎのつるぎ)の祟りというので、劔を熱田社に安置。

 仏法にて病の平癒を誓願。

諸国は主な神社に幣を奉り、天皇の病の平癒を祈念。

 天下のことは全て皇后と皇太子に啓上せよ」の勅。

 朱鳥元年とする。(ここで、急に年号が出てきましたが、何故か続きません。)

皇太子・大津皇子・高市皇子に封四百戸(この時期に、三人の皇子に封!?) 

9月4日・皇子・諸臣ことごとく川原寺で天皇の病平癒を誓願。 

99日・天皇崩御 

911・殯宮を建てる 

924・殯の礼。大津皇子が謀反を起こす 

102・大津皇子の謀反が発覚 

103大津皇子に賜死山辺皇女 (特別な存在だった皇子一人が消える)

 万葉集巻三・挽歌に残された大津皇子の無念

  大津皇子、死を被(たまは)リし時に、磐余の池の堤にして涙を流して作らす歌一首

 416 百伝ふ磐余の池になく鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ

   右、藤原の宮の朱鳥の元年の冬十月

 大津皇子は異母兄弟の草壁皇子と皇位を争って敗れたとされています。朱鳥元年(683)の十月、自邸で死を賜りました。書紀に「皇子大津」と書かれ、罪人としての刑死でありました。

その臨死の歌は『雲隠りなむ』と、いかにも王者らしく凛としています。

彼は、「我身は死しても王者として名を残そう」と思ったのでしょう。大津は自身を極位に上るべき存在だったと思っていたのですから。謀反というより、「皇位継承者」として当然の主張をしたのかも知れません。十分に熟慮を重ねた上の決断だったはずです。

さて、草壁皇子は天武十年に立太子されたと書紀には書かれています。「草壁皇子を立てて皇太子としたまふ。よりて万機を摂(ふさねをさ)めしめたまふ」と。しかし、この時も天武天皇の親政は続いていましたから、皇太子に万機を任せたのではありませんでした

 また、草壁は天武十二年(683)皇太子になったと「本朝皇胤紹運録」にあります。

いずれにしても、天武天皇即位後十年経ての非常に遅い立太子です。吉野盟約(天武八年)で草壁が皇太子と約束されていたのなら、天武十二年は遅すぎです。十四年没の天武帝にとっては最晩年ですから、皇太子を決めるのが遅くなった理由があるでしょう。

また、書紀の「天武十二年」には、大津皇子「朝政を聴く」と書かれています。本朝皇胤紹運禄の草壁の立太子が正しければ、同じ年の「朝政を聴く」の大津皇子との二人の立場が微妙になります。

天武天皇としては、大津皇子に極位への道を用意しておきたかったのではないでしょうか。太田皇女の忘れ形見ですから。

よく考えると、「朝政を聴く」には大津皇子の皇族内の位置が明確に表れています。彼こそ皇太子候補で、天武天皇の嫡后の第一皇子だったのではありませんか…大津の母は太田皇女ですから。持統天皇の姉という太田皇女が嫡后だったことは十分に考えられることです。

父も母も失った大津皇子が無念の死を遂げたのは、父の死後ひと月のことでした。

彼の慟哭は風の音となり、今もわたしたちに届いているでしょう。 

さて、鵜野皇女(持統天皇)は嫡后ではなかったのでしょうか? この話はあとで。

 

これらの出来事のことごとくを、草壁皇子は承知していました。もちろん高市皇子も承知していたでしょう。草壁・大津・高市は特別な位置に在りましたから、三人は天武天皇の本音も承知していたでしょう。草壁と高市が大津皇子の皇位継承の可能性を考えていたなら……この事件は見過ごされたでしょうか。

草壁皇子としては大津を認めてもよかったと思います。大津皇子は姉にも相談し、決心を固めていた。しかし、事は謀反とされ、大津皇子は死を賜った。その決断を下したのは、高市皇子となりますね。

天武帝の期待した大津を死なせてしまったこと、その死を草壁皇子が苦しまないはずはありません。皇太子でありながら即位しなかった大きな理由は、ここにあると思います。

草壁皇子は責任を感じたのです。大津皇子謀反事件、 このことが、草壁皇子の心を縛り、即位を拒否したのではないか、と思うのです。

草壁皇子は苦しんだ挙句、高市皇子に皇位継承を託しますが、母が承知しません。群臣と母と高市皇子の取り巻き勢力の板挟み、母との三年間の軋轢を経て、ついに…皇子は自ら命を絶ったと思います。

だから、書紀の草壁皇子薨去の記述は短く、何の付け加えもありません。万葉集の挽歌も「高市皇子の挽歌」より短いのです。人麻呂が崇拝する持統帝の息子の挽歌を粗末にするわけはありません。

彼は、あれ以上書けなかった。
悲しすぎて、悔しすぎて書けなかったのです。だから、草壁皇子の舎人の挽歌は延々と続きました。これが、私が日本書紀と萬葉集から読んだことです。

額田王は何を思って草壁皇子の菩提を弔う寺を建てたのか。

石舞台古墳のある明日香の島の荘の何処に草壁の「嶋の宮」があったのか。

義淵僧正も岡寺を建て草壁皇子を弔いました。

では、悲運の大津皇子を弔ったのは誰でしょうか。20年ほど前に二上山に登った時、わたしは山頂近くの墓の前で立ちすくみました。辺りに人はいませんでした。春でしたので桜を見に来た人はいたと思います。

また明日


40大津皇子の愛

2017-03-12 22:48:15 | 40大津皇子の愛

草壁皇子のライバルは、本当に大津皇子だったのか? 

