人麻呂が訪ねた草壁皇子の形見の地
草壁皇子の霊魂に触れるために、軽皇子も形見の地を訪れた
東の太陽・西の月が象徴する譲位
柿本朝臣人麻呂は、天武朝の皇子・皇女のために歌を献じています。草壁皇子や高市皇子の挽歌も詠んでいます。
人麻呂の歌の中で最も有名なのは「東の野にかぎろいの立つ見えてかえり見すれば月かたぶきぬ」でしょう。これは、万葉集・巻一の「軽(かる)皇子、安騎(あき)野(の)に宿リます時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌」の後についている短歌四首の内にある一首です。軽皇子(文武天皇)は、皇太子になるために父(草壁皇子)の霊魂に触れねばなりませんでした。
その為に、阿騎(あき)野(の)へ宿リに出かけたのでした。阿騎野は、草壁皇子の形見の地だったのです。
形見の地で亡き人の霊魂に触れる儀式をしたのです。人麻呂が紀伊国で持統帝の霊魂に再会しようとしたことと同じです。
万葉集巻一の45~49番歌
「軽皇子、安騎の野に宿リます時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌」は、長歌(45)です。この後に続く短歌が四首(46~49)となっています。
長歌は内容的に幾つかに分かれています。
①世を統治なさる大王が日の御子として神のようにお過ごしになっている都を離れて、ここへ来られた。
とはいえ、軽皇子はまだ13,4歳くらいの少年です。父の草壁皇子は持統三年に薨去しました。翌年に、草壁妃の阿閇皇女を連れて紀伊国に行幸しました。(その時、軽皇子は7,8歳の少年でした。)都を離れて行幸するには、何かの目的があったのです。
持統十年に高市皇子が薨去し、半年後の十一年2月に軽皇子の立太子、その半年後に15歳で軽皇子は即位しました。安騎野の冬猟は立太子の前でしょうか。後でしょうか。都を出て山の中に入るには、大きな理由があったでしょう。
わたしは高市皇子の薨去の後に、急ぎ軽皇子を皇太子にする必要があったのだと思うのです。だから、冬の安騎野の草壁皇子の形見の地へ出かけたのです。皇太子としての資格を得るために、父の霊魂に触れに行ったのです。そうとしか思えません。
月が西に沈み、太陽が東から昇る日はいつでしょうか。やはり、冬ですから冬至の太陽の日の出を待ったのでしょう。
➁安騎野への山道は岩が多く荒れて険しかったけれど、大事な行事のために来たのだ
③それも冬の真っただ中、小雪が降る野に竹やススキを刈り敷いて宿リするのも大事な儀式のため
④その儀式とは、古を偲ぶこと
という展開になっています。
病弱とされた草壁皇子は狩が好きでした。果たして病弱だったのでしょうか。
軽皇子は父に霊魂に触れる場所として、安騎野を選んだのでした。
そうして夜を過ごし、いよいよ夜明けの日が昇る。その時を短歌に詠んでいます。
短歌は、明日