人麻呂が持統天皇の勅により万葉集を編纂した
世間でもこのように云われていますね。万葉集を読む人は誰もそう感じると思います。
万葉集は、誰のために誰が編纂したのか。気になることですよね。初期万葉集は「持統万葉」とか「元明万葉」とか云われています。それは、各天皇の御代の詩歌の数を見れば明らかです。持統天皇の御代が一番多いのですから。
後期万葉集とも様々な点で編集に違いがあります。
さて、万葉集の冒頭歌、巻一の1番歌は、誰の歌だったか覚えていますか。そう、あの有名な暴虐の天皇・雄略天皇です。なぜ、この人なのだろうと、いつも思っていました。
読んでみて、どう思いますか?
案外やさしい人なのかなあ。自分から名を名乗るってどういうこと? 倭を平らげた王だぞと言いながら、菜を摘む娘に敬語を使っているの! とか、色々でしょう。
菜を摘む行為が神事であり、娘は聖女で神に仕えていたから敬語を使ったとか、娘は高貴な家の生まれであったとか。解釈は様々有りますが、私は、「冒頭歌は雄略天皇でなければならなかった理由」があると思うのです。
それは何か?
雄略天皇が允恭天皇の第五子だったことと、深い関係があるのです。大王(天皇)になるためには、他の皇子に死んでもらわねばなりません、でした。
政権への血みどろの戦いがあったことは、どの時代も同じようなものです。
ですが、あえて雄略天皇の、云ってみればどうでもいいような平和な儀式歌が冒頭に上げられたのは、めでたい歌から掲載して「万葉集の穏便な立場を示そう」としたように見えます。
しかし、そうではありません。万葉集は鎮魂歌集です。
不運にも政変の犠牲になった人の、彷徨える霊魂を鎮めるための歌集として、人麻呂が編纂したのです。後世、冒頭に手が入れられなかったのなら、冒頭がそのまま初期万葉集の姿を留めているのなら、ここには、重要かつ決定的な意味があるのです。
シコメちゃんの一言をよく見直してください。允恭天皇の第一子は、木梨軽皇子です。人麻呂は「木梨軽皇子と軽大郎皇女」の物語(伝承)を十分に頭に置いて、冒頭に雄略天皇を持って来たのです。木梨軽皇子は皇太子でした。
誰がどうしても、皇太子のその地位は奪えません。しかし、ただ一つ、同母妹との姦通がありました。それは、タブーだったから無条件に罰することができました。木梨軽太子はこの事件により皇太子の地位を追われ、弟の穴穂皇子(安康天皇)に皇位を奪われるのです。
この事件は万葉集に取り上げられ、軽大郎皇女の歌が掲載されています。
人麻呂はこの事件を引き出すために、万葉集の冒頭に雄略天皇を持って来たのです。
それは、持統天皇の強い願いであったからです。
また明日
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