女性問題に関しても、草壁皇子は大津皇子にポイントを取られていたと解釈されています。草壁皇子の歌は、集中に次の一首のみです。

日並皇子尊、石川郎女に贈り賜ふ御歌一首 郎女、字(あざな)を大名児といふ

110 大名児 彼方(おちかた)野辺に 刈る草(かや)の 束(つか)の間も われ忘れめや

ああ大名児、彼方の野辺で刈る草の一束のツカのような、ほんの束の間もわたしはお前を忘れることはない。

 この歌の前に、大津皇子と石川郎女の歌があります。

   大津皇子、石川郎女に贈る御歌一首

107 あしひきの山のしづくに妹待つと吾立ち濡れぬ 山のしづくに

貴女をずっと待っていたのであしひきの山のしずくに私はすっかり濡れてしまった。

   石川郎女こたえ奉る歌一首

108 吾を待つと君が濡れけむあしひきの山のしづくにならましものを

私を待って貴方が濡れてしまわれた、その山のしずくにわたしがなれたらよいのに。わたくしは貴方に逢いに行けないのですから。

このように歌が並んでいますから、二人は相愛だったのです。しかし、理由があって二人は逢うことができなかった。石川郎女は、すでに草壁皇子に召されていたのです。それでも、密に大津は歌を贈り山で待ったけれど、石川朗女は逢いに来れなかった。しかし、ほどなく二人はひそかに逢ってしまった。 

 大津皇子、ひそかに石川郎女に婚(あ)ふ時に、津守連通、その事を占へ露(あら)はすに、皇子の作る御歌一首

109 大船の 津守が占に告(の)らむとは まさしに知りて 我がふたり寝し

大船が泊まる津と同じ津という、津守の占いに現れるとは、将にこちらも承知のうえでふたりは寝たのだ。

 こうしてみると、石川郎女を奪ったのは大津皇子で、草壁皇子はまだ未練がある、と読み取られています。大津皇子と石川郎女(大名児)はもともと恋仲だったのかも知れません。

 

この恋は大津皇子が優位だったという説ですが、確かに、石川郎女を引き付けるほど、大津皇子は文武に優れた魅力的な青年だったのでしょう。

「懐風藻」にも漢詩を残し、日本書紀にも「詩賦は大津より始まる」と書かれています。何より天武十二年(683)「朝政を聴く」とあり、朝政に参画していました。天武天皇の大きな期待が大津皇子に掛けられていたのは間違いないのです。

当時の宮廷の官人も周囲の豪族も大津皇子に期待していました。持統帝も草壁皇子もそれを知らないはずはありません。草壁皇子の「大名児」の歌は、この歌物語の最後に置かれています。この位置は微妙です。二人が恋仲であることが分かった後の歌なのですから。上記の草壁皇子の「大名児」の歌、『彼方野辺おちかたのべ』をあらためて読み直してみましょう。

「大名児、彼方野辺に刈る草の 束のあいだも われ忘れめや」 大名児よ、わたしは何処か分からない彼方の野辺で刈り取られた草の一束のように、ほんの束の間もお前を忘れることはないが、それは、何処か分からない彼方の草だ。だから、お前も彼方の草と同じ、それでいい。

とも読めるかなア。「大名児」を何処か分からない野辺の草にたとえたのです。これは読みすぎでしょうか。石川朗女は名を大名児・山田郎女と云いました。

大名児とは、宮廷の侍女だったのでしょうから、豪族倉山田石川麿系の娘だったのかも知れません。自由に恋ができない宮仕えの女性と大津皇子の恋を許したのではないでしょうか。つまり、草壁皇子は二人の恋を承知していたということです。

それにしても、大津皇子は大胆ですね。たとえ皇太子に召された女性でも愛してしまうという。その大胆さが悲劇を招いたのかも知れませんね。自由闊達は魅力でもあり、危険でもありました。若くて才能のある危険な皇子は当時の人を限りなく魅了したのです。その事を喜ばないのは誰だったのか。それが問題です。

万葉集巻二の124に「大津皇子の侍(侍女のこと)石川朗女、大伴宿祢宿奈麻呂に贈る歌一首」があります。この石川朗女(山田朗女)が大名児であれば、大津皇子の許に侍女として仕えたということです。大津皇子賜死の後も生き抜いて、大伴氏と歌のやり取りをしたということなのです。

やはり、草壁皇子が許していたのでしょうね。だから、大津皇子事件後も草壁皇子薨去後も宮廷の侍女として強く生きたのでしょうね。万葉集には石川郎女・石川女郎という名が出てきます。そのうち同一人物もいるでしょう。➁③④⑤は同じ人でしょうか。⑥は大伴安麿の妻で、大伴坂上郎女の母です。この人は蘇我氏の出だったとされます。すると、➁~⑥は同一人物でしょうか。

 次は、「大津皇子の賜死」にまつわる歌です。


39舎人はまどう・草壁皇子の薨去

2017-03-09 13:36:11 | 39草壁皇子の舎人の挽歌

草壁皇子の突然死に舎人たちは嘆く

(治田神社は岡寺の前にある。発掘により礎石と基壇が見つかっている。ここが元の岡寺という)

草壁皇子がどんな病で亡くなったのか、書紀には書かれていません。その薨去に対して責任を取ったものもいません。ですが、舎人は深く嘆いています。「舎人等かなしびて作る歌二十三首」これが葬送儀礼としての挽歌だとしても、たくさんの情報があるはずです。何処に住んでいたのか、何処でなくなったのか、どんな生活だったのか、どんな期待があったのか。

さて、詠んでみましょう。

①高照らすではなく、「高光る」日の皇子だから、直接統治をした人ではなく、皇族のひとり。「高照らす」は統治者を飾る詞。嶋の宮で国をおさめられるはずだった。

➁住まいは嶋宮である。そこには池があり、鳥を飼っていた。

③殯宮は佐多の岡に作られ、陵墓は檀の岡に作られる。

 ①舎人たちは草壁皇子がずっと元気に御殿に居られると思っていた。

➁皇子の御殿は御門も柱も大きかった。が、今は人もいなくて物音もしない。

③皇子は遊猟が好きで、狩の毛の衣を着て時を選んでお出かけになった宇多の大野を心から偲んでいる。

④陵墓をつくる人々が通る道を殯宮への道として舎人も通っている。陵墓は貧窮の近くに作られている。

 草壁皇子は病弱だったのでしょうか

草壁皇子の挽歌・舎人が詠んだ反歌二十三首が並んでいました。

173 高光る わが日の皇子のいましせば 嶋の御門は荒れずあらましを

174 よそに見し 檀の岡も 君ませば 常つ御門ととのいするかも

183 我が御門 千代とことばに栄えむと 想ひてありし 吾し悲しも

191 毛衣を ときかたまけていでましし 宇田の大野は 想ほえむかも

 皇子を「日の皇子」と尊び、墓所となる「檀の岡」はよそ事だと思っていたのに宿直することとなってしまって、「我が主人は千代に栄える」と思っていた自分が悲しい。狩の装いの毛衣を着て、宇多の大野にお出でになった時のお姿が忘れられない…と読めますね。皇子は元気だった…狩が好きな健康な人だったのでしょう。

