中大兄の三山歌の意味
有名な、いわゆる「ヤマト三山歌」と呼ばれる歌が、巻一の13番歌にあります。
(川原宮跡を望む・斉明天皇の宮跡であり、殯宮の後でもある)
天智天皇は九州で崩じた斉明天皇を飛鳥に連れ帰り、ここ川原宮を殯宮の地としました。
斉明天皇が崩御しても尚、中大兄は即位していません。二十年以上も皇太子のままでした。
長い皇太子時代のどこかで詠んだ「(ヤマト)三山歌」は、明日香の三山を有名にしましたね。
この歌の題詞に中大兄とあり、中大兄皇子とは書かれていません。それに。皇太子の歌なのに「御歌」とも書かれていません。なぜなのか、大方が疑問を投げかけているのです。
「中大兄」という単なる家族内の地位を示しているのでしょうか。もう一つ上の大兄がいる(古人大兄皇子、中大兄の異母兄)という意味ですね。
さて、万葉・巻一では三山を、高山(かぐやま)、雲根火山(うねびやま)、耳梨山(みみなしやま)と表記しています。
詠んでみましょう。
13 香具山は以前から畝傍山(女性)を失うのは惜しいとおもっていて、その事で耳成山と争った。神代からこのようなものであるらしい。昔も、このように争ったのだろう。だからこそ、今の世でもこのように妻を取り合って争うものらしい。
14 香具山と耳成山が妻争いをした時、わざわざ仲裁に来たのだろうか。伊南国原の神は。
15 まるで海神のような豊旗雲が空を流れ、そこに入日が射して輝いている。今夜はきっと澄みきった素晴らしい月夜になるだろう。
この堂々とした歌は中大兄が本当に詠んだのか。二人の男性に争われた女性は誰だろうか、などなど様々な憶測が飛び交う歌でもあります。
更に、畝傍を惜しと、これには「雲根火雄男志等」の万葉仮名が使われています。この字から畝傍を男性と読み、「二人の女性が一人の男性(嬬)をあらそった」と読む人もいます。
額田王を中大兄皇子と大海人皇子が争った歌だというのです。
しかし、ホントに、三角関係の歌でしょうか。よく考えてみましょう。この歌には、政治的なにおいが漂います。
(天の香具山は、藤原宮の東に見えます)
(藤原宮の北に耳成山が控えています)
耳成山の近くには、この時代の宮の跡や古墳がありません。耳成山をトーテムとしたのは、高市皇子でした。天武朝になって、藤原宮を造営する時、表に出て来た山です。中大兄の時代、この勢力はなりを潜めていますが、力をのばしていたのです。
畝傍山には、神武・綏靖、懿徳など、なんだか古い王たちの墓があります。事実はわかりませんが、中大兄の時代にも古い伝承の氏族の本貫だったのでしょう。
天香具山は、万葉集巻一の2番歌の「舒明天皇が国見をした山」です。将に、舒明天皇の氏族の山なのです。
甘樫丘の蘇我氏は滅んでいます。すっかり臣下の地位に成り下がっていますから、問題ないのです。だから詠まれていないのです。
(甘樫の丘には、蘇我氏の邸宅がありました)
政治的に、耳成山と香具山が畝傍を取り込もうと、争っているのです。まるで妻を争うかのように。しかし、伊南国原の神が心配したかも知れないが、争いは終わるだろうと、中大兄は予祝しました。
それを、寿ぐかのように豊旗雲が大空にはためくように流れているではないか。きっと、素晴らしい御代になるだろうと、次の代を寿いでいるのです。
ここで、改めてはっきりしたことは、中大兄は舒明天皇の系譜であることです。そして、耳成山の勢力と対峙していた。鍵を握るのは、磐余彦系の古い勢力だったということです。その系譜は畝傍山に象徴されるのです。
中大兄とは何者か、このことが三山歌から読めるのです。
舒明天皇は、応神天皇と継体天皇という大和への侵略者の家系とされています。そうであれば尚更、最初の侵略者であるカムヤマトイワレビコの家系を取り込みたいはずですね。
女系を取り込んで、王家としての皇統を盤石なものとしたいのです。
だから、畝傍山は女性なのです。必要なのは、男ではありません。政治的に畝傍山の系譜の女性を手に入れることは大事なことでした。
(畝傍山は藤原宮の西に在ります)
天香具山の南の甘樫丘は、天樫丘だったのかも知れませんね。
耳成山の南の白ポイントは藤原宮です。