4 有間皇子を偲んだ男たちは、持統帝の従者
持統天皇は紀伊国に行幸しています。万葉集には、二度の紀伊国行幸時の歌が掲載されています。一度目は、息子で皇太子だった草壁(くさかべ)皇子を亡くした後。
二度目は、孫の文武天皇に譲位した後です。
持統天皇が即位したのは、息子の草壁(くさかべ)皇子を亡くした後でした。
にもかかわらず、従駕した官人たちは、古の有間皇子を偲ぶ歌を詠じました。亡き草壁皇子を偲んだのは、嫁の阿閇(あへ)皇女でした。
なぜ? 不思議です。息子を亡くして悲しいのは持統天皇ではありませんか?
持統天皇は天智天皇の娘となっています。天智天皇の大津宮で、草壁皇子を生んでいます。母としての徳を持ち、礼を好み、節倹であると。その持統天皇が、即位後の紀伊国行幸で従駕の者に詠ませたのが、有間皇子を偲ぶ歌?
なぜだと思いますか?
母として一人息子を亡くすことは、痛手であり苦しみであったはずです。しかし、悲しみに浸ってはおれない状況があったと、そうしか思えません。それで、即位したのでしょう。自分が即位しなければ、皇位は他の誰かに遷るのです。
それは阻止したかった、ということです。
では、即位後の紀伊國行幸時の歌
143 岩代の海岸の松、その枝を結んで願い事をした人は、願い通りに還ってきて再びこの松を見たのだろうか。(松を見ることができたとしても、その後帰らぬ人となってしまったのだ。)
144 岩代の野中に結松は、ずっと立ち続けている。結んだ枝が結ばれたままであるように心も結ばれたまま解けてはいない。古のあの出来事がしきりに思われる。
長忌寸意吉麻呂は、持統天皇の紀伊國行幸に従駕して磐代で歌を詠んでいるのですが、それもひどく悲しんでいます。
従駕の者が勝手に詠んだ歌ではありません。意吉麻呂は主人のために詠んだのです。詠歌を聞いているのは、持統天皇です。女帝は哀咽して詠まれた歌を聞いている。それは、持統天皇の心です。
有間皇子事件から30年ほどたっているのに、まるで、昨日のことのようです。
145 (有間皇子の霊魂は)鳥となって何度も何度も通ってきて松を見ているけれど、人はその事を誰も気が付かないでいる。しかし、松は霊魂に気づいて知っているのだ。
山上憶良は「臣」で、官人となっています。意吉真理の歌に追和しました。そこには、松を見に戻って来る有間皇子の霊魂が詠まれています。有間皇子は、何度も何度も松を見に通って来るという……なぜ?
皇子の霊魂が通って来る訳を憶良は知っていたのでしょう。
146は、柿本人麻呂の歌ですが、詠まれたのは先の長忌寸意吉麻呂の歌から11年後、有間皇子事件から40年以上たった時、大宝元年(701)です。
146 後に見ようと、あの方が結ばれた子松の枝、岩代のこの子松の梢を私は再び見ることができるのだろうか。(子松の梢をを見るのも、これが最後かもしれない)
持統天皇が没したのは、大宝二年十二月(702)でした。紀伊国行幸は、ちょうど崩御の一年前になるのです。
人生の最晩年に、孫の文武天皇と一緒に紀伊國へ行幸した持統天皇。
どういうことでしょうね。ここに、持統天皇とは如何なる人かのヒントがあるのです。
特に、大宝元年の紀伊国行幸に、その意味に。
40年経っても、有間皇子を偲んだ歌を詠ませた人です。
有間皇子事件から三十年以上も経っているのに、即位後に紀伊国行幸をして臣下に皇子を偲ぶ歌を奏上させているのです。大津皇子の謀反事件から三年と少々、その傷も癒えていないと思うのですが。かなり古い事件を歌に詠む意味は何処にあったのでしょう。
では、また明日。
紀州を旅するのが好きで、なぜか有間皇子のことが身近に思われます。有間皇子が持統の前の夫であったということは、ありえないのでしょうか?
今年の夏岩代を訪れましたが、うかつにも松の木の場所には行きませんでした。
とても素晴らしい記事で、またお邪魔します。
有間皇子の年齢は書記では操作されていると思うのです。ですが、持統天皇は日本書紀編纂者も存在を知っていたと思うので、操作しにくいですね。有間皇子事件の時は、13歳だったでしょうから、夫としては無理があります。では、妹? 娘? どう思いますか?