やはり、突然の薨去だったのです。

皇子の死は人麻呂の歌のように「天皇の敷きます国と 天の原岩戸を開き神上がり上がりいましぬ」(ここは天皇の治められる国だからと、自ら天の原の岩戸を開けて神上がりされ亡くなられた)という言葉から、尋常な病死などではなく、自死だったと思われます。

では、自ら死を選ぶ理由は何でしょうか。そこに皇位継承の問題が絡んでくると思うのです。大津皇子事件とのかかわりです。

もうひとつの草壁皇子と大津皇子との関係はどうでしょうか。石川女郎を二人で争ったとされています。これも、また明日。

(板蓋宮の想像図・持統天皇はここで政務を取っていた。)

女帝はひとり息子の死をどう受け止めたのでしょう。


38柿本人麻呂、草壁皇子の死を傷む

2017-03-08 14:00:52 | 37草壁皇子の霊魂に触れた文武天皇

柿本朝臣人麻呂、草壁皇子の挽歌を詠む

草壁皇子の隠された薨去の事情(1) 

日本書紀のおける草壁皇子の薨去の記事はわずかです。亡くなったと書かれているのみです。

「御病したまう」とか、病気平癒を願って何人得度させたとか、記述はありません。草壁皇子の娘の氷高皇女が病気になった時、持統帝は140人を出家させました。明日香皇女(天智帝の娘)の病気の時にも104人を出家させています。

それなのに、草壁皇子のために出家した人はいません。皇太子だったのに。

それも突然の薨去だったようです。それを人麻呂はどう読んだのでしょうか。

草壁皇子の挽歌は、巻二の「藤原宮御宇天皇(持統天皇)の代」に167番歌として掲載されています。

ちなみに167番歌の前には、大津皇子の姉・大来(大伯)皇女の歌・163~166番歌が置かれています。罪人として死を賜った大津皇子を偲ぶ姉の歌です。

その後に、わずか三年足らずで大津の後を追うように薨去した草壁皇子の挽歌があるのです。当時の人は大津皇子事件の賜死の事情を十分に知っていました。

まだ大津皇子への同情も残っていたでしょう。大津は天武天皇の寵愛厚く、臣民の期待の星でした。周囲の者は草壁皇子のために大津は死なねばならなかったのかも知れない、この位の想像はしたでしょう。そこに、草壁皇子の突然の死でした。

天武天皇の後継者が相次いで亡くなったことになります。周囲は次の後継者を裏側で様々に取りざたしたでしょう。

そんな状況下で行われた草壁皇子の葬儀でした。皇子に送られたのは「日並皇子尊」です。諡(おくりな)でしょうか。「日に並ぶ皇子」とは、大王たる「日の皇子」に並ぶ存在ということです。

 

日並皇子尊の殯宮(あらきのみや)の時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌一首幷短歌

 

 167 天地(あめつち)の初めの時の 久かたの天の河原に 八百万(やほよろず) 千万(ちよろず)神の 神(かむ)集(つど)い 集いいまして 神(かむ)はかり はかりし時に 天照らす 日女(ひるめ)の命 天(あめ)をば 知らしめせと 葦原の水穂の国を 天地(あめつち)の 依りあひの極み 知らしめす 神の尊(みこと)を 天(あま)雲(くも)の八重かき分けて 神下し いませ奉(まつ)りし 高照らす 日の皇子は 飛ぶ鳥の 浄(きよみ)の宮に 神ながら 太しきまして 天皇(すめろき)の しきます国と 天の原 岩門(いはと)を開き 神(かむ)上(あ)がり 上がりいましぬ わご大王 皇子の命の 天の 下 知らしめしせば 春(はる)花(はな)の 貴(とふと)くあらむと 望月(もちづき)の たたはしけむと 天の下 四方(よも)の人の 大船の 思いたのみて 天(あま)つ水 仰ぎて待つに いかさまに おもほしめせか つれもなき 真弓(まゆみ)の岡に 宮柱(みやはしら) 太しきいまし みあらかを 高知りまして あさことに 御言(みこと)とはさず 日月の まねくなりぬる そこ故に 皇子の宮人 行方(ゆくえ)知らずも

 

この挽歌の大意は次のようになります。

 

天と地が分かれた初めの時、久かたの天の河原に、八百万の神々が集まられて、その集まりの中で話合われた時に、天照らす日女(ひるめ)命は天上を治めることになり、また、葦原の水穂の国を天と地の依りあう極みまでお治めになる神の命を、天雲の幾重にも重なった雲をかき分けて、神々がお下しになった。その高い天から照らすように日の皇子が、飛鳥の浄の宮に神のようにおいでになったのに、この国は天皇のご統治になる国であると、自ら天の原の岩戸を開けて、現世から天界に神上がりされてしまわれた。

 

もし、我が大王である皇子尊が天の下を統治なさっていたら、春の花よように素晴らしく、満月のように欠けることなく、世の中のあらゆる地域の人は大船に乗ったようにすっかり安心して、天からの雨を空を仰ぐように待っていたのに、どのように思われたのであろうか、何のゆかりもない真弓の岡に殯宮を高々と建てられ、朝(あさ)毎(ごと)の仰せもない、そんな日が長く重なり続いてしまった。そのために、皇子の宮人はこれからどうしていいか分からないのである。

 

 続くのは、反歌二首(反歌とは、長歌と同じ内容を繰り返す短歌のこと)

 

 168 久かたの天(あめ)見るごとく仰ぎ見し 皇子の御門(みかど)の荒れまく惜しも

 

遥かなる天空を見るように仰ぎ見た皇子の宮殿が荒れてしまうと思うとたまらなく寂しい

 

