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間人(はしひと)皇后は、間人(たいざ)に逃れたという伝承

2018-04-22 10:29:41 | 74丹後半島に間人皇后を求めて

間人皇后は、タイザに逃れた…という伝承

丹後半島北部の港町、間人(たいざ)には「聖徳太子の母・用明天皇の皇后である穴穂部間人皇后が蘇我物部戦争を逃れて、一次避難した」という伝承が残されています。

避難生活も終わり、ヤマトへ帰る時が来ました。皇后は御名である「間人」を土地に残されたのでした。が、郷人は「畏れ多い」として「皇后の退座」の意味から「退座=たいざ=間人」として地名を「たいざ」とした、のだそうです。

前回紹介した「間人皇后像」は画像の右端にあります。中央に間人皇后伝承の紹介文です。そして、左端に「御所の内」という字名(あざな)が残されているのです。

では、伝承の紹介文から訪ねましょうか。

役所でいろいろお訪ねした後、伝統の祭りが行われるところに行きました。

役所の筋向いの海の近くに、水月神社がありました。

 

水無月神社横の案内板に、間人皇后・東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)・穂見中江麿(ほみのなかえまろ)の名が書かれ、竹野川の運輸を司ったと書かれていました。

 

更に、新しい案内板が社の隣に在りました。

この案内板を建てた東氏が竹野川の「川すそ祭」を古来から執り行っているそうです。

毎年七月二十八日(旧暦六月二十八日)、立岩の上に御幣を立てかがり火をたき、斎宮神社(竹野神社)の宮司の司祭により神事を執り行ってきたが、この水無月祭も衰退してきたので、子孫に伝えるべく神社を立岩(行者岩)の境内地に遷宮した、と書かれています。

東氏は、このような神事を同族のみが執り行うことを不思議に思われていたとのことです。

案内板を読むかぎり、蘇我物部戦争とのつながりは読みにくいのですが。

間人=タイザと呼ばれること、その謂れが「間人皇后に由来」するという伝承は分かりました。

案内板の右手、砂浜の先に間人皇后像と立岩が見えています。

では、「御所の内」を訪ねましょう。

船泊の右手の住宅の中に「御所の内」と呼ばれる場所があるそうです。

三柱神社は小さな入り江を見下ろす丘の上に在ります。お寺の奥に見える鳥居がそれです。

さて、お寺の方に案内してもらって「御所の内」に行きました。

そこは、小さな空き地でした。お地蔵さんが集められていました。

 

石に刻まれた「阿波國二拾三箇所」の文字が読めました。ここで、四国八十八カ所巡りのうちの二十三カ所を廻れたというのですかね。

誰も手を付けない場所として、ここが残された、というのですかね。

と云うことで、間人の町においとまをしました。

伝承は、なかなか難しいものです。

わたしは間人皇后は、孝徳天皇の皇后だと思っています。万葉集を読むかぎり、そう思えるのです。

紀ノ國まで有間皇子を追って行った中皇命がその後どうなったのか、有間皇子を「わが背子」と呼んだ間人皇后は皇子の死後どう行動したのか。

中皇命として、母である斉明天皇に会ったのでしょうか。

中皇命とは「次の大王に玉璽を渡すために、玉璽を受け継いでいる 中継ぎの役目の女性」です。

その女性が紀伊國まで追って行ったのは、有間皇子でした。だからこそ、有間皇子に皇位継承権があったと思うのです。その皇子が殺された、事件のあとの中皇命の行動ですが、どうしたでしょう。

わたしは身を隠したと思うのです。孝徳帝の皇后として、玉璽を預かる中皇命として、最高の地位にある女性として、間人(たいざ)に身を隠した可能性はあると思うのです。

何度も書きましたが、穴穂部間人皇后がこの地に来たとしても、玉璽を預かっていたのではありません。用明天皇が病で伏せている時、蘇我物部の争いを理由に皇后のみ身を隠すのは 変です。

然し、タイザを去る時の皇后の歌を読むと、最高位の女性として「退座」しているのです。状況が穴穂部間人皇后とは、合致しません。それに、用明天皇崩御の後、皇后は義理の息子(用明天皇の皇子)の妻となるのです。

大浜の あら塩風に 馴れし身の またも日嗣(ひつぎ)の ひかり見るかな

大浜の 里にむかしを とどめてし 間人村と 世々につたへん

大浜に つとふみやこの ことの葉は 行末栄ふ 人の間人

間人皇后が大浜の里を退座するのに因んで、間人(退座)村と宛名したと、「間人村濫觴記録」が伝えている、そうです。
 

一挽歌は「大浜の荒い潮風に馴れた我が身が、またもや日嗣の光りを見るのだ(表舞台に立つのだ)」

二番歌は「大浜の里に、昔の伝えをとどめている皇后伝承の『はしひと』村だと後の世に伝えよう」

間人村の人は、伝承の意味を「聖徳太子信仰」に結び付けたと、わたしは思うのです。

個人的には、穴穂部間人皇后の伝承ではなく、孝徳帝の 間人皇后の伝承 だと思うのです。

今回は、ここまでにします。

いずれ、「柳沢吉保は知っていた有間皇子事件と間人皇后の物語」の紹介をしなければなりません。

では。


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