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37草壁皇子の霊魂に触れた文武天皇

2017-03-07 23:12:37 | 37草壁皇子の霊魂に触れた文武天皇

草壁皇子の霊魂に触れた文武天皇

「軽皇子、安騎の野に宿リます時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌」は、長歌です。この後に続く短歌四首

46 阿騎乃野尓 宿旅人 打靡 寐毛宿良目八方 古部念尓 

安騎の野に 宿る旅人 うち靡き 寐も寝らめやも いにしへ思ふに

あきののに やどるたびびと うちなびき いもぬらめやも いにしへおもふに

日並皇子の想い出の阿騎の野に来て、旅寝をする者たちは、手足を伸ばしてぐっすり寝られはしないだろう。日並皇子が狩をされたころのことを思い出すと、なかなか眠れないのだ。

 

47 真草刈 荒野者雖有 葉 過去君之 形見跡曽来師

47 ま草刈る 荒野にはあれど 黄葉の 過ぎにし君が 形見とぞ来し

まくさかる あらのにはあれど もみじばの すぎにしきみがかたみとぞこし

ま草を刈るような荒野ではあるけれど、黄葉のようにはかなく亡くなってしまわれた日並皇子の形見の地だからこそ、跡継ぎの皇子も我々もここに来たのだ。

皇子の霊魂にお逢いするために、冬の阿騎野に来たのだ。

 

48 東 野炎 立所見而 反見為者 月西渡

48 東の 野に炎の 立つ見えて かへり見すれば 月西渡る

ひむがしの のにかぎろいの たつみえて かへりみすれば つきにしわたる(つきかたぶきぬ) 

夜が明けて来て、東の空にかぎろいが立ち始めた。清々しい朝日が昇って来るのだろう。西の空を振り返ると、一晩中若い軽皇子を照らしていた月が、西に渡り沈もうとしている。月が隠れ、朝日が昇る。ああ、日並皇子が息子の軽皇子に太子位を譲られたのだ。

 

49 日雙斯 皇子命乃 馬副而 御獦立師斯 時者来向

 49 日並の 皇子の命の 馬並めて み狩立たしし 時は来向ふ

ひなみしの みこのみことの うまなめて みかりたたしし ときはきむかふ

あの日、御狩が始まろうとしたあの時、日並皇子の命が馬を一斉に並べて、御狩の壮麗な装いと凛々しいお姿でお立ちになった、あの瞬間がもうすぐやって来る。その瞬間に、今、軽皇子が立ち向かわれるのだ。

 

人麻呂は「葉」のみを「もみじば」と読ませました。

『葉』は此処だけの表現と思います。

上の四首に詠まれているのは父の草壁皇子。軽皇子の姿は見えにくい。人麻呂は心ゆくまで、在りし日の凛々しい草壁皇子の姿を詠みました。

 

草壁皇子は、持統称制(しょうせい)三年(689)四月に亡くなりました。

皇太子でありながら即位せず、母の持統帝が代わりに政務を取る『称制(しょうせい)』という政治体制になっていました。

なぜ、皇太子でありながら草壁皇子は即位しなかったのか。

歴史上の大きな疑問です。

持統帝は草壁皇子が即位するのを待って称制を続けていました。

そこに、皇太子草壁皇子の薨去(689)でした。

持統帝は必至で耐え、ついに即位(690年)したのです。

草壁皇子の忘れ形見の軽皇子の成長を待って。

軽皇子(文武天皇)は十歳を越え、帝王学を学ぶ時期になりました。

皇太子になるために、父の草壁皇子の霊魂に触れなければなりません。

それが為の、阿騎野における冬の狩でした。

父の草壁皇子の狩場で一晩過ごし、霊魂に触れたのです。 

父の霊魂に触れた軽皇子(文武天皇)は十五歳で元服し、即位(697年)します。殯は藤原宮子(藤原不比等のむすめ)でした。

草壁皇子は気弱でも病弱でもありませんでした。狩が好きで何度も出かけたようで、その姿を皇子の舎人(とねり)(近習のひと・御付きの人)も歌に詠んでいます。皇太子として即位できないほど病弱ではなかったのです。

万葉集の数多くの謎は、有間皇子(658年没)を読まなければ解けません。更に、草壁皇子(698年没)も重要な鍵を持っているのです。

この二人の存在が持統天皇を生かし動かし続けたのでした。

万葉集とは、よろずの葉(もみじば)の歌集です。人麻呂はそういう意味を「万葉」に託したのです。ひとりの女性の思いと鎮魂の詩を「万葉」に込めたのです。

それが、安騎野の冬猟の詩篇で分かるのです。すぎにし人の霊魂に触れる歌集だと。

文武天皇の陵墓は中尾山古墳とされ、この道の奥に在ります。

見えてきました。奥の墳丘が八角形墳の中尾山古墳です。更に奥の谷を隔てた丘に高松塚古墳があります。中尾山古墳から直線で200mの南です。真南に当たります。

 



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