169 茜さす日は照らせれど 烏(ぬば)玉(たま)の夜渡る月の隠(かく)らく惜しも

 

太陽は赤々と照り輝いているのに、真っ暗な夜を渡っていく月が隠れるように、お隠れになってしまったことが悲しくてたまらない

 

  或本の歌一首

 

 170 島の宮まがりの池の放(はな)ち鳥 人目に恋(こひ)て 池に潜(かづ)かず

 

皇子がお住まいになった島の宮の池の放ち鳥も、人の目が恋しいのか、池に潜ることもなく、池に浮かんでいる。皇子がいらっしゃらないからだ。

 

 長歌の内容を次のように分けてみました。

 

(1)

 

①八百万の神が集まり決めたのは、天を治めるのは天照大神である(神代の話)

 

②葦原の水穂国を治めるために天から下りて来たのは、神の命(現世の大王)

 

③その日の皇子(草壁)はこの国は天皇が統治なさる国だと神上がりされた(自分は天皇ではないということ?)

 

④もし、皇子尊(草壁)が統治されていたら皆よろこんだろうに

 

⑤殯(もがり)も長くなり、皇子(草壁)の宮人はこの先どうしていいか分からない

 

と、五つの内容で長歌は構成されています。

 

しかし、大方の現代語訳は、日の皇子を天武帝としています。

 

(2)

 

①大昔、神々が集まって天照大神に天を治めさせ(神代の話)

 

葦原中津国を治めるために神の命として天より下されたのが(天武)

 

浄の宮に統治された日の皇子(天武)は、天皇が統治される国として神上がりされた 天武帝が自ら神上がりした?)

 

④もし、皇子尊(草壁)が統治されていたら、世の中の人も喜んだろうに

 

⑤殯の日が多く長くなると、皇子の宮人の不安も大きくなっていく

 

上下のどちらが人麻呂の歌に近い訳なのでしょうか。わたしには人麻呂は「草壁こそが天の許しを得た後継者だ」と詠んだと思うのです。だから、(1)と読みました。

「持統帝と草壁皇子の歌のなぞ」誰か読み解いてください。

 

 

( 明日香の岡寺です。石舞台古墳の近くです)

明日香の岡寺の近くに草壁皇子が育ったという旧岡寺跡(岡宮跡)があります。ここが義淵僧正によって建立されたというもともとの岡寺のようです。義淵は草壁皇子の所縁の地を寺にしたのでした。現在の岡寺の正面にある治田神社の辺りです。

急峻な崖の上に古代の寺は建てられたのですね。いまは治田神社となっています。

 

やや急な階段です。朝晩ここを使うのはしんどい、かな。

では、なだらかな道を通って帰りましょう。今の岡寺の塔を見ながら。

草壁皇子の薨去の事情は、まだ続きます。

ここで付けくわえておかねばならないことは、人麻呂は皇子の死は「突然」であり、自ら岩戸を開けて「かむあがり」したというのです。つまり、自死だったと詠んでいるのです。

また明日。


37草壁皇子の霊魂に触れた文武天皇

2017-03-07 23:12:37 | 37草壁皇子の霊魂に触れた文武天皇

草壁皇子の霊魂に触れた文武天皇

「軽皇子、安騎の野に宿リます時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌」は、長歌です。この後に続く短歌四首

46 阿騎乃野尓 宿旅人 打靡 寐毛宿良目八方 古部念尓 

安騎の野に 宿る旅人 うち靡き 寐も寝らめやも いにしへ思ふに

あきののに やどるたびびと うちなびき いもぬらめやも いにしへおもふに

日並皇子の想い出の阿騎の野に来て、旅寝をする者たちは、手足を伸ばしてぐっすり寝られはしないだろう。日並皇子が狩をされたころのことを思い出すと、なかなか眠れないのだ。

 

47 真草刈 荒野者雖有 葉 過去君之 形見跡曽来師

47 ま草刈る 荒野にはあれど 黄葉の 過ぎにし君が 形見とぞ来し

まくさかる あらのにはあれど もみじばの すぎにしきみがかたみとぞこし

ま草を刈るような荒野ではあるけれど、黄葉のようにはかなく亡くなってしまわれた日並皇子の形見の地だからこそ、跡継ぎの皇子も我々もここに来たのだ。

皇子の霊魂にお逢いするために、冬の阿騎野に来たのだ。

 

48 東 野炎 立所見而 反見為者 月西渡

48 東の 野に炎の 立つ見えて かへり見すれば 月西渡る

ひむがしの のにかぎろいの たつみえて かへりみすれば つきにしわたる(つきかたぶきぬ) 

夜が明けて来て、東の空にかぎろいが立ち始めた。清々しい朝日が昇って来るのだろう。西の空を振り返ると、一晩中若い軽皇子を照らしていた月が、西に渡り沈もうとしている。月が隠れ、朝日が昇る。ああ、日並皇子が息子の軽皇子に太子位を譲られたのだ。

 

49 日雙斯 皇子命乃 馬副而 御獦立師斯 時者来向

 49 日並の 皇子の命の 馬並めて み狩立たしし 時は来向ふ

ひなみしの みこのみことの うまなめて みかりたたしし ときはきむかふ

あの日、御狩が始まろうとしたあの時、日並皇子の命が馬を一斉に並べて、御狩の壮麗な装いと凛々しいお姿でお立ちになった、あの瞬間がもうすぐやって来る。その瞬間に、今、軽皇子が立ち向かわれるのだ。

 

人麻呂は「葉」のみを「もみじば」と読ませました。

『葉』は此処だけの表現と思います。

上の四首に詠まれているのは父の草壁皇子。軽皇子の姿は見えにくい。人麻呂は心ゆくまで、在りし日の凛々しい草壁皇子の姿を詠みました。

 

