依羅娘子は人麻呂の死を知って、直接には会えないと悟った
巻二の223は、人麻呂の「臨死の時の歌」でした。その歌を伝え聞いた後に、妻の依羅娘子(よさみのをとめ)が歌を詠んでいます。
今日は帰って来るかも知れない、今日こそは、と私が待っている貴方は、石水の貝に交じっているというではありませんか。
もう、あなたに直にお会いすることは、とてもできないでしょう。石川に雲よ立ち渡れ。その雲を見ながらあなたを偲びます。
依羅娘子(よさみのをとめ)から石川は見えているのでしょう。しかし、現代の私たちには石川が何処なのか分かりません。人麻呂が刑死したと思われる「鴨山」も分かりません。
石川が何処なのか色々説があります。石見国(島根県)の江川・高津川・浜田川・女良谷川のいずれであるかとかです。更に、人麻呂を偲んでいる娘子が居る所、そこは島根県ではなく、ヨサミと言う地名と石川が一緒に在る場所となると大阪なのかも知れません。(この方が自然ですが)むしろ、河内の石川説もあるほど、島根では石川が見つからないのです。
娘子が摂津か河内に居るのなら、石見の国の妻・人麻呂が残してきた妻と依羅娘子は別人と云うことになりますね。
依羅娘子は何処で人麻呂の死を知ったのか
歌の通りであれば、依羅娘子は石見の国ではない処で人麻呂の死を知ったのです。誰がその事を伝えたのでしょう。「石水の貝に交じっているというではありませんか」と、人麻呂の死を聞き及び深く揺さぶられました。死の状況が伝わったのです。
死後その墓も分からず「貝、又は谷に交じっている」状況とは、まさにどこかで行き倒れて所在不明状態です。が、知らせたのは誰でしょう。(人麻呂の行倒れ説があるのは、他に死の状況を説明する適切な解釈ができないからですね。)
依羅娘子は人麻呂の死の知らせを聞いて深く驚き、せめて霊魂が雲になって立ち渡ってくれたら偲ぶこともできようと歌を詠みました。もはや雲と言う形でしか逢うことができないのです。(古代の人にとって雲は、亡き人の意思や霊魂でありました。無念や恋心やため息も漂う霧や霞となりました。だから、人麻呂がすでに亡くなりもう直に逢うことはできない時、依羅娘子(よさみのおとめ)は「石川に雲よ立ち渡ってくれ、それを見て亡き人を偲ぼう」と詠んだのです。夫の死を覚悟していたようにも感じられます。)
河内に居る依羅娘子に人麻呂の死を知らせた人物は誰か…
それは、丹比真人ではないでしょうか。つまり、丹比真人は、人麻呂とも依羅娘子とも親しい間柄だったのでしょう。人麻呂の死を伝え、その妻の歌を知りえた人物は限られます。
丹比真人の226挽歌は、「人麻呂に成り代わって歌を詠んで」います。彼は人麻呂の死の場所が荒海であることを理解しているし、人麻呂の「臨死」の歌、
223 鴨山の 岩根しまける 吾れをかも 知らにと妹が 待ちつつあるらむ
という歌や、妻の歌にも対応しています。
人麻呂の死の状況を十分に知ったうえで、妻の歌も読んで、人麻呂になりかわって226番歌を詠んだのです。「ああ、わたしが荒波にもまれながら横たわっていると、妻に誰が知らせてくれたのだろうか」と。
226 荒浪により来る玉を枕に置き 吾れここに有りと誰か告げなむ
人麻呂は自分を待っている妻に思いを伝えたかったに違いないと、丹比真人は思ったのでしょう。では、丹比真人とは、誰なのでしょう。
丹比真人とは、丹比真人島の関係者でしょうか
日本書紀、天武十年に次のような記事があります。
二十九日に、田中臣鍛師(かぬち)、柿本臣猨(さる)、田部連国忍(くにおし)、高向臣麻呂、粟田臣真人、物部連麻呂、中臣連大島、曽禰連韓犬(からいぬ)、書直智徳(ふみのあたいちとこ)、併せて壱拾人に小錦下位を授けたまふ。この日に、舎人造糠虫(ぬかむし)、書直智徳に姓を賜ひて連と曰ふ。(柿本臣猨が人麻呂であるなら、従五位そうとうの地位を与えられています)
天武十一年四月二十一日、筑紫大宰丹比島真人等、大鐘を貢れり。
天武十二年正月弐日、筑紫大宰丹比真人島等、三足の雀を貢れり。
持統三年、直広壱(じきこういち)を以ちて、直広弐丹比真人島に授く。
持統三年、丹比島真人と布勢御主人朝臣と、賀騰極(ひつぎよろこぶること)を奏す。
持統四年、正広参を以ちて、丹比島真人に授けて右大臣とす。
持統五年、正広参右大臣丹比島真人に三百戸、前に通せば五百戸。*川嶋皇子と変わらない封戸
持統十年、十月十七日に右大臣丹比真人に輿(こし)・杖を賜ふ。
持統天皇の丹比真人に対する厚遇には、改めて驚かされます。この丹比真人が柿本人麻呂と親しかったと考えるのは自然ではありませんか。どちらも持統天皇の忠臣ですから。その人が人麻呂に成り代わって歌を詠んだとしたら、誰もが納得するでしょう。然し、彼は「大宝元年(701)七月、左大臣正二位にて没」しているのです。
人麻呂(柿本朝臣猨)が和銅元年(708)没だとすると、丹比島は先に没しているので代わって歌を詠むことはできません。では、丹比真人とは誰でしょう。親しかった丹比島の関係者なら息子の直守か広成でしょうか。
父親と人麻呂が親しかったなら、子どもも人麻呂の顔も業績も知っていたでしょう。深いかかわりのある人物が226番歌を詠んだとすると、丹比真人島の家族以外には考えられません。そして、刑死した人物が人麻呂であるかどうかの確認をしたかも知れません。そうであれば、ことの顛末を十分に承知していたはずです。
そう思って「荒浪により来る玉を枕に置き 吾れここに有りと誰か告げなむ」の歌を読むと、鬼気迫る思いがします。人麻呂の青ざめた亡骸が胸に迫るのです。
では、この辺で。