草壁皇子は、持統称制(しょうせい)三年(689)四月に亡くなりました。

皇太子でありながら即位せず、母の持統帝が代わりに政務を取る『称制(しょうせい)』という政治体制になっていました。

なぜ、皇太子でありながら草壁皇子は即位しなかったのか。

歴史上の大きな疑問です。

持統帝は草壁皇子が即位するのを待って称制を続けていました。

そこに、皇太子草壁皇子の薨去(689)でした。

持統帝は必至で耐え、ついに即位(690年)したのです。

草壁皇子の忘れ形見の軽皇子の成長を待って。

軽皇子(文武天皇)は十歳を越え、帝王学を学ぶ時期になりました。

皇太子になるために、父の草壁皇子の霊魂に触れなければなりません。

それが為の、阿騎野における冬の狩でした。

父の草壁皇子の狩場で一晩過ごし、霊魂に触れたのです。 

父の霊魂に触れた軽皇子(文武天皇)は十五歳で元服し、即位(697年)します。殯は藤原宮子(藤原不比等のむすめ)でした。

草壁皇子は気弱でも病弱でもありませんでした。狩が好きで何度も出かけたようで、その姿を皇子の舎人(とねり)(近習のひと・御付きの人)も歌に詠んでいます。皇太子として即位できないほど病弱ではなかったのです。

万葉集の数多くの謎は、有間皇子(658年没)を読まなければ解けません。更に、草壁皇子(698年没)も重要な鍵を持っているのです。

この二人の存在が持統天皇を生かし動かし続けたのでした。

万葉集とは、よろずの葉(もみじば)の歌集です。人麻呂はそういう意味を「万葉」に託したのです。ひとりの女性の思いと鎮魂の詩を「万葉」に込めたのです。

それが、安騎野の冬猟の詩篇で分かるのです。すぎにし人の霊魂に触れる歌集だと。

文武天皇の陵墓は中尾山古墳とされ、この道の奥に在ります。

見えてきました。奥の墳丘が八角形墳の中尾山古墳です。更に奥の谷を隔てた丘に高松塚古墳があります。中尾山古墳から直線で200mの南です。真南に当たります。

 


36柿本人麻呂の安騎野の冬猟歌

2017-03-06 16:25:56 | 36草壁皇子の形見の地を歌う

人麻呂が訪ねた草壁皇子の形見の地

草壁皇子の霊魂に触れるために、軽皇子も形見の地を訪れた

東の太陽・西の月が象徴する譲位

柿本朝臣人麻呂は、天武朝の皇子・皇女のために歌を献じています。草壁皇子や高市皇子の挽歌も詠んでいます。

人麻呂の歌の中で最も有名なのは「東の野にかぎろいの立つ見えてかえり見すれば月かたぶきぬ」でしょう。これは、万葉集・巻一の「(かる)皇子、安騎(あき)野(の)に宿リます時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌」の後についている短歌四首の内にある一首です。軽皇子(文武天皇)は、皇太子になるために父(草壁皇子)の霊魂に触れねばなりませんでした。

その為に、阿騎(あき)野(の)へ宿リに出かけたのでした。阿騎野は、草壁皇子の形見の地だったのです。

形見の地で亡き人の霊魂に触れる儀式をしたのです。人麻呂が紀伊国で持統帝の霊魂に再会しようとしたことと同じです。

 

 万葉集巻一の45~49番歌

「軽皇子、安騎の野に宿リます時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌」は、長歌(45)です。この後に続く短歌が四首(46~49)となっています。

長歌は内容的に幾つかに分かれています。

世を統治なさる大王が日の御子として神のようにお過ごしになっている都を離れて、ここへ来られた。

とはいえ、軽皇子はまだ13,4歳くらいの少年です。父の草壁皇子は持統三年に薨去しました。翌年に、草壁妃の阿閇皇女を連れて紀伊国に行幸しました。(その時、軽皇子は7,8歳の少年でした。)都を離れて行幸するには、何かの目的があったのです。

持統十年に高市皇子が薨去し、半年後の十一年2月に軽皇子の立太子、その半年後に15歳で軽皇子は即位しました。安騎野の冬猟は立太子の前でしょうか。後でしょうか。都を出て山の中に入るには、大きな理由があったでしょう。

わたしは高市皇子の薨去の後に、急ぎ軽皇子を皇太子にする必要があったのだと思うのです。だから、冬の安騎野の草壁皇子の形見の地へ出かけたのです。皇太子としての資格を得るために、父の霊魂に触れに行ったのです。そうとしか思えません。

月が西に沈み、太陽が東から昇る日はいつでしょうか。やはり、冬ですから冬至の太陽の日の出を待ったのでしょう。

安騎野への山道は岩が多く荒れて険しかったけれど、大事な行事のために来たのだ

それも冬の真っただ中、小雪が降る野に竹やススキを刈り敷いて宿リするのも大事な儀式のため

その儀式とは、古を偲ぶこと

という展開になっています。

病弱とされた草壁皇子は狩が好きでした。果たして病弱だったのでしょうか。

軽皇子は父に霊魂に触れる場所として、安騎野を選んだのでした。

そうして夜を過ごし、いよいよ夜明けの日が昇る。その時を短歌に詠んでいます。

短歌は、明日

 


35持統天皇の形見の地を訪ねた柿本人麻呂

2017-03-05 23:08:21 | 35柿本人麻呂が偲んだ持統天皇

 

人麻呂が偲んだ持統天皇

万葉集・巻九「挽歌」の冒頭の五首

巻九の挽歌の冒頭は『宇治若郎子の宮所』の歌でした。人麻呂歌集に置かれた五首はセットです。一緒に並べたから意味があるのです。
そして、宇治若郎子の運命を有間皇子の運命と重ね、皇子が皇太子だったこと、父王に極位を譲られていたこと、無情にもその命を政敵により奪われたことを伝えたのです。
一首目は寓意のある歌でした。

次が

紀伊国に作る歌四首

黄葉(もみじば)は、故人・亡き人のことです。人麻呂は、他にも『葉』と書いて、葉(もみじば)とも読ませています。

1796・黄葉の過ぎにし子らと携はり遊びし磯を見れば悲しも

 もみじばのすぎにしこらとたづさはりあそびしいそをみればかなしも

 亡くなってしまった愛する人と手を取り合って遊んだ磯を見ると悲しくて仕方ない。あの人は、確かにここに来た。 

紀伊国で、愛する人と遊んだとき、その人は独りではなかったのでしょうね。大勢の女官を従えての旅だったということ。

 1797・塩気立つ荒磯にはあれど往く水の過ぎにし妹が形見とぞ来し

しおけたつありそにはあれどゆくみずのすぎにしいもがかたみとぞこし

 浪が荒くて潮の香り立つ荒磯ではあるけれど、流れ去った水のように鮮やかに亡くなってしまったあの人の形見だからこそ、わたしは此処へ来た。

あの人の形見のこの地で、あの人の霊魂に会い、あの人の意思を確かめる為に、此処に来た。

更に、

塩気立つ荒磯に流れ去る水ののように亡くなってしまったあの人は、昔ここに来た。有間皇子の形見の地として、あの人はここへ来た。しかし、今わたしはあの人の形見の地として、ここへ来たのだ。

「形見とぞ来し」は重要な言葉です。霊魂に出会うための詞であり、行為なのです。次の「文武天皇の冬猟」のところでもお話しましょう。

 1798・いにしへに妹と吾が見し黒玉の黒牛方を見ればさぶしも 

 いにしへにいもとわがみしぬばたまのくろうしがたをみればさぶしも

以前、あの人と黒牛方を見た時、その真っ黒な岩を見ても寂しくはなかったが、今はあの人がいないことで、こんなにも悲しく寂しいのだ。

黒牛方の痕跡があるのは、和歌山県黒江です。藤白坂を下りたあたりの海に、人麻呂は来ているのです。 

 

1799・玉津嶋磯の浦みの真砂にもにほひにゆかな妹も触れけむ 

 たまつしまいそのうらみのまなごにもにほひにゆかないももふれけむ 

 紀伊川の下流域に浮かぶ数々の島の浦の真砂にもしっかり触れて行こう。その砂は、むかしあの人が何度も何度も触れて涙を流した真砂なのだから。私も真砂にふれて、あの人の想いを染みこませて帰ろう。

 

人麻呂が、なぜ紀伊国に旅をしたのか、分かりますよね。

大事な人を亡くした後に、その形見の地を訪ねたのです。

その人との思い出は、海で遊んだこと・黒牛方を見たこと。

このくらいの思い出の地を形見?

いえ、人麻呂は「故人が形見の地としていたところ」に来たのです。

そこは、持統帝が深く心に抱いていた思い出の海辺。

人麻呂は故人の心の裡に触れてしまっていたから、故人の望みに報いる以外なかったのです万葉集の編纂をやりとげ、文武帝に献上すること。

愛し合ったとは書かれていません。

敬愛するあの人が触れた真砂にも触れて行こう、あの人が触れたに違いないから。

持統帝崩御後、人麻呂は万葉集の編纂をして、文武天皇(持統天皇の孫)に献上する約束を果たそうとしていた。しかし、人麻呂は躊躇していたのです。

なぜなら、そこに皇統の秘密が書かれていたのですから。

文武帝にそのまま献上してもいいのか、持統天皇の霊魂に確かめたのでした。

 

果たして、持統帝のこたえは?

このことは、いずれ『人麻呂の我は事挙げす』で触れましょうね。

 

 


34 中大兄の三山歌の意味

2017-03-04 23:35:41 | 34中大兄の三山歌

中大兄の三山歌の意味

有名な、いわゆる「ヤマト三山歌」と呼ばれる歌が、巻一の13番歌にあります。

  

 (川原宮跡を望む・斉明天皇の宮跡であり、殯宮の後でもある)
天智天皇は九州で崩じた斉明天皇を飛鳥に連れ帰り、ここ川原宮を殯宮の地としました。
斉明天皇が崩御しても尚、中大兄は即位していません。二十年以上も皇太子のままでした。
長い皇太子時代のどこかで詠んだ「(ヤマト)三山歌」は、明日香の三山を有名にしましたね。

この歌の題詞に中大兄とあり、中大兄皇子とは書かれていません。それに。皇太子の歌なのに「御歌」とも書かれていません。なぜなのか、大方が疑問を投げかけているのです。
「中大兄」という単なる家族内の地位を示しているのでしょうか。もう一つ上の大兄がいる(古人大兄皇子、中大兄の異母兄)という意味ですね。

さて、万葉・巻一では三山を、高山(かぐやま)、雲根火山(うねびやま)、耳梨山(みみなしやま)と表記しています。

詠んでみましょう。
13 香具山は以前から畝傍山(女性)を失うのは惜しいとおもっていて、その事で耳成山と争った。神代からこのようなものであるらしい。昔も、このように争ったのだろう。だからこそ、今の世でもこのように妻を取り合って争うものらしい。

14 香具山と耳成山が妻争いをした時、わざわざ仲裁に来たのだろうか。伊南国原の神は。

15 まるで海神のような豊旗雲が空を流れ、そこに入日が射して輝いている。今夜はきっと澄みきった素晴らしい月夜になるだろう。

この堂々とした歌は中大兄が本当に詠んだのか。二人の男性に争われた女性は誰だろうか、などなど様々な憶測が飛び交う歌でもあります。
更に、畝傍を惜しと、これには「雲根火雄男志等」の万葉仮名が使われています。この字から畝傍を男性と読み、「二人の女性が一人の男性(嬬)をあらそった」と読む人もいます。

額田王を中大兄皇子と大海人皇子が争った歌だというのです。
しかし、ホントに、三角関係の歌でしょうか。よく考えてみましょう。この歌には、政治的なにおいが漂います。
 

  

(天の香具山は、藤原宮の東に見えます)

(藤原宮の北に耳成山が控えています)

耳成山の近くには、この時代の宮の跡や古墳がありません。耳成山をトーテムとしたのは、高市皇子でした。天武朝になって、藤原宮を造営する時、表に出て来た山です。中大兄の時代、この勢力はなりを潜めていますが、力をのばしていたのです。
畝傍山には、神武・綏靖、懿徳など、なんだか古い王たちの墓があります。事実はわかりませんが、中大兄の時代にも古い伝承の氏族の本貫だったのでしょう。
天香具山は、万葉集巻一の2番歌の「舒明天皇が国見をした山」です。将に、舒明天皇の氏族の山なのです。
甘樫丘の蘇我氏は滅んでいます。すっかり臣下の地位に成り下がっていますから、問題ないのです。だから詠まれていないのです。

(甘樫の丘には、蘇我氏の邸宅がありました)

政治的に、耳成山と香具山が畝傍を取り込もうと、争っているのです。まるで妻を争うかのように。しかし、伊南国原の神が心配したかも知れないが、争いは終わるだろうと、中大兄は予祝しました。
それを、寿ぐかのように豊旗雲が大空にはためくように流れているではないか。きっと、素晴らしい御代になるだろうと、次の代を寿いでいるのです。


ここで、改めてはっきりしたことは、中大兄は舒明天皇の系譜であることです。そして、耳成山の勢力と対峙していた。鍵を握るのは、磐余彦系の古い勢力だったということです。その系譜は畝傍山に象徴されるのです。

中大兄とは何者か、このことが三山歌から読めるのです。
舒明天皇は、応神天皇と継体天皇という大和への侵略者の家系とされています。そうであれば尚更、最初の侵略者であるカムヤマトイワレビコの家系を取り込みたいはずですね。

女系を取り込んで、王家としての皇統を盤石なものとしたいのです。

だから、畝傍山は女性なのです。必要なのは、男ではありません。政治的に畝傍山の系譜の女性を手に入れることは大事なことでした。

(畝傍山は藤原宮の西に在ります)

 

 天香具山の南の甘樫丘は、天樫丘だったのかも知れませんね。

 耳成山の南の白ポイントは藤原宮です。

 

 


33 天智天皇は自由奔放だった?

2017-03-03 19:50:15 | 32天智天皇を愛した額田王

33  天智天皇と鏡王女

 

鏡王女の墓は、舒明天皇のすぐそばに在ります。

舒明天皇の陵墓の前を通り抜けると、

目の前にこんもりした塚(円墳)が見えます。

 

鏡女王と名が見えます。

そこにあの有名な天智天皇との相聞歌の説明板があります。

中大兄皇子の時代に賜った歌です。

91 妹が家も継ぎて見ましを やまとなる大嶋の嶺に家もあらましを

愛しい貴女の家を続けてずっと見ていたい。やまとの大嶋の嶺にわたしの家があったらいいのに。あなたの家をずっと見続けられるから。

92 秋山の樹の下隠りゆく水の吾こそ益さめおもほすよりは

秋の山のふり積もった落ち葉の下を隠れるように流れていく水のように、水はだんだん流れとなり大きくなっていくのですが、その流れのようにわたくしの思いの方が大きくまさっております。殿下が思って下さるよりも。

二人の蜜月はどのくらいあったのでしょう。中大兄は額田王に心惹かれていきました。

額田王の「488我がやどの簾動かし」の歌があります。続いて、鏡王女の歌、

489 風をだに恋ふるはともし 風をだに来むとし待たば何か嘆かむ

おいでになったと思ったのが風だったのですね。でも、風だったにしてもお出でになるかも知れないと思って待っているのですもの、とても幸せなことではありませんか。わたくしは風が吹いてもあの方が来られたと思う事は、ありませんから。

そうして、中大兄は鏡王女を藤原鎌足に賜うのです。その時の王女の思いが万葉集に残されています。

489番の王女の歌は、「鏡王女の作る歌」となっていますが、92番歌は、「鏡王女和して奉る御歌一首」とあり「御歌」です。これは、鏡王女が皇族だった可能性を示唆しています。

王女の陵墓が舒明天皇の横ですから、舒明天皇の皇女だったのかも知れません。中大兄皇子の異母兄弟として妃になっていたのかも知れません。

皇女であったからこそ、臣下の鎌足に嫁ぐことは意に沿わないことだったのでしょう。

しかし、鎌足の室となった王女は藤原氏に尽くしたのでした。

 


32 額田王が分かるページ

2017-03-02 09:48:44 | 32天智天皇を愛した額田王

額田王は天智天皇を愛した

そうですよね。若い時は大海人皇子(天武天皇)を愛した額田王でしたが、最後まで仕えたのは天智天皇でしたね。

額田王は政治的な女性

更に、額田王は恋多き女性だったのでしょうか。

美女だったようですが。

万葉集にも額田王の恋の歌はあります。恋の相手は天智天皇です。巻四と巻八に。

額田王、近江天皇を思いて作る歌一首

488 君待つと吾が恋おれば我がやどの簾(すだれ)動かし秋の風吹く

*巻八1606は、巻四488と同じ題詞で同じ歌

あなたが何時お出でになるかと待っていると、わたしが恋しく思っているからでしょうか、わたしの館の簾を動かして秋風が吹いてきました。簾をうごかしたのは、あなたではなかった…

 

(斉明天皇の川原宮跡・天智天皇はここで母の葬儀をした)

万葉集中の額田王の歌は、78916171820112113151155488・(1606)の13首のうち1首は重複してるので、12首。

 

7は、額田王(兎道若郎子の京を歌った・悲運な皇太子を暗示

 

8は、額田王(百済救援軍として熟田津を就航する時の歌

 

9は、紀温泉に幸す時に額田王の作る歌(有間皇子事件当時の詠歌

 

8は、斉明天皇御製歌とも「類聚歌林」にかかれているという。天皇に代わって額田王が歌を詠んだと云われているのです。いずれも斉明天皇の時代の歌です。額田王は若かったのに、上の三首は恋愛とは関係ないようですね。

 

 16は、天皇、内大臣藤原朝臣に詔(みことのり)して、春山の万花の艶(にほい)と秋山の千葉の彩(いろ)とを競ひ憐れびしめたまふ時に、額田王が歌をもちて判(ことわ)る歌(天皇の詔で判定する歌

 

17は、額田王、近江の国に下る時に作る歌、井戸王、すなわち和ふる歌(近江遷都の時の詠歌

 

18は、17の反歌

 

20は、天皇、蒲生野に遊猟したまふ時に、額田王が造る歌(天皇の宴席での詠歌

 

 16は、非常に文化的な内容での天皇の詔です。春と秋のどちらが優位なのかを、額田王が判定するのです。次は、遷都の時の詠歌と「類聚歌林」に書かれているので、公的な詠歌です。その次も、天皇の前で詠んだもの。額田王は、立場的に公の場で活躍していたと言えます。常に政治の表に立っていたのです。

112は、額田王、和(こた)へ奉る歌一首・倭京より進(たてまつ)り入る(弓削皇子に奉る歌

113は、吉野より蘿(こけ)生す松が枝を折り取りて遣(おく)る時に、額田王が奉り入るる歌一首(弓削皇子に奉る歌

年を取った額田王に若い皇子が様々に問いかけたのでしょう。公的な舞台から身を引いても、若い皇子に頼りにされる存在だったことが分かります。学識経験者として、政治的相談役だったのでしょうか。

151は、天皇の大殯(おほあらき)の時の歌二首(天皇の葬儀の挽歌

155は、山科の御陵より退り散くる時に、 額田王が作る歌一首(天皇の葬送儀礼の挽歌

上の二首は、天智天皇の葬送儀礼の時の挽歌です。倭姫皇后や石川夫人(蘇我石川麿の娘の姪娘)と共に、額田王の挽歌も残されています。額田王の488番歌を見ると近江天皇に愛された女性だったと分かります。しかし、

額田王は天智天皇の嬪や夫人としての記述はありません。では、天智朝では、どんな立場だったのか。それは、後の時代の内侍などのような、政治的な女官でしょうか。女性の任官記事がないので、何とも言えませんが、額田王の歌はかなり政治的ですね。

 では、天智天皇の挽歌(崩御と葬送儀礼に関わる歌

 

額田王は斉明天皇の傍近くで歌を詠みました。万葉集巻一の7番「あきの野の美草刈葺き…」8番「にぎた津に船乗りせむと…」9番「莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣…」の三首がありました。斉明天皇の傍に居た時の歌となっています。ただ、7番歌が詠まれた時期をそのまま認めると、額田王は十一歳くらいになるので、詠歌時期に疑問が生じると言います。

わたしは額田王は優秀な女官だったと思うのです。紫式部や清少納言のような学問を身に着けた女性だったと。女官として公的な場に出て歌を詠んだと思うのです。

もちろん、身分がなけれが学問を身に付ける余裕はありませんから、裕福な王族の娘だったのです。その美貌と知性で斉明天皇に愛され後を承け継いだ天智天皇に仕え、最後まで女官の仕事を全うしたと、思うのです。

そんな額田王が晩年になって、すべてを無くした人なのに、何ゆえに粟原寺を建立したのかということです。彼女が最後まで仕え愛したのは天智天皇でした。なのに、寺は草壁皇子の菩提を弔うための造営でした。天武天皇の皇子の菩提です。なぜ、草壁皇子なのか?

これが、わたしが万葉集の謎を解くカギのひとつとなりました。

あなたは額田王をどんな女性に描きますか?

また明日


31額田王と天武天皇の歌

2017-03-01 12:26:57 | 31額田王と天武天皇の歌

31 額田王天智天皇に最後まで仕えた

額田王は天智天皇の葬儀の最後まで仕えたと何度も書きました。まだ若い前には、大海人皇子との間に十市皇女をもうけています。十市皇女は天智天皇の息子大友皇子の妃となりました。つまり、額田王は天智帝に信頼されていたのです。

では、次の歌をどう詠みましょうか。

天智天皇の即位は晩年でした。皇太子時代が長すぎます。斉明帝が崩御しても即位しなかったのは、玉璽が間人皇后の手にあったからからだと述べてきました。

妹の間人皇后が薨去し、母の斉明天皇と陵墓に合葬した後、天智天皇は即位したのです。そうして即位したのに在位は四年間でした。その即位した年の5月、天皇は蒲生野に遊猟し宴を開きました。額田王と大海人皇子はそこで歌を詠みました。

巻一の20番歌と21番歌です。

20 あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖ふる

紫草の生える野は標を結って立ち入りができない処なのに、あなたは紫野に行ったり標野に行ったり、そこで袖を振ったりなさって、いいのですか。野守が見ないでしょうか。そんな事をなさって。

21 紫草のにほへる妹をにくくあらば人嬬ゆゑに吾恋ひめやも

紫に染められたような美しいあなた、色あでやかなあなたが好きだからこそ、人妻のあなたに惹かれ恋したりするのではありませんか。

額田王は天武帝の子どもを生みましたが、公の宴の場で歌を作り読み上げたのです。王に答えたのが大海人皇子だったのです。天智天皇の深い信頼があっての作歌であったのです。天智帝は文化的なことに関心がありました。

藤氏『家伝』には「朝廷事なく、遊覧是れ好む。人菜色なく、家余蓄あり。民みな太平の代を称ふ」と書かれているそうです。

天智天皇の御代には文化的なサロンがあったのでしょうか。

天皇、内大臣藤原朝臣に詔して、春山の万花の艶(にほひ)と秋山の千葉の彩(いろ)とを競ひ憐れびしめたまふ時に、額田王が歌をもちて判(ことわ)る歌」として次の歌が置かれています。天皇の前で平安貴族のように歌を詠み合っていたようです。春と秋のどちらが素晴らしいかを天皇が鎌足に問うたので、額田王が代わりに判定の歌を詠んだのです。

冬こもりしていたものは春が来ると、これまで鳴かなかった鳥も鳴きはじめ、咲かずにいた花も咲いて来る。けれど、山は茂っているので分け入ることもなく、草が深いので草木を取ることもしない。秋山の樹の葉を見ては、紅葉した葉を手にとってはいろいろと思う。青い葉はそのまま置いて嘆く。そこだけが恨めしいけれど、わたしが選ぶのは秋山です。

 藤原鎌足は天智八年(669)に没していますから、上の歌は天智帝即位から669年までの短い間に詠まれたのです。これは、万葉集の中の多くの歌のように叙事詩ではありません。宮廷の文化的な行事の歌なのです。額田王は公の場で歌を披露しました。王の宮廷での立場が偲ばれます。あまたの女性の中で教養ある存在だったし、天皇の信頼も深かったのでしょう。額田王は既に40歳近くになっていますが、容色の衰えに勝る深い教養と人望があったのです。

また明日